百島百話 メルヘンと禅 百会倶楽部 百々物語

100% pure モノクロの故郷に、百彩の花が咲いて、朝に夕に、日に月に、涼やかな雨風が吹いて、彩り豊かな光景が甦る。

南洋編 8 ~オレンジ色の屋根~

2010年06月29日 | 人生航海
入出港船の無い時は、時間もあり、広い大通りを自動車で走り廻ったりして運転を楽しんでいた。

将校や下士官から私用で使われる事も度々あったが、これも仕事だと思うと運転も上達するので楽しく思っていたぐらいである。

スラバヤの街は、既に平穏を取り戻して、いつでも何処の町に出て行っても危険な場所はなかった。

休みの日は、班長と一緒に車で商店街で買い物をした後は、よくこぎれいな食堂に入り食事をしたものだった。

宿舎は、オランダ領時代の軍人の宿舎で、オレンジ色の屋根で一戸建ての綺麗な様式で同じように並んで建てられてあり、その中の一軒家だった。

隣には、部隊長専属の運転手が居たので、暇な時には高級車に乗せて貰い、走りながら運転の指導を受けていた。

信号所での仕事も慣れた頃、本部の主計中尉から呼ばれた。

「君の字が気に入った」と言って、ガリ版を使い部隊内の通達を書かされるようになった。

ガリ版刷りは、初めての事であったが、「自分の字が皆に読まれるのは嬉しいだろう」と中尉から言われて、その後は、事務所の仕事が多くなったのである。

信号所での仕事の他に、事務所での仕事も増えて忙しくなり、そんな日々が当分続いた。

オレンジ色屋根の不思議さに想いをしながらも、これほど、私は、幸運である事を悟った事は無かった。

南洋編 7 ~スラバヤでの日々~

2010年06月28日 | 人生航海
当時から、スラバヤは国際貿易港であり、ジャワ島では、第二の立派な貿易港でもあった。

(現代のスラバヤは、インドネシア最大の貿易港でもあり、最大軍事港でもある。)

港の前にマズラ島があり、天然の良港でもある。スラバヤの門港であるタンジョンペラと市街地を結ぶ大きな広い幹線道路が通っていた。

(因みに、当時のインドネシアの首都はバタビアと呼ばれて、現在のジャカルタであり、門港は、タンジョンプリオクと言った。)

