百島百話 メルヘンと禅 百会倶楽部 百々物語

100% pure モノクロの故郷に、百彩の花が咲いて、朝に夕に、日に月に、涼やかな雨風が吹いて、彩り豊かな光景が甦る。

旗手桜

2011年06月27日 | 百伝。

写真は、静岡県久能山にある幸運を呼ぶ大樹:



旗手のおじさんへ。

小生の母が言っておりました。

「小さい頃の安ちゃんを憶えているよ。この前のかぁ坊(赤松和仁さん)の葬儀で見かけたら、とても大きくなっていた。火葬のあとに一緒にお話が出来るかと思っていたけど、そのまま帰られていたから残念だった。お父さんは背の高い人だった・・等々」と懐かしんでおりました。

子供の頃、まゆりちゃんの家、つまりは旗手家のお庭で遊んだことがあります。

最近は帰省するたびに眺めては思い出すのは・・旗手家の大きな桜の樹の下で遊んだことです。

ただ、まゆりちゃんに叔父さんがいたというのを知ったのは、昨年、旗手のおじさんのブログを読み始めてからです。

大きな安心という指針を与えて下さる方が、同郷の百島出身の先輩とは・・ましてや、近所だったまゆりちゃんの叔父さんになるとは、とても素敵で嬉しくなるような出会いとなる不思議な展開となりました。

・・あの桜は不思議な物語を奏でる幸運を呼ぶ樹に映ります。

岐阜県の有名な荘川桜の物語にあるように、同じく「旗手桜」と呼称して子孫を増やしてゆくのも・・

未来へと引き継ぐ物語となるような気がします。

今週も、笑顔で、朗らかに、強い気持ちで!

・・ワクワク出来る一週間でありますように。

第43回中国短編文学賞 優秀賞

2011年06月26日 | 百伝。
中国新聞社主催の中国短編文学賞。

その優秀賞に百島在住の赤松嗣美(あかまつつぐみ)氏(67歳)の作品「魚の目」が、受賞されました。

おめでとうございます。

定年退職後、故郷の百島にUータンした1944年(昭和19年)生まれの赤松嗣美氏の趣味はチヌ釣りだとか・・。

嬉しいですね。

今後の益々のご活躍を祈ります。

作品は、こちらから→http://www.chugoku-np.co.jp/prf/tanpen/43/430003.html

同郷の人が活躍していると元気を貰えます。感謝。

フェニックス

2011年06月25日 | 百伝。
世界一の植物園は、英国ロンドン郊外にある王立キュウ・ガーデン(植物園)である。

キュウ・ガーデンには、全世界から集められたあらゆる品種の植物が勢揃いしている。

とある地方の自治体は、ジャポニカ産を認識させて受け容れるキャパシティが日本に足りないのならば、海外のそういう機関に打診するのも一つの選択肢として動いている。

何を意味しているのかと言うと、一例として、日本海でとれるズワイガニは同じものでも、越前でとれるものは越前蟹としてブランド名がつく。

同じく、同じ水仙(すいせん)でも、福井の越前岬の水仙は、毎年、皇室に御献上して、皇室に愛でられるようになった。

つまりは、同じ物でも、ブランド名で価値が変わるのである。

さて、真偽の判断しかねるが・・。

百島の本村にあった赤松医院にあるフェニックスは、日本一の樹齢百年を誇るらしい。

幹囲も270cmもあり、日本一らしい。

今は、どうなんだろう?

そう言えば、百島 西林寺には、尾道の三名桜と呼ばれた大きな桜(品種不明)があったのを思い出す。

どうなったのだろう?

もし、西林寺の桜が枯れていたならば、今、百島一の桜は、旗手のおじさんの実家にある大きな桜の木かもしれない・・手入れ次第では、遠い未来の百島の千年桜に大化けする可能性もある。

我が家の裏手にも、切り倒そうとも考えているが、誰が植えたのか・・高さ10メートルにも達するかのような勢いのある真っ直ぐな棕櫚(シュロ)というやしの木がある。

それに、手入れ次第では、とても見応えのあるヒマラヤ杉もある。

こういうのは、ほっておけば、どうなるのだろう?

