百島百話 メルヘンと禅 百会倶楽部 百々物語

100% pure モノクロの故郷に、百彩の花が咲いて、朝に夕に、日に月に、涼やかな雨風が吹いて、彩り豊かな光景が甦る。

八月晦日

2010年08月31日 | 千伝。
8月21日、故郷の百島に帰省しました。

先祖が眠る海辺沿いにある墓地は、大きく広がり賑やかでした。

百島の人口が減るたびに、お墓が増えてゆく具合に、墓地だけが栄えるのでしょう。

しかし、あと20年ぐらい経つと、墓参りが途絶える時には、墓地は雑草に覆われてしまいます。

その後、この墓地は、どんなふうになるのだろうかと思うと、寂しい気持ちになりました。

百島から帰福すると、いつものように曹洞宗大本山 永平寺に詣ります。

百島にある唯一の寺、西林寺は曹洞宗であり、我が家も曹洞宗門徒であるからです。

とは言うものの、時と場合によっては、安心安全を求めるためには、南無観世音菩薩、南無阿弥陀仏、南無妙法蓮華経、アーメン、ハレルヤ・・いろいろと唱えてしまいます。(笑)

女性は、肌を露出してはいけないモスク・・。
十字架を逆さま方向から切るロシア正教・・。
祈りの時には掌を横にして指を絡ませるユダヤ教徒・・。

すべて意味があります。

その意味をすべて理解してゆくだけでも大変な労力です。

・・宗教、寺院、参拝、墓地巡りというのは、切り離して考えて行動する方が、より多くの神々や御仏の御加護を祈る力の源のような・・何かを信じることができるのだと感じて思うのです。