我々停泊場部隊の主な業務は、スラバヤ港に出入港する船舶に関する管理であった。

また中継地として糧抹、衣服、弾薬、医薬品、嗜好品等々までを扱い、その他にも給油、給水等々・・船舶関係の総ての積荷に関する管理業務でもあった。

私の居た信号所は、港内が一望できる中央埠頭突堤の本部建物の屋上にある立派な櫓(やぐら)であった。

この階下には、停泊場の事務所があって、武市軍曹を長に、他に港湾係の兵隊が二人常駐していた。

此処での私の初めての仕事は、港内の見張りと船舶との連絡で、時には高速艇で各船舶を廻り、命令書を渡すこともあった。

船団が入港する時は、港の入り口まで高速艇で急行して、停泊位置を指示・誘導もして忙しい時もあった。

つまりは、出入港船の動静管理が、私の信号員としての主業務であったのである。

スラバヤに到着早々に「私が、何故信号員に選ばれたのか?」と不思議に思った。

武市軍曹に訊くと、「他に適任者がいないからだ」と言われた。

広島の宇品では、各軍属関係者の特技等の総てが詳細に報告されているとの事。

私の場合も、手旗信号が特技である事も、勿論事務員としての登録もあって、総てが本部からの書類履歴に記載されているとの事だった。

あの時、宇品で多勢の中から三人が事務員として採用された事が、私の運勢を変えて幸運を与えてくれたのかと思った。

それとも、亡き両親や祖父母のご加護なのか、それ以後、いつでもどこに在っても、私を見守ってくれていると信じたのである。

「親の恩は、山より高く、海より深し」と言う。

この箴言は、誠に尊いものだと・・私は、いつまでも思うのである。

十八歳の春、私にとってのスラバヤでの日々は、とても幸せな日々だった。

南洋編 6 ~スラバヤ勤務~

2010年06月25日 | 人生航海
私達停泊場の残留部隊は、クラガンに数日間滞在した。

敵側が残したいった乗用車が、戦利品として徴発されていた。

自動車は、フォードの41年型で、その数日間の滞在中に、停泊場の運転士から車の運転を教わることになった。

特に、私は運転に興味があって、覚えるのも案外早く、一人で運転ができるようになっていた。

残務作業もようやく総てが片付いて、停泊場本隊のあとを追い、スラバヤに向けて出発する事になった。

その際、私に「あの車を運転する自信があれば乗って行くか?」と訊かれて、運転士からも「大丈夫だろう」とお墨付きを貰ったのである。

早速、その自動車に積めるだけの食品を積み込んで、クラガンを離れ、スラバヤに向かったのである。

生まれて初めて、自動車を運転して走ることになり、内心喜んだが、少し緊張しながら走ることになった。

ジャワ島は、今までオランダの植民地だけあって、クラガンからスラバヤまで、当時の日本の道路事情と違い、どこまでも完全に舗装されてあった。

私の未熟な運転でも心配無く、車を走らせる事が出来たのである。

以後は、私は、自動車運転に夢中になったのである。

そして、スラバヤ港の停泊場本隊の司令部に到着後、全員で残務報告をしたのである。

とりあえず休養することになったが、翌日には、山賀少尉という将校から正式な辞令が出ると聞かされた。

日本軍は、上陸後速やかに、インドネシアの占有統治、スラバヤ港の管理統括の組織作りに着手していたのである。

翌日、私の担当の仕事は、港内の信号係と言い渡された。

職場は、武市軍曹の外に四人と私は、停泊場本部の中央埠頭突端にある信号所への勤務と決まっていたのである。

南洋編 5 ~船舶工兵隊~

2010年06月24日 | 人生航海
各部隊が上陸したのち、付近一帯の海には、前日の海戦で敗れて沈没した敵艦の乗組員達が、静かな海上で白旗を振っていた。

また救命筏、板切れや浮流物等に掴まって泳ぐ者達も多く、なかにはゴムボートに乗った者達も助けを求めて手を振る者もいた。

しかし、勝手には救助は出来なかった。

戦闘が完全の終わった後に、海軍が、全員を救助して捕虜として収容したとの事である。

因みにインドネシアでのスラバヤ沖海戦にて、敵艦(連合国ABDA艦隊=アメリカ、イギリス、オランダ、オーストラリア)海軍に与えた損害は、巡洋艦轟沈3隻、大破又は撃沈4隻、駆逐艦撃沈6隻で計13隻をジャワ海に葬ったのである。