おそらく、家を押しつぶすぐらいに成長するかもしれない。

逆に、手入れ次第では、それらが・・百島が育んだ誇りとなるかもしれない。

だが、現実問題・・百島に親も身内もいなくなれば、手入れをする者の足が遠ざかるばかりである。

百島の先人達が、さまざまな品種の植物木々を植えて、探せば宝や想いが詰まった巨木や名木にならんとするブランド名が存在する。

百島産・・不死鳥の如く大きく羽根を広げましょう。

神長官守矢資料館

2011年06月24日 | 千伝。
長野県茅野市にある。

諏訪湖の盆地に、名も奇怪だが、建物も奇怪である。

正式名「茅野市じんちょうかんもりや資料館」。

先日、新聞記事一面で、この資料館が紹介されていた。

何故か気になったので読んでいると、小生、偶然この資料館へ一度訪問している。



設計者は、地元出身の東大名誉教授の建築史が専門の藤森照信氏(64歳)。
長野県は、藤森氏の苗字が多いのかな。

依頼者は、藤森氏の幼馴染みの守矢早苗氏(66歳)。

守矢家は、諏訪大社の筆頭神官を代々務める家柄で早苗氏は、現代78代目という。

縄文時代からの特異な自然信仰や祭事・・同家の伝わる古文書や、鹿の生肉や脳みそあえを神と一緒に食する「御頭祭」の様子などを保存、展示する資料館である。

鹿の首を壁一面に展示している。

以前、英国のスコットランド(ハイランド)にある大抵の城の中で、鹿の首をズラリ並べてあるのを観ているので、別に驚くこともなかったが・・。

こういう小さな資料館は、テーマを変えて、個人資料館または公園としてまとめると、百島にも作れるのではないかと・・ふと思いついたので記録しておく。

・・単純に思いついただけである。

越前の福井から信州に行くまでの繋ぐ国道ルートが158号線である。

特に、冬期間の雪景色を観ながらのドライブは、素晴らしい!

途中に、九頭竜湖、油峠、美濃白鳥、ひるがの高原、飛騨高山、安房峠があり、そして、上高地がある。



現在、上高地に入る釜トンネル付近で先日土砂崩れがあり、通行止めになっている。

冴え渡る月明り・・明日は晴れるかな。

百日百善

2011年06月21日 | 百伝。
忙しい時にイライラが生じる。

通勤時でも他人の車が邪魔になる。

その時の魔法の言葉が、「一日一善」。

これを、頭に潤すと、忽ち、しかめっ面が笑顔に変化する。

一日一善を毎日励行すれば、千日修行とは言わない。

百日で、善人になれる。

忘れえぬ船々~松丸 檜丸 くれない丸~

2011年06月20日 | 百伝。
国木田独歩の「忘れえぬ人々」のなかに、深夜の瀬戸内航路の船の中から、とある島の男をみた光景が書かれている。

小生は、幼い子供の頃、鮮烈な思い出を刻まれた客船がある。

瀬戸内海の女王と呼ばれた大阪から別府まで瀬戸内海航路を走る関西汽船の豪華客船「くれない丸」と「むらさき丸」の双子客船である。

ライトグリーンの船体の美しさは、子供心にワクワクするものがあった。

昭和30年代、大阪ー別府間を速力19.5ノット、14時間で結んだ「くれない丸」と「むらさき丸」が就航する。

当時の列車では、大阪から別府まで19時間を要したというから、船旅の方が速い!

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同じ頃、関西汽船は、内航貨物船を建造している。

機帆船から鋼船に変わろうとした時代である。

昭和29年、船名が、「松丸」と「杉丸」の双子小型鋼船を建造。

そして、昭和31年、小生と同年生まれの「檜丸」と「桂丸」の双子鋼船を建造。

さらに、昭和35年、「楠丸」建造。

上記の関西汽船の内航貨物船「松丸」と「杉丸」の運航委託管理したのが神戸の冨島商運である。

そして、其々の「松丸」と「杉丸」の船長になったのが、父と父の兄であった。

その後、松丸と杉丸は売船されて、檜丸と桂丸に変わった。

小生、幼い頃から父の船によく乗せられた。

松丸?だったか、檜丸?だったか・・すぐ横を、速力20ノット近いスピードで豪華客船「くれない丸」がサーと追い抜くのである。

幼い心に「くれない丸」を羨ましいぐらいに見上げるように眺めていた。

そして、若い甲板員のお兄ちゃんが、くれない丸に乗船している若い女性たちに白いタオルを持ってしっかり手を振る。

手を振られた相手の若い女性からも、しっかりと手が振られていた。

そんな光景を何度も観て、若い大人たちの挨拶は、そういうものなのかな・・と幼い子供心に考えていた。(笑)

今思えば・・立派な観光演出だったかもしれない。

おそらく、当時、関西圏と四国、九州圏を行き交わした人々が、「くれない丸」や「むらさき丸」の船名を聞くと、昭和のノスタルジー(郷愁)を思い起こすのではないかと思う。