今年八月・・信州長野の善光寺、京都の清水寺・・と続けざまに参拝。

来年の八月にも生きて参拝出来ることを信じて、明日から九月。

捕虜時代(俘虜生活) 4 ~かたつむり~

2010年08月20日 | 人生航海
何を言ってみても、敗戦国の軍人であり、捕虜として扱われるのは当然であり、案外軽い処分で済んだと思った。

捕虜として、まず自分達の住む場所を作る事から始めた。

近くのジャングルから適当な木を切り出して、棟木や柱等をつくり、手分けをして、茅をきり集めて、藁葺きの家を何棟も作った。

ゴム林は、幹の間隔が等しく植えられてあり、その幹と枝を利用して作るので、案外簡単に出来た。

僅かの日数で、全員の力によって、仮宿舎は出来上がったのである。

元工兵隊であったので、本業同然なので、建物を造るぐらいは、簡単な事であった。

他の悩みは、食べる事であった。

連合軍の配給では、とても足りるものではなかった。

生きる為、野草を探したり、ジャングルの川で魚を捕ったり、デンデン虫を食べた事もあった。

デンデン虫は、灰で揉んで、ヌルヌルを除いて、炊いて食べたのである。

捕虜時代(俘虜生活) 3 ~収容所~

2010年08月19日 | 人生航海
長い地獄の道程もようやく終わった。

何が何でも、その困難を乗り越えて、帰国できる事のみ願った。

そのせいか、一人の落伍者も出なかったのは不思議なぐらいであった。

着いた所は、ラヤンラヤンというゴム林で、そこが私達の収容所であった。

到着早々、休む暇もなく尋問が始まって、一人づつ個々に調べられる事になった。

特に、戦闘に関しての事を訊かれたが、私達初年兵には、何にも心配もなく終わったのである。

尋問は、一応何事もなく終わり、身体検査と所持品調べになった。

越中褌だけの裸で、野戦郵便貯金通帳を褌の紐に挟んで、他の私物品も調べられた。

腕時計やライター等の珍しいものは殆どが取り上げられて、残されたのは、背嚢と軍服類と毛布に日用品ぐらいであった。

こうして、最後の事情聴取と検査も何とか済んだが、戦犯は、連合軍の判断で三段階に分けられた。

ブラックとグレーとホワイトの三通りのテントがあったが、運良く私達初年兵はホワイトのテントに入れられた。

もし、ホワイト以外のテントならば、重労働が科せられたのである。

捕虜時代(俘虜生活) 2 ~地獄の道程~

2010年08月18日 | 人生航海
その後は、手足をもがれた蟹の如く、連合軍の指示で行動する他なかった。

仮の収容所に入り、此処で当分捕虜として扱われて、この先の収容所が決まるまで過ごした。

全ての乗り物は没収されて、大八車だけが認められた。

その大八車だけを頼りに、それまでの荷物全部と持っていた主食品等の全てを仕分けして、歩かされる事になった。

まず命の糧である食料が大事と思って、何台もの大八車に積んだ。

行く先も分からないままだったが、それも捕虜に対する罰則なのか・・昼夜の別なく歩かされた。

大八車を交代で引いたり押したりしながら、昼間に歩くには余りに暑いので、なるべく睡眠は、木陰で昼間にとったのである。

食事は飯盒炊飯で行い、主に夜の間と言っても、毎日歩き続ければ、足に豆が出来る。

痛んで歩けなくなって靴を脱いで、裸足で歩いてもみた。

少しの間は、足は軽くなった様でも、やはり長歩きをすると痛かった。

それは、地下足袋に替えても同じだった。

そんな状態で、どのくらい道を歩いたかも、よく憶えてない。

人間は、不思議である。

疲れた時には、眠くなると・・大八車に手を添えたまま、歩きながらもぐっすりと寝込める事も、この時に分かったのである。

昼間は、少し歩いては、小休止と大休止を繰り返し、日暮れを待って、また歩き続けていたのである。

捕虜時代(俘虜生活) 1 ~武装解除~

2010年08月17日 | 人生航海
悪夢のガス弾投棄は漸く終わったが、隊内では、武装解除問題が起きた。

血気盛んな兵隊達が大勢いて、大和魂を誇りとして、如何に終戦になったと雖も、陛下よりお預かりした兵器を敵に渡すのは偲び難いと言う。

菊のご紋章の刻印を、敵に汚されないようにと、ご紋を全部削り落としたのである。

何と言っても、敗戦は事実であり、戦争に負けた事は変わりなく、どうする事も出来ない儘に、その後も色んな情報が飛んでいた。

そのうち、連合軍の指揮下に入った事を知り、近々武装解除を行う事も決まったが、武装解除の場所は、しばらく何処になるのか、皆わからなかった。

そして、クアランプールの駅に行って汽車に乗る時であった。

その際、日本軍に対して、それまでの感情が一気に噴出したのか、現地人達が駅のホームなで押し寄せて、いろんな罵倒を浴びせられて、窓ガラス越しに唾を吐いて、小石を投げる者もいて、一時、不穏な空気が漂ったのである。