この結果、当時のオランダ領ジャワ島での資源確保と占領という所期の目的を遂げることになったのである。

この敵前上陸を振り返ると、忘れてならないのは・・船舶工兵隊の活躍である。

隠れ場所もない砂浜で敵機の機銃掃射を受けながらも、大発艇や小発艇で武器弾薬、そして兵隊を乗せて、運輸船団と海岸の間を何度となく往復したのである。

必死の覚悟で操船して、如何に国の為とは言え、船舶工兵隊の活躍は大変であったと・・あの当時の事を思い出す。

上陸作戦が終わって見ると、上陸地点に敵兵が居なかった事が幸いだった。

もしも、上陸地点に敵のトーチカや砲撃陣地があって、一斉射撃を受けているならば、もっと多くの死傷者や犠牲者が出た事であろう。

その後、上陸地点に多くの揚げ荷が残されて、その仕分けや輸送や整理が、私達の任務であった。

その間にも、船舶工兵隊は、すぐにスラバヤに向かっていたのである。

南洋編 4 ~敵前上陸開始~

2010年06月23日 | 人生航海
そして、船団の護衛艦の全艦は、直ちにジャワ島沖に急行して大海戦となる。

この海戦が、太平洋戦史に残るスラバヤ沖海戦であった。

その結果、日本海軍は、大勝利を収めたのであった。

この為に三日間程遅れたが、再び船団は、護衛艦とともにジャワ海を航進し、目的の地点に向かったのである。

ただ、制海権は手中に収めたが、制空権は未だに敵方が優勢であり、上陸地点が近づくと敵機の空襲も回数も多くなって、一段と爆撃が激しくなってきた。

敵方も死に物狂いで、戦闘機は、低空からでも攻撃してくるようになった。

爆弾投下や機銃掃射も頻繁になり、船団の何隻かにも多少の被害も蒙った。

我々は、その中を敵機の攻撃に曝されながら、各船は命令に従い必死で目的地のジャワ島クラガン沖の到着したのである。

投錨と同時に船舶工兵の果敢な活躍にて、各部隊は武器弾薬とともに敵前上陸の開始となったのである。

~ 時に昭和17(1942)年3月1日、早朝のことであった。~

上陸地点のクラガン海岸での敵機からの攻撃は凄まじく、敵の戦闘機が、入れ代わり立ち代わり、低空にて情け容赦も無く、機銃掃射を繰り返し攻撃してきたのである。

幸いにして、海岸地帯は椰子の木に覆われて、上空から視界がさえぎられて攻撃目標が見えずにいた。

そのためか、敵機は、目暗滅法に機銃掃射をしてきた。

その僅かな合間を見て、私達は揚げ荷の整理を行った。

爆音が聞こえると、直ちに荷物の陰や椰子の木に隠れて、敵機の去るのを待ってから、また作業を続けた。

その間、先発部隊は、すでに進撃を開始していた。

上陸地点のクラガン海岸で、まったくの偶然に吃驚したことがある。

偶然にも、船舶工兵隊にいた同郷の百島の年長者である藤本一二三さんと上陸海岸でバッタリと出会ったのである。

もし、あの日、あの場所での藤本一二三さんとの奇跡的な出会いがなければ、私が、あの敵前上陸に参加していた事は、郷里の誰もが信じてくれなかったであろう。

南洋編 3 ~スラバヤ沖海戦前~

2010年06月22日 | 人生航海
船団は、その後も南下を続けたが、毎日暑い日が続いて寝苦しかった。

そのため甲板に上がって涼む者も大勢いたが、このあたりまで来ると日中必ず何回かのスコールの土砂降りがあった。

雨が降るので、皆、石鹸や手拭いを持って甲板で自然のシャワーを浴びて、南方の暑さを凌いでいた。

フィリッピン南部のホロ島付近で、船団は、一時航行を停止したことがある。

詳しくは知らされなかったが、再び日本海軍の艦船に護衛されながら、マカッサル海峡の南下を続けた。

だが、この頃から敵の偵察機が高度の上空を以前よりも飛んで来るようになり、その後、いよいよ爆撃機も現れるようになった。

しかし、爆弾投下をしてきても、敵機の高度が余りにも高いので命中する事は無かった。

そのうえ、各艦船からの砲撃を恐れて、低空からの爆撃は一度もして来なかった。

もし低空からの爆撃があれば、各艦船からの高射砲や機関砲での一斉射撃をされるのである。

ただ、あの時に敵機からの爆撃があれば、我方も全面攻撃の開始となり、絶対に安全だったとは言えず、そう思い想像するだけでも怖い事態に至ったかも知れない。

