先週のNHK「歴史秘話ヒストリア 三十三間堂 国宝大移動」を観ていて、ふと三十三間堂を参拝したくなりました。
一昨日の日曜日、京都まで日帰りで出かけて参りました。
昭和の20代の頃に参拝して以来の三十三間堂、一千一体の千手観音立像は、やはり圧巻でした。
内部は、撮影禁止。
風神・雷神の逆の位置までは、まったく憶えていません。
ましてや、「自分が会いたい顔のある千手観音」も全く興味の無かった20代の若さでした。
全長が120メートルもある本堂の長い廊下だけは憶えていました。
庭園の側で、中国の「気功」を披露する外国人がいました。
ヨーロッパでは有名な気功先生だとのこと。
カメラマンから教えていただきました。
ふ~ん、と思いながら、「祈り」とか「念」というものを考えさせられた一日です。
朝に感謝。
八坂神社にも参拝しました。
これまた、昭和の時代以来ですから、30年以上ぶりの参拝です。
平成時代には通り過ぎるだけで、参拝しなかった三十三間堂、八坂神社。
令和元年、早朝に参拝しました。
阿闍梨のような白装束姿の外国人も・・・大勢居られました。
京都大廻りの話を思い出す光景でした。
さて、八坂神社と言えば、牛頭天王信仰。
日本三大祭りの京都の八坂神社の祇園祭の祭神(牛頭天王・・お天王さま)の起源(疫病退治)が、牛頭天王信仰になっています。
天王祭り、天王洲アイル等々の祭り、地名の起源は、牛頭天王信仰から始まっています。
そして、30年以上前に出会ったのが、、京都の八坂神社の「蘇民将来子孫」のお守りだったのです。
「蘇民将来子孫」というお守りがあるのは、スサノオノミコト(神仏習合して牛頭天王)が流浪していた時に、「蘇民将来」という人がスサノオ(牛頭天王)を助けたので、蘇民将来の子孫をスサノオが守ってくれるという神話伝説が起源となります。
ところが、今回、八坂神社のお守りお札の売り場に行くと、「蘇民将来子孫也のお守り」が無い!
そんな馬鹿なと思いながらも、巫女さん、神官さんのような出で立ちをした販売員の方々に訊いてみても「蘇民将来」なんてという名前さえ全く存じてない気配、様子でした。
「茅の輪くぐり」の神事を知っていても、「蘇民将来子孫也」を知らないというのは、極めて残念でした。
備後国風土記逸文に日本でもっとも古い「蘇民将来」の名が残されているのです。
出雲から、備後の桃島へ飛んで参るのが、スサノオミコトという神話です。
右から左まで、全部のお守り。お札をもう一度眺めてみました。
恋愛成就やら今はやりの人生の勝運のような、そんな「お守り」ばかりでした。
仕方ないので、社務所のお偉方さんにも事情を聞こうかなと思いながら、諦めていた瞬間、目に飛び込んできたのが、たった一種類の「蘇民将来子孫也」のお守りです。
有り難く頂戴致しました。
参拝も終えて、「蘇民将来子孫也」のお守りを懐に、厠(はばかり)へ。
用を足して、気が付けば、手紙(トイレットペーパー)がないのです。
昔、トルコへ旅行した際、公衆便所に入った時と同じような状況を体験をしたことを思い出しました。
あの時は、まだ若くて、手元の文庫本をバリバリと破いて、拭いたことを憶えています。
イスラム教では、左手が不浄の手で、手を使って後始末をしたあと、チョロチョロと流れる水で指を濡らして、それを面前の壁に拭い去るのです。
しかし、ここは、京都の八坂神社の厠の密室です。
しばらく、目を閉じて考えました。
今回は、手元に文庫本も雑誌も無い、有るのは財布の中のお札と、お守りを入れた小さな紙袋。
「蘇民将来子孫也」と呟いてしまいました。
すると、ナント・・・目を開けて吃驚しました。
さっきまで存在しなかったトイレの片隅にポケットティシュ、ひと袋が置かれていたのです。
非現実、その世界観が、祈り、念となり、宗教となり、文化となり、観光となるのだと痛感しました。
蘇民将来子孫也の原点は、備後国の瀬戸内海に浮かぶ桃島であると確信しました。
現在は、百島と書き記すようです。