それほど、「くれない丸」と「むらさき丸」は、船色も船体も麗しく美しく存在感があった。

それに較べて、内航貨物船の「松丸」と「杉丸」の存在は、当時、どのようなものだったのか?・・かつて船乗りだった方々から聞いた話である。

「松丸、杉丸、檜丸、桂丸・・憶えているよ。当時、白い鉢巻をした煙突の関西汽船の鋼船だろう。瀬戸内海じゃ、そりゃぁ、羨望の的だったよ」



私は、嬉しくなった思い出がある。

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関西汽船は、元大阪商船(現商船三井)の傘下で瀬戸内海航路に運営委託されて設立された。
(現在、関西汽船は、商船三井の子会社)

その大阪商船は、瀬戸内海の海船問屋を集合して設立された・・日本郵船の設立よりも一年早いらしい。

瀬戸内海の沿岸諸島(とりわけ愛媛県は有名)には一隻船主が多いが、集約して効率的には、海運及び陸運輸倉庫業を営む方向性もあるが・・現代においては、リスクの分散・・つまりは、日本及び世界各地の船主が海運会社に貸し出し船舶資産として運用しながら物流会社として動いている側面が強い。

以前の仕事で、海陸物流企業への見積り依頼から輸出入の船荷証券(BL)を扱った経験もあるが、日本を代表する海運業者と言うと、NYK(日本郵船)、MOL(商船三井)、K-Line(川崎汽船)である。

・・海事国家日本としては、世界の七つの海に向けてもっと頑張ってほしい。

海外の何処に行っても目にするコンテナ海運業者は、Maersk Line, Ever Green, OOCL、Hapag-Lloyd 等々・・これらの世界を代表する海運業者も、はじまりは、小さな一隻の船出から始まったのである。

父の日 満艦飾

2011年06月19日 | 人生航海
1978年(昭和53年)の6月第3日曜日。

父と一緒に過ごした最初で最後の父の日。

たまたま、船が東京湾に停泊したため、父は、二人の息子に会いに来た。

当時の私は、21歳の大学生。

次兄は社会人兼大学生・・何故か、あの日は連絡が取れず会わずじまい。

結局、私が、背広姿の父を日曜日の東京案内することになった。

当時、日本一高かった池袋のサンシャインビルに上ったり、明治神宮を散策したり、新宿の小田急か京王デパートの屋上で雑談をしたことを思い出す。

アルバイトの報酬があったのであろう・・私は、デパートでカフスボタン買って、プレゼントを贈った。

夕方になり、「俺の下宿家に泊まるか?」と父に訊くと、嬉しそうに「行ってみるか」と答えた。

中央線に乗って、杉並区南荻窪にある私が暮らす下宿家まで行く。

風呂無し、賄い無し、共同トイレ、共同洗濯機、共同洗い場・・父が、大家さんに、そこそこの挨拶をして、私の部屋を案内する。

小さな部屋に万年床のような布団一枚・・「親子一緒にここで寝るよ」と言う。

父は、何一つ表情を変えずに「うん」

親子二人で、近所の銭湯(風呂屋)まで行く。

同じ布団の中で、父と子が、枕を二つにして寝る。

「結婚したい相手がいる」と父に話しかける。

「・・卒業して就職先をみつけて仕事や生活が安定して結婚しろ」と、その程度ぐらいの事を言われると考えていたが・・何も言わない。

「いい女か?」とだけ訊いてきた。

「わからない」と答えた。

翌朝の月曜日、荻窪駅近くにある喫茶店で、モーニングセットを食したあと、父は、職場である船へ。私は、講義のある学校へ・・。

当時、続けざまに三人の息子を東京の私立大学に進学させて、我が家の経済状態は、どれほど逼迫していたのかと想像できる。

翌年、末っ子の私が大学を卒業すると同時に、55歳になった父は、きっぱりと船乗りを辞めて陸に上がった・・仕送りをする事もなくなり、年金を貰える年齢になったからである。

父のいちばん輝いた時期は、30代と60代だったかもしれない。

父は、60歳になってNTTの百島販売代理店を開いた。

ダイヤル電話をホームテレホンやプッシュ電話に切り替えてほしいという営業販売である。

百島だけでは、ごく僅かな顧客数である。

物足りないので、松永局を皮切りに、売り上げがどんどんと伸びたせいか、NTTの情報月刊誌にも紹介されたらしい。

広島支社からも表彰状を受けて、尾道局、福山局エリアも開拓して営業をするようにと依頼があったのである。


(NTT時代の表彰状の一部)

