百島百話 メルヘンと禅 百会倶楽部 百々物語

100% pure モノクロの故郷に、百彩の花が咲いて、朝に夕に、日に月に、涼やかな雨風が吹いて、彩り豊かな光景が甦る。

再度南方へ 1 ~呉海軍第十一航空廠~

2010年07月31日 | 人生航海
世界に誇る日本海軍の戦艦大和は、ここ広島県呉で建造された。

その当時は、まだ日本海軍は健在であると信じて疑わなかった時代である。

ちょうどその頃、廠内では、ある事件の噂やデマが飛び、その話題で持ち切りだった。

海軍のお偉方が、急遽、呉鎮守府で緊急会議を行ったというのである。

その件は一切秘密に伏されて、勿論我々には、詳細も原因も何も分からなかった。

この事件とは、昭和18年6月8日、広島湾の柱島沖で、戦艦陸奥が、原因不明の大爆発を起こして沈没した事件である。

この戦艦陸奥の沈没事件は、未だに原因不明であり、戦後になるまで国民に知らされなかった。

呉海軍第十一航空廠での私の担当職場は、航空廠に入るすべての物品検査を行う部署だった。

その物品の受け入れ準備や整理等と運搬が主な仕事だったので、案外楽な作業であった。

職場の先輩の小川さんから下宿の世話までして貰って、広町の長浜に暮らしていた。

その小川さんとは、いつも一緒で、軽トラックに乗って、呉市内の下請け工場に出かけたり、時々、広島市内にも出る事もあった。

そんな折、高松の大島家から、丁寧な手紙が書留郵便で届いた。

当時、多額の30円もの小切手が入っており、その丁重な内容の手紙に嬉しくもあった。

唯、大島大尉のこと、スラバヤでの出来事、ラバウル、ココボでの出来事・・南洋各地で過ごした日々を懐かしく思い出していたのも事実である。

徴兵検査前後 2 ~甲乙~

2010年07月30日 | 人生航海
それから数日後、役場から、正式通知があった。

尾道の対岸にある向島の小学校で徴兵検査が行われた。

今回は少ないとの事だったが、百島から私を含めて皆で十数名で向かった。

私が、志願兵で申請したと知ると、「人の嫌がる軍隊に志願してまで出て来る馬鹿もいる」と百島の他の皆に冷やかされた。

検査の前日は、尾道の街に出て中央桟橋近くの旅館に泊まった。

他の皆は、私よりも二級上の組で、いよいよ明日から酒も煙草も飲めるし、未成年者の最後の日だと言いながら、もう一人前になった積もりなのか、夜中頃まで酒を飲んで騒いでいた。

