子供の頃に受けた怖い出来事、嫌な事、ショッキングな事、そんな心の傷は、大人になっても、忘れる事は難しいものです。
それを、トラウマというのかなぁ?
ぼくは、父親が貨物船の船乗りをしていた関係で、幼い頃から日本のあちらこちらの港町に連れて行って貰ったものです。
幼い頃は、一年の何か月は、船上生活者の子供だったかもしれません。
でも、幼い頃は、行く先々で、よく大人から「かわいいね」「目が澄んでいるね」と優しい言葉をかけられたものです。
だから、大人という存在は、善であり、100%頼れる、頼もしい未来へ続く世界そのものでした。

そんな幼い頃のある日のことでした。
幼稚園の頃だったかなぁ・・・愛知県の知多半島にある港に父の貨物船が停泊していて、母親の連れられて、愛知県の半田まで行った時のこと。
名古屋から半田まで、国鉄か、名鉄か、電車に乗って行きました。
はっきり憶えているのは、席がボックスタイプでがなくて、都会の電車のように向き合う長い椅子タイプでした。
途中の駅から、若い男が乗り込んで、ぼくの真ん前に坐りました。
歌手の橋幸夫さんに似た狐顔の若い男でした。(橋さん・・失礼!)

当時から、「ボク、可愛いね。」と言われ続けていたぼくは、それが当たり前のことだと思っていました。
しかし、その狐顔の若い男は、きっと笑顔で笑ってくれるかなと思っていると、ニコッともしません。
ぼくと目が合いました・・・狐顔の若い男は、ぼくをずっと睨みつけます。
幼いぼくの経験上、目を離すのは、大人からでした。
ぼくが愛くるしい目つきで見つめても、その狐男は視線を外さす、睨みつけるような表情で、ぼくを威嚇凝視しています。
幼い心は、この異常事態に混乱して、根負けして、下を向いてしまいました。
ちょっこと、目を上げて、その狐男を見ると、勝ち誇ったように顔を窓の外に向けていました。

そういえば、作家の安岡章太郎先生だったかな?
生前のコラムで「新幹線の中で小さな子がはしゃいでいる時には、私は恐ろしい形相で、その子が泣きそうになるぐらいに睨んでやるんだ。勿論、その子の親が見ていない時だよ」と書いていた。
でも、あの時のぼくは、はしゃいでいなかった・・・静かに座っていたはず。
「大人のくせに、大人気(おとなげ)のない大人」という大人への不信感、疑問、不安というものを初めて味わされたのが、幼い日、半田へ行った日の事でした。
キツネ男め!

あれから、60年近い歳月が流れました。
その後、半田という地域は、無意識に遠ざかって、詳しいことはよく分かりません。
昨日、その愛知県半田市まで出かけて参りました。
新美南吉の故郷でもあります。

というのは、上皇后美智子さまが「自身の心の支えとなった」という・・新美南吉の「でんでんむしのかなしみ」の童話を絶賛して以来、ぼくも新美南吉の作品を読むようになりました。
新美南吉の作品には「狐(きつね)」の話が、よく登場します。
教科書にも登場する名童話「ごんきつね」「手袋を買いに」。
その舞台となっているのが、ナント!・・・半田だったのです。
新美南吉記念館、生家、南吉が見たであろう風景、河原・・・歩いてみました。
・・いい時間を過すことができました。





もうひとつ、驚いたこと。

ぼくは、50代過ぎて二度大病を患い、そのあと、減塩、内臓脂肪の減少、高血圧低下、血糖値も下げる健康食療法として、「酢」に関して興味を持つようになりました。
「酢」と言えば、ミツカン・・・この企業は、この地で創業、世界規模の販売体制に成長したのに、本社機能は半田市にあります。

「お酢のはなし」という物語風に仕立てた非常に立派なミツカン・ミュージアムがありました。
コンテンツが、素晴らしい、驚きました!




それぞれの酢の香りをかぐこともできました。
ミツカンの未来ビジョン宣言も素晴らしい。
「食べる」のぜんぶを、あたらしく。食べることは、自然が育む生命をいただくこと。しかし、これまでの食文化は、自然に大きな負荷をかけ続けてきました。地球の未来を考えながら、「食べる」をもう一度、見つめ直していく。そんな想いから、ZENB initiativeは生まれました。人々の食に対する意識は、大きく変わろうとしています。人や環境への負荷が少ない、新しい食生活へ。「おいしい」と「カラダにいい」、どちらも叶えることのできる毎日へ。かけがえのないこの星を、未来へリレーするために。一歩ずつ、私たちは前へ進みます。(やがて、いのちに変わるもの)
半田・・・いいかも。
半田という地で、酒粕から酢が出来上がった時代、新美南吉が生きていた時代。
未来の社会が電気で成り立つ生活社会になること、インターネットやらキャッシュレスの時代になるとは、誰も考えなかっただろうなぁ。

