百島百話 メルヘンと禅 百会倶楽部 百々物語

100% pure モノクロの故郷に、百彩の花が咲いて、朝に夕に、日に月に、涼やかな雨風が吹いて、彩り豊かな光景が甦る。

人生航海 第一部 ~あとがき~

2010年09月09日 | 人生航海
過ぎし日の想い出は、やはり、スラバヤやラバウルでの滞在時であり、他にマレー半島での初年兵時代と、終戦時の捕虜生活時代の頃である。

あの俘虜生活での食料難の苦しさは、今でも忘れる事はない。

当時の苦労を思い出すだけでも気が遠くなるくらいで、私達は惨めな毎日であったが、それをよく我慢してきたものである。

それ以前に、ラバウルでの大島大尉のご厚意がなければ、今此処に、私が生きている事は不思議であり、あの時に、もし帰国出来なかったら、現在はどんな事になっているのか分からない。

あれから、六十年近い歳月が流れ去ったが、今でも消息不明の方も多い。

スラバヤにて、世話になった方々のうち、何人もの方も戦死しており、消息不明の方も多くいる。

今尚、元気でいる方もいて、戦後、何人かの方に会う事も出来て、当時を懐かしく思い語り合った。

あの厳しい教育の最中で、苦労を共にした幹部候補生の相谷や吉谷達、特に仲の良かった同年兵とも会ってみたいと時々思う。

教育班長の井上軍曹、特攻艇の艇長だった小田軍曹の消息は、今も分からない。

他にも気の毒な方も多くいる。

そんな人達も大勢いる中で、こうして、生き延びてこられた事だけで、このうえ何よりも喜ばしい事で、幸せと思う他なく、嬉しく思わねばならないだろうが、何れにしても、この上好い事は無いと思うのである。

第一部 完 平成十六年十一月十日

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父が、帰国した昭和21年春・・故郷の百島の我が家に戻ると、祖父母は亡くなって、弟も亡くなっており、実家の跡継ぎである兄は、百島を出てゆく状態であった。

戦後、マラリアを患いながらの父の出発は、百島に居を構えて、跡継ぎとして、先祖のお墓と仏壇を守ることであった。

砂一合もないと蔑まれた貧乏家庭へ嫁ぐのかと・・母は、父と結婚する時に言われたという。

それから10年後の冬、私は、父の三男としてこの世に生まれて、父と出会うことになった。

私が物心ついた時は、父は、大阪、神戸と四国、九州を行き来きする瀬戸内海の内航貨物船の船長であった。

父が船長だった白鉢巻した煙突船のある関西汽船のスマートな貨物船は、子供心にも羨望にも似た気持ちがあった。

まだ、フェリー輸送や陸上輸送が全盛到来する以前・・昭和30年代の海上輸送が花形だった時代である。

父から教えられたことは、何だろう?

きっちりと人生の教訓を受けたことは何も無いのである。

「協調性やら人との和を大切にしろ」と言われたことはない。

「野放図な大胆な生き方をしろ」と言われたこともない。

「頭のいい人間は鼻筋が通って言う事もきちんとしている。おまえのような馬鹿は馬鹿なりに健康であれば身体を使って生きろ」と叱られた記憶がある。

唯、生きているだけで怒られ罵られても、そのあとに、笑える嬉しさや歓びがあれば、事足りるのである。

父に出会えたことに感謝である。

これで、亡き父の代わりに「人生航海 第一部」を あとがき 脱稿 とさせていただきます。

ありがとうございました。

第二部は、日を新ためて気分上々に。合掌。

夢に見た故郷へ

2010年09月07日 | 人生航海
船が岸壁に着くと、タラップを降りて、第一歩を踏み締めた感触と嬉しさで、それまでの全てが消え失せた。

婦人会の温かい歓迎を受けて、一人一人に「ご苦労様でした」とお茶菓子等の接待を受けて、その厚意に感謝するとともに嬉しかった。

上陸したその日は、名古屋の復員局に一泊して、それまでの軍隊での俸給等をすべてを精算して貰った。

一応、リバテー乗船の事を聞くと、思った通りで、「何も関係無い」と言われたので、安心して、夕方、夜行汽車に飛び乗ったのである。

そう、夢に見た故郷の百島へと・・名古屋駅から尾道駅に向かったのである。

祖国へ 2 ~郷愁の念~

2010年09月06日 | 人生航海
航海中は、少しは凌ぎ易くなったが、幾ら暑くても、あと何日か過ぎれば、日本へ帰れるのだと思えば、それほど苦にはならず、皆も、やはり歓び勇んでいた。