その時は、まだ武装解除前で、小銃等の武器は皆持っていたので、下士官の誰かが、腹立ち紛れに「この野郎、一発ぶっ放そうか」と銃を手にして興奮したりもした。

上官に「我慢しろ」となだめられて、その場は何とか収まり、そのうちに汽車が動き出した。

我々は、どこかの小さな駅で降ろされて、そこで武装解除が行われた。

既に、会場は準備が出来ていて、印度(インド)軍側の隊長は少佐であり、我が方の部隊長は中佐であった。

そして、敗戦国の悲しさで、我が方の部隊長が、先に敬礼する。

武装解除の儀式は、部隊長が相手の隊長に敬礼して、軍刀を渡して終わったのである。

初年兵時代 6 ~悪夢~

2010年08月16日 | 人生航海
ようやくして、本隊に復帰したが、そこではまだ、大きな動きはなかった。

それから、数日過ぎた頃に、隊内でも古年兵が両手を掲げて見せ「どうも日本軍は、これらしいぞ」と広まった。

そして、敵の飛行機が日本軍敗戦のビラを空から落とすようにまでになった。

それでも、中隊長は、隊全員に訓示を行い「日本軍はまだ戦争に負けていない。敵のデマにのるな」とビラの回収に躍起となっていた。

さらに、各民家を廻り、ビラの回収を命じたのである。

そんな事をしても何の役に立たず、遂には、当時に南方軍最高司令官であった寺内元帥の戦闘行為の停止命令が発せられた。

事実上、戦争は終結したのであるが、それ以後は、中隊は、大きな問題を背負わされる事になったのである。

国際法違反を恐れた上層部の命令で、多くの違法ガス弾を舟艇で海洋放棄することになり、その役目が、私達の船舶隊に課せられたのである。

船舶工作隊であった為に、各部隊から終戦処理として、その後当分の間、秘密に海洋投棄を行う事になったのである。

その為、各部隊は、毎日、ガス弾を運び込み、大発艇や小発艇に積んで、沖の船台から海中に捨てた。

その現場を見られないように、各所で見張りの舟艇を配置して厳重に監視した。

しかし、そんな事とは露知らない現地の漁船が漁に出ていたが、監視船に見つかれば、絶対に見逃してはいけないという命令があったのである。

その船台に連れて来られたら最後で、幾ら可哀想と思っても、命令を曲げられないと云って殺害をしたのである。

何の罪もない漁師達を、初年兵達に命じて、無理に縛って弾薬庫とともに海中に突き落としたのである。

罪のない命を奪った・・軍刀で試し斬りとばかりに阿鼻叫喚と化した地獄図絵でもあった。

突然に捕われて命を奪われた人達の中には、その直前に何かを観念したのか、諦めて、静かに目を閉じて、両手を合わせる人もいた。

それほど、哀れで、可哀想に思ったことはなく、当時の私達新兵は、何も出来ず、何の術もなかったのである。

初年兵時代 5 ~終戦と混乱の始まり~

2010年08月15日 | 人生航海
艇長は、それ以後も試運転は何回も行い、その度ごとに、循環水の出が悪いとか、エンジンの熱が高いとか言い、難癖をつけていたのである。