毎日のように、父は、備後地区をバイクに乗って走り廻り営業に出て行った。

まだ、携帯電話が一般化されていない時代である。

70歳近くなった父は、ショルダーバッグのような大きな携帯電話を持ち歩いて、バイクで営業に出かけていたのを思い出す。

だから、百島の我が家は、今尚、電話がたくさんある。

トイレの中まで、電話がある。

70歳になり、父は、NTTの販売代理店を閉じた。

「跡継ぎが、いないからだ」と言っていた。

「電話屋の商売なんて・・」と、我ら兄弟は、正直考えていた。

・・が、まもなく携帯電話の時代に突入したのである。

船乗りにもなれず、父が暗示した道にも歩まず・・。

・・どうにかこうにか生きている。

父が、私の下宿家に泊まった日・・後日、母に言ったそうである。

「子も苦労している」

あの時の父の年齢(54歳)と、私は、同年齢になった。

・・子も親も大事。

親孝行は、親が生きているうちにする事が、誠の親孝行である。

今日は、父の日である。

父が、30代の頃・・である。

船乗りとして、父が、いちばん充実して最良の時期であったに違いない。

船長としての父の見栄であったのだと思う。

正月になると、百島の泊港の波止場に繋船して、国際信号旗を満艦飾で掲げていた。

新年の仕事初めの始発港を、百島にしていたのである。



(写真は、1963年(昭和38年)正月 百島 泊港にて 檜丸)

百日目

2011年06月18日 | 百伝。
「農地は、作物を食べてくれる人のための公共物でもある」

この持論は、正しいと思う。

昨日のテレビ朝日系列の「報道ステーション」で、福井の農業人「片岡仁彦氏」を紹介していた。

福井から大規模農業に挑む彼の考え方は、農業経営のビジネスマンの姿である。

福井市郊外の耕地から彼の農業人生が始まり、次には、三国(福井県北部)の丘陵地帯の田畑を借りて、福井市から片道約1時間をかけて通いながらも独り耕作していたらしい。

さらに、現在、北海道の大地を借りて、福井と往復しながら、独り耕作するという。

農は、平和国家の中心事業である。

食は、基本的人権の中心である。

東日本の被災地から、日本の農業改革を推し進めるのが、ピンチをチャンスに変える千載一遇の機会かもしれない。

あと十年もすれば、日本の農業の担い手がいなくなるという。

片岡氏のような情熱を持ったプロの農業人に任せた方がいいのかもしれない。

「立てる農夫は、坐せる紳士より尊し」(フランクリン)

現広島市の松井一実市長が、被爆者援護に関して「何かの権利要求みたいに、わしは被爆者だから医療費まけてくれとか・・くれ、くれではなくて、感謝の気持ちを忘れている人がちょっとおる」と発言したとか・・被爆者団体から批判の声もあがっているらしい。

この発言は、勇気ある正しい持論だと思う。

松井市長自身も被爆者二世だとか、だから余計に平和=被爆者の「ゴネ得」な権利要求に嫌気がさすのかも知れない。

ヒロシマへのオリンピック誘致運動を撤回した元厚生労働省官僚の松井氏・・どんなビジョンを示すのかお手並み拝見である。

あと十年もすれば、ナガサキ・ヒロシマの被爆者もいなくなり、新たにフクシマを中心とする被曝者団体が現れるのであろう。

平和社会でなければ、治安不穏な混沌社会か戦争国家となる。

飢餓寸前の空きっ腹の経済状態になれば、誰もが、自分の故郷や国に対して愛郷心や愛国心など芽生えない。

人の痛み、苦しみを分かち合うことが出来る社会になりますように。

デブかヤセとなり、ハゲか白髪となり、病いと友となり、老いてゆく近い未来を考えれば、誰もが必ず向こうの世界へ行く前に、今は、笑い飛ばしたくなるぐらい幸せな気分になる。

幸福、不幸のどちらも心の中で、ふわふわと浮いている。

今日は、東日本大震災から百日目・・卒哭忌とも呼ばれて、哭(な)くのを卒業する日であるという。

静かにご冥福を祈ります。合掌。

百の風に吹かれて

2011年06月17日 | 百伝。
6月16日(木)早朝3時に福井の自宅を出発。

「行きは好い良い・・」・・ではなかった。

・・越前武生辺りで毎日飲む心臓の薬を持って行くのを忘れていたので、また福井市の自宅までUターン・・2時間のロス。

早朝5時に福井の自宅を再出発。

おまけに山陽道は、ザーザー降りの雨。

午後1時過ぎの常石発フェリー百島福田行きには間に合わないなぁ・・と諦めて、ゆっくりとした帰百ドライブ。

山陽道の兵庫県の(金物の町)三木サービスエリアで、ちょっとスマートな形をした草むしり道具を見つけたので、草むしりも楽しくなるだろうと買ってしまった。



1550円也・・高いのか安いのか、さっぱり判断出来ない。(笑)