しかし、目に見えぬ潜水艦からの攻撃が恐ろしいのは、当然の事だった。

それを恐れながらマカッサル海峡を南下中の2月20日を過ぎた頃、突然、ジャワ島沖に敵の大艦隊が現れる・・との報が入ってきたのである。

その為、全船団は、ボルネオ島のバリックパパン沖に引き返して、一時待機することになったのである。

南洋編 2 ~水葬の儀~

2010年06月21日 | 人生航海
夜に入り、高雄港の岸壁に接岸中の輸送船に全員が乗船を終えた。

船内は、多くの物質と人員で身動きも出来ぬほどであった。

船倉内は、三段作りで千人以上の兵隊が乗れると言う事だった。

そして、夜が明けぬうちに台湾高雄を出港して、フィリッピンのルソン島のリンガエン湾に向かったのである。

リンガエン湾に到着後、約50数隻の大船団を組むことになったのである。

数日後には、日本海軍の巡洋艦、駆逐艦、駆潜艇等の十数隻の艦船に護衛されて、フィリッピンのリンガエン湾から南方に向けたのである。

いわゆる、ジャワ島上陸作戦の開始となったのである。

主力部隊は台湾第四十八師団であったが、勿論他の部隊も多く参加した事は言うまでもなく当然の事だった。

船団の隊列は、二列縦隊で航進して、約500メートルぐらいの間隔を保ち、左右前後に護衛艦の守られていた。

悠々と航進を続ける大型輸送船団の威風堂々たる光景は、まさに壮観であり、日本国の威力の象徴だった。

既に制海権は我が方にあったので、時折高度で飛んで来る敵方の偵察機が気になるぐらいで、それほど怖いとは思っては無かった。

むしろ目に見えない潜水艦からの攻撃が不安だったのである。

船団の速力は、約10ノットを保ち、ジャワ島を目指して一路南下を続けた。

航進中のある朝・・船倉の底に兵隊が落ちて死んでいると、皆大騒ぎになった痛ましい事故があった。

所属の隊長と船長の指示により、遺体は水葬の儀に付されたのである。

初めて観る水葬式であった。

誰も悲しい別れの出来事で、遺体は日章旗に包まれて船尾から静かに海に降ろした。

見送る人々は全員合掌すると、長声一発汽笛を吹奏して見送ったが、悲しい別れであった。

他船も無線で知ったのか、遠くから寂しく汽笛の音が聞こえてきた。

遠洋航路での水葬の話はよく聞いていたが、私は、この時初めて水葬の儀に立ち会ったのである。




もったいない!!

2010年06月19日 | 千伝。
福井市街地中心部・・昨日から物々しい警備体制である。

他府県からの機動隊、警察車両も多く応援に来ている。

今日明日、福井にて、APEC(アジア太平洋経済協力会議)参加21ヶ国のエネルギー大臣、閣僚が討議開催されている。

主要テーマは、「エネルギー安全保障に向けた低炭素化対策」である。

今夕には、福井宣言も調印採択された。

昨夜の歓迎レセプションで、福井県内の中学生がまとめた提言は、「福井の子どもたちからのメッセージ」と題したものだった。

エネルギーの有効利用。
クリーンエネルギーの導入推進。
持続可能な成長の実現。

APECの参加国、地域の一人一人が「もったいない」という意識を持とう。
エネルギーの確保や地球温暖化防止に向けてルールを作り、皆で共有し実践することが必要。

地元の新聞を読んでいると・・。

福井県政界経済界もビジネス交流の促進。

宿舎となったホテル(藤田観光)も総力戦で福井の食材を使い自慢料理でもてなしているとか・・フォーシーズンホテル椿山荘の総料理長が指揮している。

福井の中小零細企業への見学やら福井のおろしそば、福井梅、福井らっきょう、福井の焼きサバ、福井のコシヒカリ、福井の酒、福井の水・・これだけでも十二分の「おもてなし」ができるのに・・。

嗚呼、もったいない!

もうすぐ、2010ワールドカップ・・日本vsオランダ戦が始まる。

日本中のマスコミが、NHKさえも早朝から、この話題ばかりを取り上げている。

日本チームの勝利で、飲めや食えやの大騒ぎで明るく元気になるのもよいかもしれない。

でも今夜9時は、ワールドカップ戦の裏番組となるNHKのスペシャル番組「沖縄返還密使 若泉敬」を観ることにする。

多くの日本人に観ていただき、そして、日本の未来を考えていただきたい番組ではあるが・・。

嗚呼、もったいない!