特に、クラッチの調子は悪かったので、艇長は、完全になるまで絶対に良しと言わず、受け取りを拒み続けて、本隊には帰ろうとはしなかった。

今になって、あの当時の事を考えてみると、如何に私達は無知であったのかと思う。

唯、軍部の大きな権力に操られていたに過ぎない。

特殊艇と言っても出来損ないの船であって、もし実戦で敵艦に遭遇していたならば、戦わずして撃破されたのは明らかであった。

艇長は、その事もよく知ってのうえで、本隊に帰る事を拒んだのだろう。

そうしている間にも、何処となく周囲の雰囲気も変わり始めていたのも確かだった。

広島に新型爆弾が投下されて可也の被害があった模様だとも知らされたり、ラジオニュースでも放送したとか・・。

日本は、既に降伏したとか、嘘か誠か分からぬデマが飛んだのである。

ある部隊は、もし戦争に負けて降伏する事になれば、日本軍は皆殺されるので、「最後の一兵になるまで戦い続ける」というような話も出た事も事実であった。

それも無理からぬ事で、軍人勅語や戦陣訓に「死すとも敵の捕虜になる事は決して許されず」・・そのような事は知り尽くしていた。

そして、突然、ポートセッテンハムの本隊に急遽帰ることが決まった。

シンガポールをあとにして、時速25ノットの全速力で本隊に向かったのである。

初年兵時代 4 ~中隊の猛者~

2010年08月15日 | 人生航海
艇長の小田軍曹と一緒に、シンガポールの船舶工作部に着いた。

その後、生死をともにするかも知れない艇は、シンガポールで押収した英国軍のP38型戦闘機のV型エンジンを船舶用に改造して、既に艤装中であった。

完成すると、高速特殊艇として敵の艦船に全速で接近して、魚雷の発射や爆雷攻撃するのが任務だと聞いていた。

もし、引き返す事が不可能である場合には、敵艦船に体当たりをして、自爆し、諸共に、敵艦を沈める特攻隊との事であった。

しかし、如何に専門の技術者でも特殊な改造なので、何回も試運転を繰り返しながら改造を加えた。

そして、艇長である小田軍曹は、完全に出来上がるまで受け取りを拒否した。

納得がゆかねば、試運転を何度でもさせて、直させて、僅かなミスでもダメで、強硬に拒んだのであった。

完全を求めていたが、試運転だと言っては、港外に出ると、現地人のいる魚柵に行って、魚を買って来たりしていた。

夜ともなれば、チャイナ服に着替えて、夜中まで遊んで帰る事が多かったのである。

その遊ぶ金は、いつも甲板上に並べてある燃料のガソリンのドラム缶を現地人に闇で売り渡して得ていた。

日が暮れると、ジャンク舟で取りに来る事になっていたので、ドラム缶二本位を渡したが、その役割を私に言いつけて、その代金も私が受け取るようにしてあったのである。

もし万一、その事が発覚すれば、間違いなく厳罰処分を受けて、罪を免れる事は出来なかった筈であったが、其れは其れなりに秘密は守られた。

その仕組みも、艇長は、十二分分かっていたようであり、その頃は、既に日本の戦争の行方を知っての行為であったとしか思えなかった。

時々、艇長から、日本の将来を聞かされて、流石は、大学出と感心したものであった。

そして、中隊の猛者と呼ばれた艇長と運命を共にする事になっても、悔いはないと思っていた。

初年兵時代 3 ~昭南島(シンガポール)へ~

2010年08月14日 | 人生航海
一日中、朝から晩まで休む暇もなく、厳しい訓練と演習が続いた。

とりわけ辛かったのは、食事と睡眠である。

腹が減る事は、勿論であったが、その日がどうにか終わって、室内の整理整頓を済ませたあと、やっと就寝する時間がくる。

消灯ラッパを聞く暇もなく、疲れが一度に出るのか、ぐっすりと寝込んで、あとは何も判らなくなった。

その侭夜が明けずに、寝かせて欲しいと、いつも思ったが、他に何が辛いと言っても、腹が減った時のひもじさである。

睡魔や空腹以上の生命維持の飢餓状態の辛さは、経験した者でないと分からないであろう。

たとえ、残飯や人の食い残しであっても、人間は生きるため、ひもじさに勝てず、夕食後の食器洗い場での新兵たちは、恥も外聞もなく、手づかみで食缶の残飯を取り合うほどだったが、惨めだったと云う他なかった。

さて、船舶工兵隊と言っても、本来は工兵部隊であり、一通りの教練科目も完全教えられた他に、塹壕掘りや高所での結束等、一応実地訓練も行われた。

このような厳しい訓練と演習が、炎天下の暑さの中で繰り返されたのである。

さらに突撃演習や実弾射撃も行われたあと、強行軍等の過酷な訓練を終えて、そのうちに一期、二期の検閲を終わる事が出来たのである。

そして、二つ星の一等兵に昇進した。

しかし、その年は、既に昭和20年に入り、時期が時期だけに、すぐに各方面へと出向命令が下った。

私は、特殊艇の乗組員として、昭南島(シンガポール)の船舶工作部に配属となり、そこで特攻艇の艤装を行う事になった。

艇長は、小田軍曹以下四人の乗組員であった。

艇長は、中隊の猛者であり、早稲田大学卒の知識も豊富な人格者のように思えた。

その為、皆に一目置かれていたらしかったのである。

初年兵時代 2 ~教育訓練演習~

2010年08月14日 | 人生航海
その後、「隣りの第一中隊に百島出身の赤松曹長殿がいるので、知っている人ならば直ぐに会いに行っても良い」と言ってくれたが、その時には、会いに行けなかった。