夕方、17時半頃、百島着。

緑が深く、草木は相変わらず生命の力が漲っている。

島に人が住まなくなっても、百島は、百年も千年も、その先も存在するのであろう。

ただ、百島診療所が再スタートしたお陰さまか・・若干、百島の活気が復活したようなニオイがした。

夕方・・雨に煙る百島の泊地区を散策。

夜、いつのまにか寝入ってしまう。

今日の早朝、6時起き。

お墓参りと草むしり・・草むしり前のお墓の裏側。



小生の死後、骨の一部を、この墓の中に分骨してもらう事にしてある。

草むしりの後のお墓の裏側。



虫よけスプレーを撒き散らしても、朝早くから強大な蚊に襲われた。

蚊取り線香のようなものが、より効果があるのかな?

この時季に何故?

嬉しいことに気にかかるお墓のほとんどにお花が供えられていた。合掌。

お墓は、清く正しく認識区別できる魂の置き所である。

はてさて、汗ダクダクになり、シャワーを浴びて、着替えてのんびりしていると、いつの間にか、お昼が近づき、帰福準備である。

母が、お弁当を作ってくれた。

明後日は父の日。

父の仏壇に、井上軍曹殿のご子息様からお送り頂いた戦友会帰還者名簿とクアランプールにあった兵舎の写真が載った記録等々を供える。感謝、そして合掌。

福田桟橋に向う途中に、叔母と会い「スイカ」を持って帰れと頂いた。

続けて、同級生の広喜君(ももしま観光農園代表)と偶然会って、ちょっとだけ話をする。

百島12時5分、常石行きフェリーに乗る。



小学生の時、あの海岸沿いに、桜の苗木を植えたが、全滅である。

福井に戻るまで、車を運転しながらアレコレ考え、いろいろと想う。

平日のせいか、広島県福山から福井まで、高速道路・・全く渋滞なし。

帰りはスイスイと「帰りは好い良い」である。

6月17日(金)20時過ぎ、無事に福井の自宅着。

生きていても、なかなか千まで数えられない。

せめて百までだ。

命が千ぐらいに散り散りになって、「♪お墓の前で泣かないでください。そこには私はいません。死んでなんかいません。千の風になって、大きな空を吹き渡っています」よりも・・。

小生は、いつか再び、両親や兄弟の身内と一緒になって、同じお墓の中で暮らしたい。

時速百キロぐらいのスピードの風に吹かれながら、昨日今日と往復約千キロのドライブを楽しんで参りました。

百の風になるぐらいが、ちょうど好いです。

百の風に吹かれて、両手を拡げて、両掌をあわせて、感謝。

ファンタジー&ユートピア

2011年06月15日 | 百伝。
今夜は、福井市郊外にある一乗谷朝倉遺跡まで出かけてきた。

一乗谷は、この頃、ホタルの里としても俄かに脚光を浴びている。

ホタル・・緑色を点滅発光しながら飛んでいた。

月明りの一乗谷でのファンタジーである。

幻想的な世界に放り込まれたような・・ちょっと楽しい気分になって帰宅。

少し、ストレスが消えた。

前にも同じようなことを書いたが・・日本人の90%が、ストレスに陥っているとの事。

では、残り10%のストレスの無い人間とは? 