そして、翌日の検査結果、私は、乙種合格となった。

志願兵の場合、甲種合格者以外は入隊出来ず、結局は、不合格と同じ事である。

私は、乙種であっても、内心は嬉しく思った。

そうなる事を、大島大尉は、十二分解っていた事であって、私をラバウルから帰国させたのである。

私に対する大島大尉のご厚意であったと思うと、改めて有り難い事と思ったのである。

その為、入隊することは無くなった。

いつまでも遊ぶことも出来ないので、何処かに就職口がないかと探した。

折り良く、呉の海軍航空廠で工員募集があって、早速入廠試験を受けて簡単に合格が出来た。

そして、すぐに海軍航空廠で働くことになったのである。

その航空廠は、呉市の広町にあり、同じ敷地内に呉海軍工廠もあり、正門は別々であったが、構内は堀も柵も無く、行き来も自由だった。

こうして、帰国後の就職先も決まり落ち着いたので、気になっていた高松の大島邸に、お詫びとお礼の手紙を書いて出したのである。

徴兵検査前後 1 ~大島邸訪問~

2010年07月29日 | 人生航海
久しぶりの我が家であったが、落ち着く間もなく志願兵として申請をした。

その徴兵検査の日までに、大島大尉宅を訪れようと思い、早速、四国の高松に渡ることにしたのである。

その当時は、まだ汽車で岡山駅まで行き、宇野線に乗り換えて、連絡船にて高松港まで渡っていた頃で、今と違い随分と時間も掛かり面倒だった。

高松港に渡って、大島邸を訪問するに当たって、少し迷った。

それは預かった手紙の内容を検疫の際に開封されて、或る程度の内容を解っていて気が引けたからである。

大島邸を訪問すると、驚いたことに大変立派な邸宅であって、田舎者の私は、戸惑った。

思い切って、門を潜り、玄関で呼び鈴を押すと、女性の声で「どなたですか?」の声。

「私は、南方のラバウルで大島大尉殿と一緒にいた者です。お手紙を預かって参りました」と答えた。

中で「奥様奥様」と呼ぶ声が聞こえたので、手紙を置いて黙って帰ろうかと思ったが、女中かと思う方が「どうぞお入りください」と案内されて、和室の応接間に通された。

そして、上品な奥様らしき方が、私の前に来て丁寧に挨拶をされたが、唯々、家柄や風格の格差に圧倒されて、対等に返事も出来なかった。

あの当時の私達の生活を思うと、我が家と大島家との間には、考えられないほどの貧富の生活格差があったのである。

少し落ち着いて、現地のラバウルの事情を話して失礼したが、玄関には、私の靴が、綺麗に磨かれてあり光っていた。

短い突然の訪問時間なのに、帰りの土産まで用意されてあり、高松名産の瓦煎餅等のお菓子まで、何も無いけどと言って渡された。

そして、奥様も門まで一緒に出て、丁寧にお礼を述べられていた。

私が歩き出すと、いつのまにか呼んだのか、輪タク(三輪自転車)を待たせてあったのにも驚かされた。

そのまま旅館に戻り、街に出て高松見物をしようと思った矢先に、仲居さんが二階まで駆け上がってきて、「玄関に大島さんという方が来られている」との事だった。

その後、奥様は、ご主人の大島大尉からの手紙を読んだという事を察したが、私は仲居さんに「先程、街に出た」と伝えてくれるように頼んだ。

あとで、大島大尉殿の奥様の気持ちを思うと、もっと詳しい話をすることが出来なかったのかと・・今でも後悔の念が消え去る事もない。

まだ、十八歳だった世間知らずの私が思い出すのも恥ずかしいが・・あの美人で上品な奥様に気が引けたのか、貧富差の劣等感のような、そんな気持ちからかもしれない。

その後、大島家には何も告げずに、そのまま金比羅山にお礼参りをして、私は多度津から船便で故郷の百島へ帰ったのである。

南洋編 23 ~パラオ島・百島寄港~

2010年07月28日 | 人生航海
その後、各船は再度船団を整えて、潜水艦からの魚雷攻撃に備えて、見張りを厳重にしながら、一路北上を続け、途中、パラオ島に寄港したのである。