その人は、赤松伊勢夫さんで、その頃には兄嫁の兄さんであったのだが、その当時の私は、まだ何も知らなかった。

そうして、初年兵の教育が始まったが、入隊時の優しさとは打って変わって、毎日、厳しい日々が続くことになった。

我々クチンからの入隊者18名と少し遅れて入隊してきた初年兵30名の計48名を新規に教育班として構成されたのである。

第二中隊の初年兵の教育担当者は、今でもよく憶えている。

教官三宅少尉以下、班長井上文七軍曹、その補佐の巽兵長、溝辺上等兵、加藤上等兵の五名からなり、私達初年兵の教育係であった。

そして、愈々本格的に厳しい教訓を受ける事になる。

その後、私達のあとで入った初年兵には、沖縄の人達が多く、言葉に訛りがあり、話し難い点もあり、当分、その点で気を使ったものであった。

初年兵当時の教練の厳しさは、今更言うまでもないが、配属された船舶工兵は、特殊な部隊であった。

専門的な訓練も多く、普通の工兵とは違った。

大発艇・小発艇等の船舶の扱い方や機械の分解・組立まで習うので、当然、舟艇の操縦から取り扱いを全員が出来るようになるまで訓練が行われた。

その他に、船舶工兵の必須科目に手旗信号があって、毎朝の朝礼後には必ず訓練があったが、皆は苦手であった。

手旗信号は、自慢でもないが、私の得意であった。

軍属時代に、中支から南方においても、スラバヤやラバウルで、その仕事に従事していたので、教育班の中で誰よりも手旗信号は、一番上手であった。

その為、手旗の訓練は、私に任せられて、軍隊でも、特技は大事だと思ったものである。

初年兵時代 1 ~入隊時~

2010年08月13日 | 人生航海
船舶工兵第十連隊本部の第二中隊が、正式な配属先名である。

部隊長は、陸軍中佐横尾紋太郎、中隊長は岡本良春中尉、小隊長はクチン以来の教官でもあった三宅少尉で幹部候補出の若い将校であった。

入隊日は、中隊から盛大な歓迎を受けて、軍隊とは思えないほどの親切さであった。

班長や教育兵からも色々と優しく教えられて、その日は、赤飯と頭付きの魚で祝ってくれたのである。

その晩は、初年兵の名簿を見て知ったのか、下士官や古年兵からの呼び出しもあった。

何の用事かと思い、大声で「班長殿に言われて参りました・・・・」と言って何人かの下士官を訪ねた。

「お前は百島の生まれか。俺は福山だから今後何かあった時には、心配せず俺に言って来い。悪いようにはしないから」と云い、「三班には沼隈の武田班長もいるから、今度会いに行って来い」とも云って呉れた。

他にも何人かの上司にも呼ばれたが、皆からも同じ様な事を聞いたのである。

その晩は、早く休ませてくれた。

翌日、教育班長の井上文七軍曹から、入隊時に持っていた貴重品は、全て預けるようにとの通達があった。

私も、自分の腕時計や野戦郵便貯金の通帳等を預けることになったのである。

あの時、班長が、私の通帳の預金高を見て、ひどく驚いたのである。

「お前には、何故こんなにお金があるのか? 部隊の将校でも、これ程の貯金はない」と言われて、説明するのに困った。

「私は、入隊前の会社でダイヤモンドを持っていたのですが、入隊して持っていても仕方ないので、売却して貯金したのです」と云った。

その為、貯金が三千円以上になったと、入隊前の事情を説明したのである。

ボルネオ編 11 ~初年兵~

2010年08月13日 | 人生航海
まもなく入隊日も決まり、愈々バリックパパンを出発する際には、会社関係者、船長、船員の皆に見送られて、軍人として、永の別れを告げて、前線に向かったのである。