ランプの時代が終わり、電気の時代へ。
「ランプ、ランプ、なつかしいランプ。やがて、巳之助はかがんで、足もとから石ころを一つひろった。そして、いちばん大きくともっているランプにねらいをさだめて、力一杯投げた。パリーンと音がして、大きい火が消えた。」・・・「おじいさんのランプ(新美南吉作)」より抜粋。
それは、明るい社会になったということかなぁ?
狐や狸に騙された社会ではないと考えたいものです。

本日の終わりに、1998年、インドのニューデリーで行われた国際児童図書評議会において、上皇后美智子さまの基調講演抜粋。
そして、「デンデンムシノカナシミ」の原稿と全文を掲載します。
【基調講演抜粋 橋をかけるー子供時代の思い出ー】
まだ小さな子供であった時に、一匹のでんでん虫の話を聞かせてもらったことがありました。
不確かな記憶ですので、今、恐らくはそのお話の元はこれではないかと思われる、新美南吉の「でんでん虫のかなしみ」にそってお話いたします。
そのでんでん虫は、ある日突然、自分の背中の殻に、悲しみが一杯つまっていることに気付き、友達を訪ね、もう生きていけないのではないか、と自分の背負っている不幸を話します。
友達のでんでん虫は、それはあなただけではない、私の背中の殻にも、悲しみは一杯つまっている、と答えます。
小さなでんでん虫は、別の友達、又別の友達と訪ねて行き、同じことを話すのですが、どの友達からも返ってくる答えは同じでした。
そして、でんでん虫はやっと、悲しみは誰でも持っているのだ、ということに気付きます。
自分だけではないのだ。私は、私の悲しみをこらえていかなければならない。
この話は、このでんでん虫がもう嘆くのをやめたところで終わっています。
あの頃、私は幾つくらいだったのでしょう。
母や、母の父である祖父、叔父や叔母たちが本を読んだりお話をしてくれたのは、私が小学校の二年くらいまででしたから、四歳から七歳くらまでの間であったと思います。
その頃、私はまだ大きな悲しみというものを知りませんでした。だからでしょう。
最後になげくのをやめた、と知った時、簡単に「ああよかった」と思いました。
それだけのことで、特にこの事につき、じっと思いをめぐらせたということでもなかったのです。
しかし、この話は、その後何度となく、思いがけない時に私の記憶に蘇って来ました。
殻一杯になる程の悲しみということと、ある日突然そのことに気付き、もう生きていけないと思ったでんでん虫の不安とが、私の記憶に刻みこまれていたのでしょう。
少し大きくなると、はじめて聞いた時のように、「ああよかった」だけでは済まされなくなりました。
生きていくということは、楽なことではないのだという、何とはない不安を感じることもありました。
それでも、私はこの話が決して嫌いではありませんでした。
(上皇后美智子さまの皇室での重圧感と、国民に対するその想い、大きな責任感の強さを感じます。)
新美南吉の書いたオリジナル原稿です。

一匹のでんでん虫がありました。
ある日、そのでんでん虫は、大変なことに気がつきました。
「わたしは今までうっかりしていたけれど、わたしの背中の殻の中には悲しみがいっぱい詰まっているではないか」この悲しみはどうしたらよいのでしょう。
でんでん虫は、お友達のでんでん虫の所にやって行きました。
「わたしはもう、生きてはいられません」と、そのでんでん虫はお友達に言いました。
「何ですか」とお友達のでんでん虫は聞きました。
「わたしは何と言う不幸せなものでしょう。わたしの背中の殻の中には、悲しみがいっぱい詰まっているのです」と、はじめのでんでん虫が話しました。
すると、お友達のでんでん虫は言いました。「あなたばかりではありません。わたしの背中にも悲しみはいっぱいです」
それじゃ仕方ないと思って、はじめのでんでん虫は、別のお友達の所へ行きました。
するとそのお友達も言いました。「あなたばかりじゃありません。わたしの背中にも悲しみはいっぱいです」
そこで、はじめのでんでん虫は、また別のお友達の所へ行きました。
こうして、お友達を順々に訪ねて行きましたが、どのお友達も、同じことを言うのでありました。
とうとう、はじめのでんでん虫は気がつきました。
「悲しみは、誰でも持っているのだ。わたしばかりではないのだ。わたしは、わたしの悲しみをこらえて行かなきゃならない」
そして、このでんでん虫はもう、嘆(なげ)くのをやめたのであります。

(デンデンムシノカナシミの碑と山桃の木)