学生レポーターとして行ったグアム、サイパン島での思い出。
テーマは、「小さな島で大きな地球を考える」でした。
選ばれた学生レポーター逹は、皆優秀。
同じく随行した先生方は、映画監督、音楽家等々。
その日の先生は、東京大学出身の映画監督。
脚本家の倉本聰さんは、学生時代からの同志だとか。
自己紹介方々、東京芸大生やら後輩となる東大の学生レポーターとは話が盛り上がり・・美学の世界だとか、昔話とか、大盛り上がり。
売れる役者、売り込みの鉄則、等々。
僕は黙って聞いていましたが、そのうち、監督が「君はどこの学生さんかな?」と僕に話を振って来ました。
東大、東京芸大、京大、早稲田の学生の自己紹介から、一気に偏差値下げて「亜細亜大学です」ではね⁉ 空気が変わりそうな雰囲気?
これでは物足りなくなりそうなので、「杉並区の下宿先の近くに、菅原文太さんが住んでいます。それから東映の大泉撮影所にはエキストラのアルバイトで何度も通いました」と付け加えて答えました。
すると監督、急にウィスキーを、そのまま直接アイスペール(氷入れ)に注ぎ込み、それを回し飲みをするようにと指示を出します。
「明日は、映画を観に行くぞ。ここではブルーフィルムが公に観られるぞ」
若い学生逹にとっては、悦びそうなプランでした。
そうこうするうちに、酔いが回った頃には、「皆、もう仲間だ。証に同盟血判状を作ろう。親指に傷に入れて・・」と監督は言います。
まるで、ヤクザ映画ではないか?
映画界は厳しいなぁ❗
上下関係もツライだろうなぁ❗
未来ある賢い学生レポーター逹は皆、静まり返り、その雰囲気に引いてしまいました。
これからの人生、何を売りにするのか? 人生に何を求めて買うのか?
何を選択すべきかを少し気付いた瞬間でした。
あの時、率先して血判証に押印していれば、人生どうなっていたかな?
もう40年以上昔の思い出話です。
当時、監督の年齢は40代過ぎたばかりの働き盛りだったのが意外、もっと老いた雰囲気がありました。
売れる映画、売れない映画の狭間の中で、きっと映画への想い、野心、希望、多くあったのでしょう。
その先生は、「日本の首領」、「極道の妻たち」等々、東映京都で数々の映画を撮られた中島貞夫さん。
中島貞夫監督の訃報ニュースを知り、御悔やみ申し上げます。
南の島で出会えた時間、青春時代のひとこまに感謝です。
合掌