此処で、沈没して救助された乗船者達を他の船に移乗して様子を聞いたようだ。

その日は、パラオに停泊する事になったが、或る将校が、上陸したい者とボートを漕げる者を集めて、船長に頼んで上陸することになった。

私も一緒に行くことになったが、碇泊場所からパラオの港まではかなり遠く、数人が並んでオールを漕いでも、桟橋に着くと手に豆ができていた。

どうにか港に着いて、パラオ島に上陸して見ると、繁華街らしき処はなくて、ただの南洋の島であり、洋風の美しい家屋が並んでいた。

日本人も多く暮らしていると知ったが、皆、裕福な生活をしているようにも思えた。

南方特有の果実類も豊富らしく、島の周囲は、サンゴ礁に囲まれており、海も美しく、一度
見ておいて好かったと思い出す。

今でも、パラオと聞けば、あの時が懐かしく蘇る。

そして、パラオを出て船団は、再び北上を続けて、マリアナ諸島の西方を通過し、見張りを厳重にしながら、一路、故国に向けて航行を続けた。

以後は、敵の攻撃は、一度もなく、数日後には、日本の海域に入り、沖縄諸島を通過した。

そして、豊後水道を通過して、広島港に到着したのである。

久しぶりの宇品の運輸部であった。

そして、似島で検疫を終えて、翌日には、陸軍運輸部で申告を済ませ、それまでの俸給等の総て精算して貰った。

思えば、昭和13年から昭和18年までの約5年間の歳月を軍属として、お国のために働いた。

そして、あの時、大島大尉の御厚意により、帰国が叶ったのである。

広島での一泊後、私は、夢にまで見た故郷の百島に帰ることが、無事に出来たのであった。

三門

2010年07月27日 | 千伝。

週末は、京都で過ごしました。

退院して以来、初めての県外へのお出かけです。

ホテルの窓越しに、南禅寺三門が見えました。


福が来た♪-南禅寺


歳を取るごとに、古都の寺院仏閣の景観に魅了されます。

美味い物を食べると、体調が崩れます。

早朝の南禅寺界隈を、ゆっくりと散策して参りました。



福が来た♪-正門


石川五右衛門が、「絶景かな!」と叫んだのは南禅寺三門ですが、事実ではありません。



福が来た♪-三門 


心臓が宙に浮かんで、心不全として、自分の生命も流される日が、いづれ訪れるのでしょう。 


福が来た♪-天井 琵琶湖疏水


「絶景かな!」と叫んだ興奮する日々を懐かしみつつ、心静かな佇まいの安堵という間を行き来きする毎日です。


福が来た♪-本堂


福が来た♪-琵琶湖疏水



南洋編 22 ~さらばココボ、ラバウル~

2010年07月23日 | 人生航海
ラバウルを出港して、数日後、平穏な南太平洋を北上中に、突然、敵潜水艦から魚雷の攻撃を受け、私達のすぐ後ろの浅香丸に命中した。

その為、各船は船列を崩して、単独で航走して逃げる他はなかった。

護衛艦が直ちに急行して、付近一帯に大砲を撃ち込んで、爆雷を落として各艦は、報復攻撃を行ったのである。

敵潜水艦から魚雷攻撃を受けて、沈没する姿を見たのは初めての事だった。

次は、この船が狙われるのかと思うと怖かった。

魚雷が命中した瞬間に水柱が高く上がり、まもなく船首から徐々に沈みはじめて、完全に沈むまでは、かなりの時間があった。

その間に、護衛艦が、乗組員を救助する為、タラップや縄梯子を降ろしていた。

救助される人達の中に多くの女性の姿が見えた。

しばらく、その様子を眺めていた。

船首から沈みはじめると、船尾が高く上がって、垂直近くになった瞬間だった。

船は、海中に突っ込むが如く沈んだのであった。

ココボには、慰安所があった。

空襲を受けた際に、直撃されて、経営者が即死したらしい。

その後の詳細は知らないが、後を継ぐ経営者がなく、その後、慰安所は閉鎖になったらしい。

そこで働いていた女性が、浅香丸で帰国中だったらしい。

当時、まだ日本軍は、健在で心配は無いと信じていた矢先の事だった。


(注:インターネットでの検索結果:
   ゲゲゲの漫画家水木しげるの他の著作「水木しげる伝~戦中編~」によれば、
   彼女たち(ココボの慰安婦たち)は、その後、病院船でココポを離れたが、途中潜水
   艦にやられ、全員が死亡したという”という内容記載があるが・・。
   
   父は、偶然その現場に居合わせて、救助された彼女たちを目撃していたようである。

   だが浅香丸の航海歴をチェックする限りにおいて「浅香丸」という船名記述に関して
   父の記憶違いではないのかと思う。)

南洋編 21 ~大島大尉の御厚意~

2010年07月22日 | 人生航海
こうして、付き添いの看護生活も二ヶ月を過ぎた頃には、医療検査の結果、菌も出なくなったので、大島大尉も大丈夫だという事になった。

ようやくにして、大島大尉の隔離は解かれて、私の役目も終わる事になったのである。

そして、間もない頃に、私は、大島大尉から呼ばれた。

「この度は、大変な迷惑を掛けてすまなかった。今は、何ひとつの礼も出来ないが、今のうちに一度、内地に帰る気はないか?」と言ってくれたのである。

「一度、帰国して、志願兵として申請するという名目で、一度日本に帰国しろ。手続きの事は全部任せてくれ。悪いようにはしないから、一日でも早く帰国できるように手配をしておく」と言って勧めてくれたのであった。

いつまでも、ラバウルに居たならば、いつどうなるか分からないし、毎日の空襲で生命の保障も無く、当時は、ソロモン諸島のガダルカナル島でも多くの戦死者が出て、戦況不利が伝わっていた頃である。

大島大尉は、すでに戦争の行方をある程度知っていて、私を助けてくれようとしていたのである。

私は、とにかく内地に帰れば、何とかなると考えて、大島大尉の親切に対して感謝して、「志願兵として申請する」という名目で、帰国の手続きをお願いしたのである。

もし、あのままラバウルに残っていた場合、どうなったのか想像もつかない。

しかし、大島大尉のお陰で帰国が出来て、その御蔭様で、現在も元気で存在しているのである。

その後、半月ぐらい過ぎた頃、予定通りに帰国船が入港して、お世話になった分隊の人達や同僚に礼を述べて、別れを惜しみ出発することになった。

その際、大島大尉は、私の手を握り、言葉少なく「ありがとう!」と目を潤ませて、「いつまでも元気で!」と言ったあとに、「もし高松方面に行く事があれば、家に立ち寄り、この手紙を家内に渡してくれ」と頼まれた。

