世界に誇る日本海軍の戦艦大和は、ここ広島県呉で建造された。
その当時は、まだ日本海軍は健在であると信じて疑わなかった時代である。
ちょうどその頃、廠内では、ある事件の噂やデマが飛び、その話題で持ち切りだった。
海軍のお偉方が、急遽、呉鎮守府で緊急会議を行ったというのである。
その件は一切秘密に伏されて、勿論我々には、詳細も原因も何も分からなかった。
この事件とは、昭和18年6月8日、広島湾の柱島沖で、戦艦陸奥が、原因不明の大爆発を起こして沈没した事件である。
この戦艦陸奥の沈没事件は、未だに原因不明であり、戦後になるまで国民に知らされなかった。
呉海軍第十一航空廠での私の担当職場は、航空廠に入るすべての物品検査を行う部署だった。
その物品の受け入れ準備や整理等と運搬が主な仕事だったので、案外楽な作業であった。
職場の先輩の小川さんから下宿の世話までして貰って、広町の長浜に暮らしていた。
その小川さんとは、いつも一緒で、軽トラックに乗って、呉市内の下請け工場に出かけたり、時々、広島市内にも出る事もあった。
そんな折、高松の大島家から、丁寧な手紙が書留郵便で届いた。
当時、多額の30円もの小切手が入っており、その丁重な内容の手紙に嬉しくもあった。
唯、大島大尉のこと、スラバヤでの出来事、ラバウル、ココボでの出来事・・南洋各地で過ごした日々を懐かしく思い出していたのも事実である。
その当時は、まだ日本海軍は健在であると信じて疑わなかった時代である。
ちょうどその頃、廠内では、ある事件の噂やデマが飛び、その話題で持ち切りだった。
海軍のお偉方が、急遽、呉鎮守府で緊急会議を行ったというのである。
その件は一切秘密に伏されて、勿論我々には、詳細も原因も何も分からなかった。
この事件とは、昭和18年6月8日、広島湾の柱島沖で、戦艦陸奥が、原因不明の大爆発を起こして沈没した事件である。
この戦艦陸奥の沈没事件は、未だに原因不明であり、戦後になるまで国民に知らされなかった。
呉海軍第十一航空廠での私の担当職場は、航空廠に入るすべての物品検査を行う部署だった。
その物品の受け入れ準備や整理等と運搬が主な仕事だったので、案外楽な作業であった。
職場の先輩の小川さんから下宿の世話までして貰って、広町の長浜に暮らしていた。
その小川さんとは、いつも一緒で、軽トラックに乗って、呉市内の下請け工場に出かけたり、時々、広島市内にも出る事もあった。
そんな折、高松の大島家から、丁寧な手紙が書留郵便で届いた。
当時、多額の30円もの小切手が入っており、その丁重な内容の手紙に嬉しくもあった。
唯、大島大尉のこと、スラバヤでの出来事、ラバウル、ココボでの出来事・・南洋各地で過ごした日々を懐かしく思い出していたのも事実である。