人は誰しも故郷を遠く離れると、生まれ育った処は、どんな田舎でも忘れることは出来ないものだ。

郷愁の念は、いつも、いつでも、いつまでも、どんな時でもあった。

椰子の葉陰やゴムの木の下で、遥か遠い北の空を仰いで、今は亡き両親や祖父母、そして、小さな弟や妹を思い浮かべた。

懐かしさのあまり、幾度も一人涙したこともあった。

そんな過ぎし日の数々を思い出しながら、船は、夢にまでみた日本に、日一日と近づき、航海を続けていた。

船は、北上を続けて、八日目には鹿児島沖を通った。

櫻島から噴煙が立ち昇るが見えて、誰かが「あれが櫻島だ。日本に帰って来たぞ」と叫ぶと、その声で次々に、皆が甲板に出て来た。

懐かしそうに眺めて、何年ぶりかの祖国を見て、感涙する者もいた。

そして、四国も過ぎて、紀伊半島を周り、十昼夜目に、長い航海を終えて、ようやく祖国の名古屋港に無事に入港できたのである。

祖国へ 1 ~リバテー船上 歓びと悲劇~

2010年09月05日 | 人生航海
乗船するまでは、随分長い時間を待ったはずだったが、この船で日本に帰れると思うと、少々位の時間待ちは何も気にならず、歓びで一杯だった。