「いずれ、検疫の際には、開封されるが、別に何も書いていないから」と言い、一通の手紙を預かったのである。

南洋編 20 ~看護当番生活~

2010年07月21日 | 人生航海
翌日には、隔離された一軒家に居る大島大尉を担当軍医と志度軍曹と一緒に訪ねた。

特に、軍医からは、病気の事を詳しく説明されて、看護に関しても色々な指導や指示を受けることになった。

そして、「食事に関しては特に気をつけて、掃除、洗濯等細かな事にも気を配り、手洗いも必ず励行するように」

「看護は、何事も清潔第一に心がけて、下着は勿論、寝具類も出来るだけ洗濯して、外来者との接触は避ける事」

「時々、看護婦も来させるから分からぬ事は聞けばよい」と言われた。

買い物は、いつでも自由に出来て、不便ではなかった。

食事も軍医の指導通りにしつつも、主食は主にお粥、果物類も好んで食べられた。

出来る限り、今欲しいものを訊きながら、炊事をしていた。

それ以後の病状は、それ程に変わらず心配はなかったが、軍医は「このまま菌が無くなれば」と一人でよく呟いていた。

このようにして、南の島のラバウルにおいて、私は、大島大尉と一緒に暮らす事になったのである。

その間に、随分と、大島大尉から、いろんな知識を教えられた。

学校に行くよりも短期間で、色々と学ぶ事が出来て、私の生涯に大きなプラスになったのは言うまでもない。

今振り返ると、私は、とても運勢の強い人間だったのであろう。

はじめのうちは、正直言って、余り・・気が進まなく嫌な思いもした。

慣れるに従い、大島大尉の看護をしていると、この大島大尉の為に出来る限り尽くそうと思うようになっていたのである。

また、皆が、嫌がる看病の役をよく引き受けたものだと・・周りの皆が、私の行為を褒めていたと聞いて、私も悪い気もせず、嬉しかったのである。

南洋編 19 ~大島大尉~

2010年07月20日 | 人生航海
その後、数ヶ月過ぎた頃、宿舎に帰ると、下士官の志度軍曹からの頼み事があった。

私には、済まないがと云い、「部隊本部の大島大尉殿が特別な病に掛かったが、入院する事を嫌い、気の利いた若い軍属で付き添いが出来る者を選ぶように」と指示があり、私がどうかと頼みに来たとの事であった。

病名は、腸チフスである事を打ち明けられて、「入院して隔離されるのは気の毒だから、助けると思って承知してくれ」と頼まれたのである。

内心、病名を聞かされて、少しは嫌な気持ちであったが、軍隊の事なので、命令と思い、しかも、スラバヤ時代からお世話にもなり知った将校でもあり、大島大尉の為に承諾したのである。

承知した上は、気持ち良く引き受けたいものである。

大島大尉は、病人らしくなく、小さな家に隔離されていた。

軍医の指示に従って、炊事用品や日用品等もすべて整えられていた。

大尉ともなれば、待遇も違い、かなりの自由行動も効いていた。

普通は、将校には当番兵が付いたのだが、その時は、伝染病の為に兵隊を看護当番には付けられなかったらしい。

結局は、軍属である私に頼む以外になかったのであろう。

南洋編 18 ~高砂丸~

2010年07月18日 | 人生航海
ちょうどその頃、病院船の高砂丸が、ブーゲンビル島や近辺の島から負傷者を乗せて入港するという知らせが入った。

陸軍病院にも連絡を取り、大発艇や小発艇の手配と停泊位置を決める様にと司令部からの指示があった。

停泊位置を決めて、早く負傷兵や患者を病院に運ぶ手配をせねばならなかったが、ココボには岸壁埠頭がなかった。

なるべく、陸岸近くに停泊するようにと手旗で交信しなければならなかった。

そして、病院船「高砂丸」を待つ間に、負傷兵、患者を降ろす為のダイハツ艇を用意して、約1時間を過ぎた頃、白い船体に大きく赤十字のマークがついた高砂丸の姿が見えたのである。