南洋編 1 ~台湾高雄~

2010年06月18日 | 人生航海
宇品に帰ってから、どのくらい経ったか定かではないが、私は以前と同じ事務職の仕事をさせられた。

その為に、その後何処へ行っても軍属工員のなかで事務員として扱われる事になった。

戦時中、それが私の運命とでもいうのか、その後も幸運が続く事を願う他何もなかった。

そのうち、私達に再び移動命令が出た。

或る夜のうちに乗船して、広島宇品港を出港したが、行く先は再び知らされない侭だった。

そして、数日後に到着したのは、又台湾の高雄の港であったのには、誰もが驚いたのであった。

しかし、前回と違い・・既に戦闘態勢に入っていたので、どことなく緊張感が溢れていたのである。

宿舎も以前と同じ小学校であった。

その後の南方侵攻作戦に備えての待機であった。

当然、私達の行動は秘密ゆえ、誰も知る事は出来なかった。

その度の此処での滞在は長引いて・・昭和17年の正月も台湾で迎えると云う、誰ともなく、そんな情報が駆け回っていたのであった。

その為か、私達の日常生活は、ある程度自由に外出も許されて、一般人とも変わりはなかった。

噂通り、正月を台湾の高雄で迎えることになった。

その後も暫く待機が続いた。

当分の間、移動の気配は全くないまま、毎日が何事もなく過ごしていた。

が、その間に、新しく多くの知識人が、加わって来たのである。

毎日の待機中に、その方々から豊富な知識を得ることも出来て、後々のために好い勉強となったのも、私の思い出のひとつなのである。

昭和17年1月も過ぎて、2月に入ってから、ようやく高雄を出る時が来たのである。

広島宇品編 8 ~太平洋戦争勃発~

2010年06月17日 | 人生航海
いよいよ、宇品港からの移動となった。

初めは行き先を明らかにせず、南支の広東とかと聞いていたが、台湾の高雄に行く事になり、乗船する船名も決まっていた。

大阪商船の佐倉丸で通称「サ型」と言って佐渡丸、讃岐丸、相模丸、佐賀丸・・他に何隻もあったが、当時の新型貨物船で20ノット以上の速力があり、その頃では優秀な貨物船だった。

