『リリーのすべて』
風景画家のアイナー(エディ・レッドメイン)は肖像画家の妻ゲルダ(アリシア・ヴィカンダー)のモデルをつとめたのをきっかけに女装に目覚め、やがて女性としての人生を求め始める。リリーと名乗る彼女を描いた作品で評価されるようになったゲルダは夫を連れてパリに移住、そこで心と身体の不一致に苦しむ彼のために、画商としてパリで成功している夫の幼馴染みハンス(マティアス・スーナールツ)を訪ね・・・。
世界で初めて性別適合手術を受けたデンマーク人女性の半生を描いた伝記映画。
時代は全然違うけど、美術大学で絵画を学んだ学生だったころを思いだした。
絵を描くということは一見、描くモチーフを探求する行為と思われがちだけど、実際にはそれだけではほんとうのオリジナリティに辿り着くことはできない。描いて描いて描いて、究極まで対象をとらえつくす過程の中で、描き手は対象の中にある自分自身を発見し、そして今度はそれを完全にとらえつくさなくてはならない。
そこにいるのは誰なのか。何者なのか。どうありたいのか。それをえぐり出してキャンバスの上に引きずり出し可視化することで、見る人の心を響かせる世界が生まれる。
映画の中では直接的に描かれない彼らの学生時代だが、21歳と19歳で結婚したふたりが出会ったころも、そんな風に画面の向こうの、飾りも鎧もないありのままの自分を追いかけあっていたのではないだろうか。
ゲルダはアイナーの中からリリーが現われ、やがて夫が彼女に取って替わられていくのに戸惑いつつも決して逃げ出さず、献身的にリリー/アイナーを支え続ける。
それだけではつい彼女の選択は愛ゆえの自己犠牲のように思えてしまうが、あるいは彼女は、画家として自己に向かいあう中で、本来の自分をみつけだし逃がさず掌中にとらえておくことの尊さを、確かにリリーと共有していたのではないだろうか。ゲルダは表現者としてリリーを通じてそれを手に入れ、リリーはモデルとして我がものにした。それはきっと、このうえなくあたたかく愛おしく、キラキラと輝く感動的な瞬間だったに違いない。その得難い一体感を、ゲルダはリリーといっしょにまもりたかったのではないだろうか。たとえどんなに苦しくても。
いまは絵を描いていない私だけど、何度も恋人や親しい人をモデルに絵を描いたときに感じたあの幸福感は、強く深く心に残っている。小さいけれど親密で穏やかで満ち足りた、ふたりだけのパーフェクトワールド。
映像的には画家同士の物語ということもあり、画面そのものが絵画のように美しく、こないだ観た『アンブロークン』と同じアレクサンドラ・デスプラのスコアも悲劇的に豪華だし、どの場面もどの場面も洗練されていてとても完成度の高い映画でした。
それよりも何よりも心を動かされたのは出演者の熱演。立ち居振る舞いが女性的になるだけでなく、ほっそりと痩せて体つきから少女のように変わっていくエディ・レッドメインのリアリティはもう完璧。天晴というほかないです。彼の美しさは厳密には女性でも男性でもない独特の世界観があるんだけど、確かにものすごく絵になる。絵心を刺激する。
パートナーのゲルダを演じたアリシア・ヴィカンダーはこの作品で初めて観ました。自由闊達で愛情深く自立しつつも、作家として妻としての葛藤と戦うという非常に難しい役どころだったけど、なるほどオスカーに値する名演技だったと思います。この役、うっかりすると可哀想な悲劇のヒロインになっちゃうリスクの高いキャラクターだと思うんだけど、絶対的にそうはならなかったのは多分に彼女のストレートな演技によるものがあったのではないかなと思いました。
史実と違う表現があったり、細部や結末にも脚色が多かったりと、世間ではあれこれいわれてるみたいだけど、私としては、セクシュアリティやジェンダーや夫婦愛といった構造的な要素ではなく、幼いころ凧をなくしてしまった沼地の絵を描き続けながら、ひっそりとその底に棲む自分を救い出そうともがく内面の嵐を、強く結びつけられた絆とともに乗り越えようとする勇敢なふたりの人間の心の旅に感動しました。
もうちょっとそこに注目されてほしいなとも思ったりしましたです。