皆同じ気持ちらしく、大勢の兵隊で岸壁は大変な賑いだった。

そんな混雑の中で、リバテーの乗船係りは、その整理のために忙しく働いていた。

そのうち、いよいよ乗船が始まり可也の時間を費やして、何とか全員が乗り終えた。

船倉に入ると、大勢の兵隊がすし詰め状態で身動きも出来ないほど窮屈であった。

そのうえ暑さで、蒸し風呂のようであり、出港もいくらか遅れたようでもあった。

ようやく船は、岸壁を離れ動き出すと、通風筒から風が入り、幾らか涼しくなった。


復員船リバテーの船員は、2~3人のアメリカ人の指導で乗船していたが、殆ど日本人であった。

いづれ、この私も、帰国後は、こんな船の船員になると思っていた。

名目は、リバテーの乗組員として採用されて帰国するので、内地に着く早々、乗船させられると思っていたのである。

その話を、若い甲板員に聞いたが、仕事は、案外楽でも、兵隊が大勢乗るのが厄介だと言っていた。

嬉しいはずの帰国への航海の途中に、兵隊と上官、初年兵と古兵との間で、お礼参りとか言って、夜間に甲板に呼び出しては、袋叩きにする出来事もあった。

もっと悲しい事件は、夜陰に紛れて海に突き落とした話があったのも多くの事実である。

それも、戦争が残した悲劇なのか・・。

捕虜時代(俘虜生活) 8 ~さらばラヤンラヤン~

2010年09月04日 | 人生航海
こうして、部隊で私が唯一人だけ、一足先に帰国が出来ることになった。

その時は、帰国の喜びで、天にも昇る心地であったが、あとに残る人のことを思うと、何故私一人なのかと・・やりきれない気持ちもあった。

復員が決まり、中隊長や他の将校や班長にも申告して、リバテー(復員)船の入港を待つことになった。

いよいよ別れの時が近づくと、もし家の近くに行く事があれば、「元気でいる」と伝えてくれるようにも頼まれた。

そして、愈々その日を迎えたが、常夏の国の事で季節もはっきり分からない状態だったが、昭和21年の春であった。

ともに苦労をしてきた初年兵達とも別れを惜しみ、ラヤンラヤンをあとにした。

トラックに乗って、シンガポールまで・・いろんな想いが駆け巡った。

それまでの日々を振り返ってみると、ボルネオでの現地入隊してからは、地獄のように思えた日々もあり、いろいろな事がありすぎた。

生涯の中で、あの時が、最悪の時代であったのは確かである。

が、敗戦の出来事や俘虜生活での食料難等の辛さや苦しさを経験したことは、何ものにもかえ難いものであったといえる。

あの悪夢は、一体全体、何だったのであろうか・・しかし、いつの間にか、それをも消え去ろうとしている。

シンガポールの岸壁に着くと、そこは既に大勢の復員者で喜びに溢れているように思えた。

乗船まで待つ時間は、過ぎし日々の多くの想いが甦り、待つ時間の事などは少しも気にならなかった。

ただただ、帰国できる喜びだけで他には何もなかったのである。

捕虜時代(俘虜生活) 7 ~タピオカと船員募集~

2010年09月03日 | 人生航海
俘虜の生活と言っても、敗戦の兵としての扱われ方が良かったなのかもしれない。

ましてや、私は高熱の病におかされて苦しい時もあったが、「災いが転じて福」となった。

自分勝手な言い分かもしれないが、強い運勢に助けられたと思うのである。

そんな事を思うと、何とか生き延びてこられたのが不思議なのである。

そんな頃である。

或る現地人が、戦争中に日本軍のお陰で、事業が成功した恩返しにと・・タピオカ芋を植えた大きな畑を、そのまま私達俘虜に提供してくれたのである。

各部隊は大喜びで、交代で掘りに行くように決めた。

タピオカ芋は、日本の桑の木のようにみえ、その根は山芋に似ているが、中身は全く違って白く、蒸して食べれば、とても美味く、主食代わりにもなった。

それ以後、食べることにも困らず、皆から大変喜ばれたのである。

その頃は、まだ敗戦の惨めさの中では帰国のことなど、ある程度の諦めもあったことは事実である。

しかし、その後何ヶ月か過ぎた頃に部隊からの通達があった。

「アメリカの復員船リバテーの乗組員を募集するので、応募する者は誰かいないか?」と聞かれたのである。

私は、早速、希望して書類に必要事項を記載して提出した。

あとで分かった事であるが、その時のリバテーの船員募集の理由と目的の本位は、乗組員の募集ではなく、一人でも多く復員させるためであったらしい。

私が、元船員であった事は、誰もが知っていたし、部隊内では、他に船員の経験者は誰もいなかった。

そこで病気等も考慮されて、私が一番適当だということになったのであろう。

部隊の中で、私一人だけが採用される事になったのである。

捕虜時代(俘虜生活) 6 ~幸運~

2010年09月02日 | 人生航海
高熱のため、当分の間、休むことになった。

それ以後、私の健康状態はBクラスとされ、労働作業は無理だということになった。

熱が下がっても、作業に出ることはなく炊事班で働くことになったのである。

その為に、食べる事には心配がなくなったが、その時は、幸か不幸かは分からなかった。

あのお腹が空いて困った時に、炊事場で働く者は、確かに役得だと皆は言っていたが、他の人達のことを思うと、後味の悪い思いもしたのである。

しかし、それらもみな、あとあと振り返れば・・「私は幸運であった」と言ってもよいのかもしれない。

そのお陰で、復員の日までに健康も取り戻して、帰国が出来たのである。

捕虜時代(俘虜生活) 5 ~マラリア~

2010年09月01日 | 人生航海
他には、恥を偲んで近くの農家に行き、畑の手伝いをするからと頼んで、どんな仕事でも嫌わずに働いた。

その見かえりに、芋類や野菜を貰ったりしたのである。

また、連合軍の指揮下にあっても、それまで通り、日本軍の軍規を維持して違反者には、当然厳しい罰則を定めていた。

一目でわかるように、階級章もそれまでと同じようにつけていた。

その為、私達初年兵は、いつまでも、皆からは一番下の兵隊として扱われて命令を守らされていたのである。

戦犯としての兵隊の扱いは、目立つほどではなく、ある程度の使役を割り当てられて、連合軍兵舎の掃除や炊事等をさせられたり、他に道路の掃除や草取りもあった。

私達は、時々、港の埠頭に連れて行かれては、倉庫の整理や色んな使役にも出て働かされた。

倉庫の整理に行った時など、水筒に米を入れて持ち帰る者もいたことを思い出す。

その頃、私は、疲れからか・・突然、高熱が出て倒れてしまった。

軍医の診断を受けると、テング熱かマラリアだと告げられた。