どうも、3種類の人間がいるようである。

1、鈍感な人  
2、真面目に仕事をしていない人 
3、ストレスを与えている人

加えると、「これは、自分の仕事だ」と思う人は、ストレスがたまらないと思う。

それでも、人間というもの必ずミスを起こす。

争いを行うもの。

20代の頃、ミスが生じた時、かつての日本人の上司は、「部下のミスは、すべて上司の責任」と大見得を切ったものだ。

ところが、30代の頃のドイツ人の上司は、こう言った。

「おまえのミスは、集中力の無さだ。社内処罰を与えられるべきものだ」と我関せずの態度。

・・何時の頃か、ストレスを与える人間になったり、鈍感な人間になったり、真面目に仕事もせず、保身のためには、ミスを隠そうともする。

でも、こんなミスだらけの人生は、面白くはない。

誰もの人生の最大のテーマは、「自分」だからである。

これから、ファンタジーを求めて、帰百準備です。

明日の今頃は、小生のユートピア 百島に居るはず♪

昔、鼻を垂らしていた子供の頃の自分に出会える故郷です。

・・明日は、雨みたいだけど。

親孝行、思い立ったが吉日。

♪ホ・ホ・ホタルよ、来い。

太陽は、勝手に、独り昇り、独り沈む。

風情がファンタンジーを生み、ユートピアを作る。

だから、風が吹くのである。


さざなみ 漣

2011年06月12日 | 千伝。
今日の日本経済新聞の春秋コラムを読んでいると、海洋観測船「みらい」・・かつての原子力船「むつ」のことが書かれていた。

日本初の原子力船「むつ」は、夢の原子力船となるはずであった。

昭和49年(1974年)9月1日、航行試験中に放射線漏れを起こした。
母港である青森県陸奥大湊港への帰港を反対されたために、16年にも渡り漂白の航海となる。

小生の記憶が鮮やかに甦る。

当時、夢の原子力船「むつ」の話題が大きく取り上げられていたのである。
それも・・放射線が漏れるまでは、夢を。
その後は、悪夢を。

あれから40年近く過ぎても、あの教訓が、現在まで全く活かされていないのかな?

昭和49年(1974年)8月、父が乗る貨物船に小生も便乗した。

横浜港を出港して、千葉の房総半島をまわり、千葉、茨城、福島、宮城、岩手、青森の太平洋沿岸を北上して北海道の襟裳岬を目指し、そのまま東へ舵を切り、根室へ。
そして、知床岬の沿岸をぐるり廻って、目的港の網走までの船旅であった。

17歳での船乗り経験は、いまでも人生の試練や嵐に出会うと役立つことがある。

波のうえに波があり、その波のうえにも波が「漣」となっているのである。

海から眺めた、三陸海岸沿いの夜の闇を走る列車の灯りは、まさに銀河鉄道である。

「雨二モマケズ」の悲しみを背負ったような宮沢賢治は、故郷の岩手県を理想郷としてイーハートーブと名付けた。

さて、以前にもこのブログで紹介しましたが、今日も、その「雨ニモマケズ」のパロディ版を紹介させていただきます。

以前、産経新聞のコラムで紹介されていた岩手県の教師か医師が書いたという「雨ニモアテズ」というものです。

雨ニモアテズ 風ニモアテズ
 雪ニモ 夏ノ暑サニモアテズ
 ブヨブヨノ体ニ タクサン着コミ
 意欲モナク 体力モナク
 イツモブツブツ 不満ヲイッテイル
 毎日塾ニ追ワレ テレビニ吸イツイテ 遊バズ
 朝カラ アクビヲシ  集会ガアレバ 貧血ヲオコシ
 アラユルコトヲ 自分ノタメダケ考エテカエリミズ
 作業ハグズグズ 注意散漫スグニアキ ソシテスグ忘レ
 リッパナ家ノ 自分ノ部屋ニトジコモッテイテ
 東ニ病人アレバ 医者ガ悪イトイイ
 西ニ疲レタ母アレバ 養老院ニ行ケトイイ
 南ニ死ニソウナ人アレバ 寿命ダトイイ
 北ニケンカヤ訴訟(裁判)ガアレバ ナガメテカカワラズ
 日照リノトキハ 冷房ヲツケ
 ミンナニ 勉強勉強トイワレ
 叱ラレモセズ コワイモノモシラズ
 コンナ現代ッ子ニ ダレガシタ

「放射線にもあてず」・・。
「放射線にも負けず」・・踏ん張らないと日本列島!