当時、大阪商船の大の字マークは有名だったが、黒く塗られていた。

私達軍属隊は約50名で編成されていて、停泊部隊の分隊であったが、私達が乗船した佐倉丸には他の兵隊も多く乗船していた。

数日後、台湾の高雄港に入港して、その日に下船となったのである。

そして、トラックに乗せられて、着いた所は、とある小学校だった。

そこで当分滞在したのである。

しかし、その後の事は一切分からずに、ただ待機という他に何も知らされないまま、何事もなく毎日を過ごしたのである。

そんな退屈な日々が当分続いて、早く行き先が決まればよいと思っていた。

それから、しばらく過ぎたある日、広東方面に行くと聞いたが、行く先も何も分からないままに、その夜のうちに全員乗船して、翌早朝に高雄を出港した。

一昼夜ぐらい航走して、何処かに停泊したように思ったが、上陸の気配は全くなく、詳しい事は何も知らされず、船内にて二日間ほど待機して待った。

そして、再び行く先が変更になったのである。

此処まで来て、また、宇品に引き返すと聞いたのである。

いかに、軍の作戦と云えども、無駄な事をするものと思った。

そんな日々の折り、あの昭和十六年十二月八日を迎えたのである。

日本海軍が、ハワイの真珠湾攻撃を行ったのを機に、アメリカ、英国に宣戦布告を遂に発したのである。

戦争となる事は、既に予期した事であって、宇品港では慌しさも増して、軍人、軍属の移動も目立っていた。

日本全国が、一致団結して、非常事態にあたり戦争に備えていたのであった。

広島宇品編 7 ~墓参り~

2010年06月16日 | 人生航海
以前も述べたが、当時の広島の宇品港は、日本軍の玄関口として大きな役割を果たしていた。

多くの兵隊や物資を戦地に送り出す移動拠点で先端基地として日本でも最も重要な港のひとつであった。

その為に、どこの港よりも船舶の出入りは激しく移動があった。

また、その頃は、広島の街全体が正に軍事一色に染まっていた。

国民一丸となって、一生懸命、お国の為に働いた事は、言うまでもなく当然のことであった。

そんな時期、私は、帰国後、初めて両親の墓参りをすることができた。

久しぶりに、百島の我が家に帰ってみると、以前とは何も変わらなかった。

狭苦しい家で、祖父母と弟妹達三人の五人暮らしの生活をしていた。

祖父の小漁師の僅かな収入と毎月の私の送金をあてにしての、その日暮らしの生活のようにも映った。

でも、毎日暮らせている事がわかっただけでも、何よりも私には安心が出来たのである。

僅かな短い間であったが、念願の両親の墓参りもすませて、心の重荷を下ろすことが出来たのである。

私は、祖母に妹と弟達のことを頼んで、好きな物を買う様にと、貯金通帳を渡して置いた。

親戚の叔父叔母にも留守のことを頼み、短い休暇を惜しんで、また宇品に戻ったのである。

時は、昭和16年秋、冬が間近かに迫っていた。

運輸部に戻ると、僅かな間に急に宇品の雰囲気が変わり、近日中に何処かに移動する準備をしている様子であって落ち着く暇もなかった。

そして、私達軍属にも既に移動命令が出ていたのである。

広島宇品編 6 ~事務職~

2010年06月15日 | 人生航海
そうして、私は事務員に選ばれることになったが、何の特技も学歴もない私が、何故選ばれたのか不思議に思えてならず、恥ずかしいような思いもあった。