私は、急いで一番近い場所まで行って、沈船を目標にした。

咄嗟に「チンセンノ・ホッポウ・ナルベク・リクガンチカクニ・トウビョウセヨ」と手旗信号を送ると、高砂丸の船橋から、折り返し「リョウカイシタ」との応答を受けた。

高砂丸は、正確にその位置に投錨し碇泊したので、早速、大発艇を向けて負傷者を降ろして病院へ移したのである。

その頃は、ソロモン諸島での戦闘は激しい最中で、負傷した将兵は次々に、ココボの病院に運ばれた。

一時的に応急手当を受けたが、重症者は、再び内地または後方地に転医となり、治療を受けるとの事だった。

スラバヤでも、ココボでも、手旗信号員として勤めていたが、あの時、高砂丸に送った手旗は、今も、印象深く心に残り、私は、いつまでも忘れる事はない。

(その後、高砂丸は病院船の為に、敵の攻撃を受ける事もなく、終戦後迄残って、中国方面の復員船として活躍した。終戦後、高砂丸の姿を見たことがあり、あの時を懐かしく思い出した事もある。http://ww6.enjoy.ne.jp/~iwashige/takasagomaru.htm)

南洋編 17 ~ココボ分隊勤務~

2010年07月17日 | 人生航海
ココボは、ラバウルの南東の入口近郊にあって、気候も温暖で避暑地らしかった。

詳しい事は分からなかったが、見る限り付近の海浜一帯は美しく、まさに風光明媚の地として、知られていたらしい。

その為か、此処には陸軍病院があり、近辺の島から戦傷者が入院して手当てを受けていた。

ココボ分隊は、停泊場業務を行う為、綺麗な砂浜海岸に見張所や事務所を作ってあり、桟橋も沖合いまで長く出していた。

大型船は使用できないが、高速艇や小型船の発着場として利用できた。

その桟橋を信号所として使用して、停泊中の船舶に手旗信号を送り、交信を行ったのである。

南洋編 16 ~空襲~

2010年07月16日 | 人生航海
しかし、そのうちに夜ともなれば、必ず敵の爆撃機ボーイング17の空襲によって心休まる暇もなくなっていた。

敵の主な目的は、ラバウルの港内の停泊船を爆撃する事であった。

そのために、多くの照明弾を投下して港内を明るくして船舶の位置を確かめる必要があったのである。

そのうえで、目標に狙いを定めて爆弾投下したのである。

我が軍の対空陣地も、それに応じて同時に各所からサーチライトを向けて、機影を照らして交差させる。

そして、高射砲や機関砲の一斉攻撃で火を噴く事になるが、その時の蛍光弾射撃は見事であり、赤、青、黄色・・色とりどりの光線が飛んで交わるのである。

あんな光景は、もう二度と観る事もないだろうが、あの光景を初めて観た時の私は、余りの美しさに怖さも忘れて感心したというのが正直な気持ちである。

ただ、それは初めての空襲体験の時だけであって、空襲が激しい時には本当に恐ろしくて生きた心地がしなかった。

また、それにしても当時の日本人には考えられない事もあった。

敵方は、あの戦争の最中でも、日曜日には決まったように、空襲も休みだったのである。

不思議でならなかったが、敵は、日本軍とは違うと感心したものであった。

それを知ってから、私達も日曜日には安心して色々な作業も行動も出来るようになったので、日本軍には都合が良かった。

しかし、日曜日以外は、ほとんど毎日の如くに空襲があるのである。

いつの事だったか、防空壕の前に爆弾が落ちたが、危機一髪で助かった事もあった。

何回か、至近弾も受けたこともあった。

その時に、額の上に破片が飛んできて、軽症を負ったこともあった。

兵舎が焼けた事もあった。

いつどこで、死んでも仕方ないと、ある程度覚悟を決めていたが、生きている心地がしなかった。

あの頃のラバウルでの毎日は、そんな気持ちで過ごさなければならなかったのである。

そんな日が続いていた時、私に信号員として、ラバウル港外のココボへの分隊勤務の命令が出たのである。

ゲゲゲの不平等

2010年07月14日 | 千伝。
子供の頃、漫画家水木しげるさんの「ゲゲゲの鬼太郎」を読んでいると、不思議な気持ちにさせられた。

気持ちの良さ、悪さを超えていると言うべきユニークさ・・人間の味方となる妖怪の存在感である。

今日の夕方、書店に立ち寄ると、水木しげるさんの特別コーナーがあって、「水木しげるのラバウル戦記」があったので、早速購買して、今読み終えたところである。