星垂る 中一時代

2011年06月10日 | 百伝。

今日もまた、小生が個人的に気がついた「元気な老人」の共通点を紹介します。

元気な老人は・・すっぽり足を包むスリッパやサンダルを履くよりも、下駄やビーチサンダルのような鼻緒つきのモノを履いている方に・・元気な老人が多いです。

多分・・歩く際、立っている際に、足の親指と人差し指の間に刺激を与えると何かよい刺激を体中に与えるのでしょう。

小生、家の中では、なるべく裸足で歩くようにしています。

ところで、昨日、ブログに小生の心臓病のこと書くと、「どういう声掛けをしたらよいのか悩むところ」というコメントを頂きました。

要は、誰もが迎える人生の終焉の時が、早いか、遅いかの判断の見極めです。

それが、明日の朝かもしれません。

そう、大地震や大津波に、いつ襲われるかの不安(人災的な不安材料)よりも、どう備えるかという覚悟(天災に対する諦め)のようなものです。

さて、紫陽花と蛍が乱舞する時季になりました。

子供の頃、百島の本村地区に溜池として上池(おかいけ)と下池(したいけ)がありました。

現在、百島コミュニティセンターがある所が上池で、百島診療所の前が下池です。

あの上池、下池の場所は、たくさんの蛍が飛んでいたような気がします。

それを観て、人魂(ひとだま)が飛んでいると噂話をした子供時代の記憶があります。

人魂、ましてや草魂という言葉もあるのだから・・鳥魂も魚魂も、犬魂も猫魂も牛魂も馬魂もあるかもしれません。

蛍が放つ光は、「火垂るの墓」ではなくて、会いたい人からの魂のメッセージという美しい物語であれば、輝きます。

「星垂るの島」で、百島の「村おこし」につながるとよいのですが・・。

おそらく、今でも蛍が舞う故郷の百島です。

やっと、本題の「中一時代」に入ります。

旺文社が、大学受験生の高校三年を対象にした受験学習雑誌の名が「蛍雪時代」です。

蛍雪とは、♪蛍の光 窓の雪 ~ ♪と「蛍の光」の歌詞にあります。

中国の故事を引用しており「蛍の光で、窓の雪を灯りにして」勉学の勤しんだという意味合いです。 

実は、「蛍の光」は、スコットランド民謡であり、原詩は「昔の友を想う」・・そんな賛美歌でもあります。

欧米では、卒業式ではなく、主に大晦日に謳われたり、コンサートの最期に国歌に続いて演奏されます。

その「蛍雪時代」へと続く学習雑誌の始まりが、「中一時代」です。

それから「中二時代」「中三時代」「高一時代」「高二時代」そして「蛍雪時代」となります。

今は、廃刊になったと思います。

「中一時代」(または学研出版の「中一コース」)・・つまり、我らが百島中学校一年生の時の出来事です。

宝くじに大当たりをしたような「奇跡のような百島中学校同級生」の出来事を書き残ししてみたくなりました。

毎月、日本全国何千校もある中学校で購読されている、その雑誌に抽選プレゼントのコーナーがあり、毎月大賞が一名・・1年12回分のうち、なんと2回の大賞を二人の同級生が受け取ったという・・宝くじに大当たりをしたような奇跡のような出来事でした。

同級生のMちゃんとYちゃんの二人です。

昭和44年(1969年)、一年に二度大きく「広島県尾道市立百島中学校一年」と二人の名前が、「中一時代」の誌面に載っていて・・驚いた!

・・という我ら同級生たちの思い出です。

かつては、強運という星垂るもとで希望溢れる子供が、多く住んでいた故郷の百島です。

ホタルを観よう♪


しなやかさ

2011年06月09日 | 千伝。
健康的で長寿のお年寄りに「どうして若いのか?どのような若さの秘訣があるのか?」と訊いて見ると・・同じような共通点を見つけることがある。

それは、体躯のしなやかさ、柔軟性、ストレッチである。

ほんとうにストレッチや柔軟体操をよくしている方は、若い体躯を長く維持するのである。

頭も柔軟であれ・・脳ミソもストレッチである。

但し、心臓のストレッチは、禁物。

弁膜が柔らかく伸びきっているとダメである。

今朝から、来月の勤務日程表を作成していると、どうも小生の心臓の動きがおかしい。

急遽、ホテルのような大病院の福井県立病院の救急救命センターへ向う。

小生の心臓疾患「拡張型心筋症」・・弁膜が長くなり、動きが柔らかく弱く、血液を送る力強さがない。

血液検査、心電図、レントゲン、エコー検査・・点滴をしながらアレコレといろいろと考えてしまう。

再入院かと思ったが、本日の検査結果は、大丈夫であった。

あと八年、生きられるとして・・。

あと三年、生きられるとして・・。

あと一年、生きられるとして・・。

・・今日一日に感謝。

「自分を介護する」しかないのである。

しなやかさ・・朗らかに、強い気持ちで!


御伽草子

2011年06月08日 | 千伝。
子供より親が大事。

・・と書いたのは、太宰治の小説「桜桃」・・これって中学校の教科書に載っていたかな?