日本軍人としての誇りを持って、国の為とか陛下の為とか云って、皆が表向きは、喜び勇んで出征して行ったのである。

それまでは、民間人として自由に過ごしていたが、それからの先の軍隊の厳しさは、誰もが知る処でもある。

覚悟は出来ている積もりでも、本心は、不安だった。

現地入隊者は、バリックパパン地域の方面から約30名ぐらいいたと思う。

客船で、ボルネオ島西部の赤道直下のポンチャナに一旦上陸して、そこでまた多くの現地入隊者が集まった。

そこで改めて、配属先と部隊名も決まった。

私たち初年兵が配属された班部隊は18名だったが、内17名が、大学卒や中卒又は専門学校卒であって、私のみが、小学校卒であった。

その為か、教官は、その班を幹部候補生班として訓練と教育を行うとした。

教官は、「君一人資格は無いが、決して差別しないから。皆と一緒に頑張れ」と私に言ってくれた。

初年兵への訓練と教育は、想像もつかぬ程に厳しかった。

そんな厳しい日々を辛抱して、まもなく当時の昭南島(シンガポール)に渡ったのである。

そうして、ジョホール駅から汽車に乗り換えて、マレーシアの現在の首都クアランプール駅に着いた。

愈々本隊の部隊があるポートセッテンハムにある本隊の第二中隊に配属されることになった。

ボルネオ編 10 ~現地徴集令 クチンへ~

2010年08月12日 | 人生航海
時期は過ぎて、私達は毎日の暮らしにも慣れていった。

当時の戦況等さえも、詳しく知らぬままに暮らしていた。

いつどこで何が起きているのか関係ないが如く、他国の戦争のことのように呑気に過ごしていたものであった。

特に軍事に関しては、当然総てが極秘であったので、不利な情報等は入るはずもなかったのであろう。

だが、日本軍の旗色は、確実に変り始めていた。

海外現地で働く日本からの邦人は、特別に徴兵検査の延期が認められていた。

が、遂には昭和19(1944)年に廃止となった。

そして、現地で徴兵検査を受けるように、私にも通知が届いたのである。

昭和19年度の徴集兵と昭和20年度の徴集兵が、日本での最後の徴集及び徴兵検査である。

結果は、甲種合格となった。

年末には、現地入隊が決まり、ボルネオ島北部のクチンに入隊する事になったのである。

ボルネオ編 9 ~別れ~

2010年08月12日 | 人生航海
そうして、幾多の困難を乗り越えて、運命を共にして、そこ迄一緒だった人達と別れることになった。

寂しい別れとなったが、乗組員は、少しの間休養を貰った。

会社の指示があるまで、当分待機をしていたが、希望する仕事を自分で選んで働く事も出来た。

ある程度は、本人の希望が叶えられて、或る者は青果市場に、又は、港内船に乗る人もいた。

船長は、再就職も出来て、当分の間は、会社の事務所に上がって仕事を手伝い、ゆっくりと仕事をしていた。

機関長は、港内船に責任者として乗り込んだ。

他にも仕事は幾らでもあり、ある程度の希望は叶えて貰い、皆其々の仕事に就いたのである。

ボルネオ編 8 ~灘吉丸~

2010年08月11日 | 人生航海
その頃も、海軍の浮流機雷の掃海作業は続いていた。

私が退院して間もない頃である。

灘吉丸は、掃海中に機雷に触れる事故が起こり、火災を起こして、まもなく沈没した。

その際、水兵二人が負傷したが、他に死者が出なかったのは不幸中の幸いだった。

しかし、日本を離れて生死を共にして、そこまで一緒だった灘吉丸との別れは、仕方なく諦めても辛く悲しかった。

そして、皆、自分の希望を述べて、其々がまた別の仕事を選んで、当分は働く事になったのである。

時勢は、既に日本軍の戦況も大きく変っていた頃である。