水木さんの片腕が失われたニューブリテン島での戦場・・戦争や軍隊での地獄絵図を描いても、朗らかなユーモアや光がある。

ちょうど、水木さんがラバウルに到着した同時期に、私の父もラバウルに移動になっている。

この頃、ほぼ毎朝、NHKの朝ドラ「ゲゲゲの女房」を観ている。

高視聴率も頷けるほど、面白いかな・・やっと貧乏神から抜け出せる状況変化に乞うご期待である。

舞台となる東京の調布は、思入れの強い場所である。

私も、数年間、調布に暮らしていたから、懐かしいのである。

戦争や日常で生死の境を体験した人間は、運、不運というものを必ず意識している。

生きていることが最上の価値ならば、この世は、大きなゲゲゲの不平等だ。

だからこそ、同情という言葉が、怪しく難しいのかもしれない。

南洋編 15 ~最前線基地ラバウル~

2010年07月13日 | 人生航海
やはり、荷役の積み降ろしには、かなりの人手が必要だった。

私達軍属も工員達も忙しく、毎日の船舶の出入の時は非常に忙しい思いをした。

そんな仕事が当分続いて、その後何とか落ち着くと、次第に安心感が戻ってきた気分になった。

ニューブリテン島のラバウルは、その当時、ソロモン諸島の戦闘に備えての最前線の基地として日本軍の最重要な港だったのである。

多くの船舶の出入港があり、私達の停泊場部隊は、それを扱う部隊で、私の主な任務は、スラバヤと同じように船舶との連絡と信号伝達を行うことであった。

そこでは、ブーゲンビル島やソロモン諸島への武器弾薬、兵力の輸送や陸海軍の補給などで、日夜多忙な時期が続いていた。

その頃は、ソロモン諸島近辺では、陸海軍共に苦戦を強いられていた。

負傷者も多く出ていて、南太平洋の島々に物資の輸送や部隊の移動の為、ラバウルは、船舶の配船等までを含めた多くの業務を取り扱う中継地となっていた。

次第に、私達の停泊場部隊の任務は重用になってゆき、輸送船の出入港は、ますます頻繁になっていった。

それゆえに、ほとんど輸送船の荷物の積み降ろしや、その後のトラックへの積み替えは大変だった。

スラバヤの頃とは全く違い、辛い日勤であったが、それが終わった後、トラックで各部隊に物資を届ける時は、気持ちもほっとして、やや楽な気分になったものである。

そんな時は、何故か気分も開放されて雰囲気も変わった。

特に、丘から眼下に見下ろすラバウルの港内の風景は絶好の眺めで、何とも言いようのない程に美しく、その山には、日本軍の飛行場もあった。

南洋編 14 ~ニューブリテン島へ~

2010年07月10日 | 人生航海
その頃には、南太平洋近辺で、敵の潜水艦の出没が頻繁になっていた。

航行中は特に注意するようにと言われていたが、日本の船舶が、度々敵の魚雷を受けるようになっていたのである。

その為、特に見張りを厳重にして航行を続ける事になっていたが、当時は、まだ日本海軍は健在であり、制海権は、いまだに我が方にあるものと信じていた。

そう思い込み、恐れるに足らんと思いながらも、若しドカーンと魚雷が命中したら、一巻の終わりと思うと気が気でなく、怖かったのは事実だった。

そんな事を考えていると、何故か急に故郷の事が目に浮かんでくるのである。

そんな思いの中で、航海は続き、心配なく潜水艦からの攻撃は一度もなかった。

ニューギニア島沖を通過して何日か過ぎて、目的地のニューブリテン島のラバウル港の近くになると、何故か又心配になった。

それは、空襲が毎日のようにある事を聞いて知っていたからかも知れない。

そして、いよいよラバウルの港に入港すると思うと、又新たな気持ちにもなり、何故かそれまでと違った気になった思いがした。

そう思い気分を取り戻して、まもなくラバウルへの入港時の際に見た港の近辺の光景は、素晴らしかった。

今になっても忘れずに、その光景をよく覚えている。

港内は広かったけど、入り口は狭く、その両側には活火山が見えていた。

然も、一方の山では、当時噴煙が立ち昇って、その麓には、露天掘りの温泉があったのだ。

そこを通り抜けて港内に入ると、素晴らしい天然の良港だった。

だが、市街地は、日本軍か敵軍の攻撃によるものか、又は火山噴火で破壊されたものなのかは、分からない侭だったが、激しい傷々しい戦闘のあとを物語っていた。

港内には、大型船舶数隻が、沈んだままに放置されてあり、その上、岸壁も壊れたままであり、船舶の荷役は、困難だった。