「走れメロス」は、国語の教科書に載っていたが、「桜桃」は、思い出せない。

子供より親が大事・・と親が言うのには驚いた思春期の記憶である。

もうすぐ桜桃忌・・。

東京雑司が谷に眠る夏目漱石の立派なお墓に較べて、三鷹の禅林寺に眠る太宰治と森鴎外(林太郎)のお墓は、庶民的で親しみやすい。

「人間失格」の太宰治は、4度目の心中事件で遂に39歳で没・・。

こんな人間にはなりたくないと思いながらも、太宰治の「お伽草子」は、読むほどに素晴らしい。

今日明日は、フリー。

関東に暮らす身内の公務員をしている者が、福島県放射能汚染の避難地区への一時帰宅を支援する現地チームに配属されている・・彼を想いながら、桜桃(さくらんぼ)ではないがアメリカンチェリーをほおばる。

・・今日、百島へ帰る予定にしていたが、虫除け殺虫剤を用意していなかったので、来週の平日に帰百予定。

放射能にも強いとも思われるゴキブリや虫の殺虫剤を作るアース製薬やフマキラーとかという企業は、案外、放射線除去に役立つ製品を作るためのノウハウがあるかもしれないと考えたりする。

現代版の「御伽草子」は、いつ現れるのやら。

ウルトラマンセブンを愛した古川聡さんが、宇宙へ飛び立った。

太宰も漱石も知らないであろう・・息子も、いつのまにか受験生。

「走れ 三四郎」。

子供よりも親が大事。

信州木曾の百島。

2011年06月07日 | 日本の百々巡り。

ビジネスチャンスに繋がるプランを提供することもある。

小生の趣味でもあり道楽でもある。

さっきまで、もっと簡単に脱着できる寝たっきり老人のオムツができるはず・・と自分なりのイメージとデザインを創造しながらテレビを観ていると、郷土愛溢れる信州長野の松本市の方が、テレビの向こう側でおしゃっていた。

「どうぞ、松本を愛してください。お願いします」と涙ながらに伝えていた。(凄い!)

以前、愛知県出身の民放アナウンサーが、「愛知県の形を見るだけ、私は涙がでるぐらい興奮します」と郷土愛を表現していたかな。(笑)

小生は、・・「百」と言う字が、非常に気にかかるのである。

だから、地名に百島という名を考え、名付けた方は、素晴らしいと思うのである。

ところで、信州長野県のほとんどの方々は、長野県民歌を歌える。

個人的な経歴であるが、今まで出会った長野の方々には、そんな悪い思い出もない。

逆に、親切で好い思い出を残してくれた方が多いのである。

信州には、個人的には、たくさんの思い出がありすぎるぐらい・・ある。

その中で、今回は、信州の百島を訪問した時に感じたものを書き留めておく。

長野県木曽郡木曽町日義(旧日義村)に百島(ももじま)がある。

日義という地名は、朝日将軍の名で知られる木曾義仲が、平家討伐の挙兵をした旗揚げの地である。

そこで、朝日の「日」と義仲の「義」を合わせて、日義という地名となった。

近くには、雄大な木曾の御岳山に、中央アルプス、木曾駒ケ岳もある。

さて、その日義村の百島地区に立ち寄って、そこに暮らす方に百島の名の由来等を尋ねたことがある。

残念ながら、どなたからもこれと言った答えがなかった。

百島の界隈には、木曾義仲一族の菩提寺 徳音寺もあり、資料館(義仲館)もあった。

(余談となるが、義仲(よしなか)の墓は、滋賀県大津市の義仲寺(ぎちゅうじ)という小さな寺にある。その隣りには、俳聖の松尾芭蕉が眠る。木曾義仲と同時代に生きた西行を慕い、五百年の歳月を隔てて「奥の細道」を歩いた芭蕉の最期の地が、義仲の隣に眠ることであったのである。小生の疑問は、西行は義仲を嫌っていた・・それを芭蕉は十二分に知っていたはずのだが・・奥の細道のどこかで木曾義仲に己を映す憐れみを覚えたのだろうか?)

その義仲館に入いると、木曾一族二十代に渡る資料年表と地図があった。

百島の裏手方向に「向山」という地名がある。

そして、木曾一族の中の誰かが、瀬戸内海方面に落ち延びたという記録もある。

向山と百島の位置が、尾道の向島と百島の位置関係と似ている。

おまけに、尾道の向島には、案外と「木曾」という苗字の方が多いのである・・ちょっと不思議な話ではないだろうか?

(また余談となるが、大阪の西淀川区百島界隈もそうだが・・加島やら歌島(向島の旧名)とかの地名もある。)

信州木曾の百島を訪問した当日、偶然に「木曾学会」に、これから出席するという方々と出くわして、「一緒に行かないか?」と誘われた記憶がある。

花桃、次郎柿を教えてくれたのは、木曽路の方であった。