だが折角、事務員に採用された以上は努力する他ないと思い、それからは勉強して頑張ろうと心に決めて勤めようと思った。

他に選ばれた中の一人は、徳島県出身の方で名前は「久一成功さん」という30歳ぐらいの驚く程、達筆の方であった・・それまであんなに字の上手な人に会った事はなかった。

もう一人の方は、私よりも20歳ぐらい年長の方で、以前は会社の事務員だったという事であった。

いずれにしても、選ばれたからには真面目に勤めるのが何より大事だと思ったのである。

労働作業ではなく、大勢の中から選ばれたので、これも運勢だと思い嬉しくもあったので喜んで仕事に励むことができた。

事務所勤務は、毎日葉書や手紙の検閲や書類の整理、運輸部本部との連絡や雑用で忙しく、多忙な日が続いた。

その頃にも、人生の運不運を感じるようになっていた。

戦時下にあっても、大勢の人の中には色んな人達がいて、酒癖の悪い者達や、または喧嘩早い者もいたし、暴力をふるう者様々いた。

休みの日には、必ず誰かが問題を起こして制裁を受けていた。

そのうち事務所の仕事にも慣れた頃に、私達軍属にもまた移動の前兆があった。

私は、まえに一度墓参りの休暇を出せなくて帰省が延びていたので、思い切って何とか少しの間でもと、墓参りの休暇願いを出す事にした。

「そんな事なら、すぐにでも帰ってもよい」と簡単に三日間の休暇の許可が下りたのである。

久しぶりの帰省で、ようやくの墓参りが叶ったのである。

広島宇品編 5 ~採用通知~

2010年06月14日 | 人生航海
運輸本部に退院報告をして、総ての手続きを宇品の司令部に依頼した。

約一ヶ月位の入院生活であったが、運輸部に戻ってみると軍属の募集や徴用で大勢の軍属や工員達がいて、転用組も含めて次期作戦に備えている事が直ぐ分かる雰囲気だった。

退院後、一度休暇を貰って、父母の墓参りに帰りたいと思ったが、そんな様子の折、個人的な休暇を申請するのも無理だと思った。

休暇申請は、取り止める事にして、退院した事やその頃の状況、墓参りも無理な事を伝えて、いずれ近いうちに必ず帰省するからと・・百島の実家に手紙を書いて送った。

その頃、軍属と工員の新しい編隊が出来ていた。

その新しい編隊の教育指導の責任者となる教官が、運輸部に赴任してきた。

教官は、戦地で片腕を無くした元退役将校で、傷痍軍人として、ある上司に推薦された立派な人格者だった。

その当時は、「軍国の花嫁」と言う言葉が、一般に流行っていた頃だった。

その教官の奥さんもその一人で、毎日、宇品近くの家から、夫の教官に弁当を持って通う軍国の花嫁だと尊敬されていた。

そんな折に、全員に自筆で住所と氏名を丁寧に書いて司令部に提出する様にとの通達がああったのである。

その後、三名に事務所から呼び出しがあり、その中に私の名前もあった。

提出された文字の筆跡やその他を総合して、三名を選んだと言われた。

そして、事務職員として働くようにとの採用通知の指示書を渡されたのである。

広島宇品編 4 ~退院~

2010年06月13日 | 人生航海
病院での日常もそのうちに慣れて、新しく人間関係も出来てゆく。

その病院には、少し年上の兵隊で、北支からの帰国者が患者として入院していた。

その人は、退院が近いらしく、毎日のように私のところに遊びに来て、病院内の事やら看護婦さんの事をよく教えてくれた。

そして、大野町から通勤されていた看護婦の木原さんという方を紹介された。

木原さんは、親切で、面倒見も善く、患者の評判も良く、皆から好かれていた。

入院生活も一ヶ月近くなって、軍医の診察があり、「翌週中にでも手術するか?」と訊かれた。

私は、「ハイ」と答えた。

が、看護婦の木原さんが「蓄膿の手術は辛いのよ。別の病室に手術を終えた人がいるから、訊いてみたら・・」と言ってくれたのである。

早速、尋ねて様子を聞いて、私の症状を話してみると、それぐらいの状態ならば、「手術しない方がいい」と詳しく教えられた。

すぐに、木原さんに話して手術をしない事を伝えた。

そして、軍医には伝えにくいと思う私の気持ちを察してくれたのか、「軍医には、私から伝える」と木原さんが言ってくれたのである。

翌日には、軍医から呼ばれて、「手術もしないのなら入院していても仕方無いので、いつでも退院してもよい」ということになった。

私もそう思い、翌日には早速退院の手続きを終えて、宇品の運輸部に復帰したのである。

広島宇品編 3 ~祖父と孫~

2010年06月12日 | 人生航海
祖父は、人に道を尋ねがら、横川の病院に一人で急いで来たとの事であった。

交通の不便な島から、船に乗り、そして汽車や電車を乗り継いで、知らない処を何度も人に尋ねながら此処まで来たかと思うと、私は嬉しくもあり、申し訳ない思いがした。

昭和16年だったので、祖父の歳は、やはり80歳過ぎていた。

当時の人達は皆老けていたが、祖父は、余計にさらに老けてみえた。

何年振りかに逢った為か、それとも気苦労したのか・・そして言葉遣いも変わっていた。

あんなに頑固な祖父だったのに、孫である私に丁寧な言葉で話すのも考えられない事だと思った。

そして、祖父は、家の様子を少し話して、祖母と兄弟達の事を聞くと、「婆さんも歳をとったが、元気で子供達と達者でいるから安心しておくれ」と言った。

それから「早よう治して、墓参りに戻って来ねぇ」と言うと、老いの目に涙が滲んでいた。

百島の様子なども少し聞いて、帰りが遅くなると、船に乗り遅れるから、早く帰るようにと言って、「お爺さんは、お金を持っているのか?」を訊いてみると、「毎月充分送って貰うのである」と言った。

「それより滋養になるものを食べて元気になんねぇ」と私に言って、帰る事になった。

病院の門まで送って、別れ際に、そっと懐にお金を幾らか入れて汽車賃や弟妹たちに土産を買って帰るようにと頼んだ。

祖父は、孫である私が子供の時に百島を離れて、それからは家族の為に働いたお金を仕送りをしてくれる感謝の気持ちからだろうか・・少し歩いては振り返り、また歩き何度も振り向きながら帰った。

あの後ろ姿が何故か寂しく思われて、手術が終わり良くなれば、一度百島の実家へ帰らねばと考えた。