風景画家のアイナー(エディ・レッドメイン)は肖像画家の妻ゲルダ(アリシア・ヴィカンダー)のモデルをつとめたのをきっかけに女装に目覚め、やがて女性としての人生を求め始める。リリーと名乗る彼女を描いた作品で評価されるようになったゲルダは夫を連れてパリに移住、そこで心と身体の不一致に苦しむ彼のために、画商としてパリで成功している夫の幼馴染みハンス(マティアス・スーナールツ)を訪ね・・・。
世界で初めて性別適合手術を受けたデンマーク人女性の半生を描いた伝記映画。
時代は全然違うけど、美術大学で絵画を学んだ学生だったころを思いだした。
絵を描くということは一見、描くモチーフを探求する行為と思われがちだけど、実際にはそれだけではほんとうのオリジナリティに辿り着くことはできない。描いて描いて描いて、究極まで対象をとらえつくす過程の中で、描き手は対象の中にある自分自身を発見し、そして今度はそれを完全にとらえつくさなくてはならない。
そこにいるのは誰なのか。何者なのか。どうありたいのか。それをえぐり出してキャンバスの上に引きずり出し可視化することで、見る人の心を響かせる世界が生まれる。
映画の中では直接的に描かれない彼らの学生時代だが、21歳と19歳で結婚したふたりが出会ったころも、そんな風に画面の向こうの、飾りも鎧もないありのままの自分を追いかけあっていたのではないだろうか。
ゲルダはアイナーの中からリリーが現われ、やがて夫が彼女に取って替わられていくのに戸惑いつつも決して逃げ出さず、献身的にリリー/アイナーを支え続ける。
それだけではつい彼女の選択は愛ゆえの自己犠牲のように思えてしまうが、あるいは彼女は、画家として自己に向かいあう中で、本来の自分をみつけだし逃がさず掌中にとらえておくことの尊さを、確かにリリーと共有していたのではないだろうか。ゲルダは表現者としてリリーを通じてそれを手に入れ、リリーはモデルとして我がものにした。それはきっと、このうえなくあたたかく愛おしく、キラキラと輝く感動的な瞬間だったに違いない。その得難い一体感を、ゲルダはリリーといっしょにまもりたかったのではないだろうか。たとえどんなに苦しくても。
いまは絵を描いていない私だけど、何度も恋人や親しい人をモデルに絵を描いたときに感じたあの幸福感は、強く深く心に残っている。小さいけれど親密で穏やかで満ち足りた、ふたりだけのパーフェクトワールド。
映像的には画家同士の物語ということもあり、画面そのものが絵画のように美しく、こないだ観た『アンブロークン』と同じアレクサンドラ・デスプラのスコアも悲劇的に豪華だし、どの場面もどの場面も洗練されていてとても完成度の高い映画でした。
それよりも何よりも心を動かされたのは出演者の熱演。立ち居振る舞いが女性的になるだけでなく、ほっそりと痩せて体つきから少女のように変わっていくエディ・レッドメインのリアリティはもう完璧。天晴というほかないです。彼の美しさは厳密には女性でも男性でもない独特の世界観があるんだけど、確かにものすごく絵になる。絵心を刺激する。
パートナーのゲルダを演じたアリシア・ヴィカンダーはこの作品で初めて観ました。自由闊達で愛情深く自立しつつも、作家として妻としての葛藤と戦うという非常に難しい役どころだったけど、なるほどオスカーに値する名演技だったと思います。この役、うっかりすると可哀想な悲劇のヒロインになっちゃうリスクの高いキャラクターだと思うんだけど、絶対的にそうはならなかったのは多分に彼女のストレートな演技によるものがあったのではないかなと思いました。
史実と違う表現があったり、細部や結末にも脚色が多かったりと、世間ではあれこれいわれてるみたいだけど、私としては、セクシュアリティやジェンダーや夫婦愛といった構造的な要素ではなく、幼いころ凧をなくしてしまった沼地の絵を描き続けながら、ひっそりとその底に棲む自分を救い出そうともがく内面の嵐を、強く結びつけられた絆とともに乗り越えようとする勇敢なふたりの人間の心の旅に感動しました。
もうちょっとそこに注目されてほしいなとも思ったりしましたです。