百島百話 メルヘンと禅 百会倶楽部 百々物語

100% pure モノクロの故郷に、百彩の花が咲いて、朝に夕に、日に月に、涼やかな雨風が吹いて、彩り豊かな光景が甦る。

きけ わだつみの声

2019年11月30日 | 空木宝剣

軍国の 少年の忌や 霜の月

遅れてきた少年と、間に合った少年の「宴のあと」

前者は三島由紀夫氏(1925〜1970)。

後者は中曽根康弘氏(1918〜2019)。

三島由紀夫氏は、中曽根康弘氏の7年後輩。

共に東京帝国大学法学部。

戦争に遅れてきた軍国少年は、半世紀に満たない45年の生涯。

方や、海軍少佐で終戦を迎えた軍国少年の生涯は、一世紀ごえの101歳。

武士とは死ぬことと見つけたりの、人生50年時代を生きた様と、死んで生きる葉隠れ、100年を生きる人生100年時代と。

三島忌(11月25日)より4日遅れの、中曽根康弘氏の死に際して思う

生と死の距離。

東大のシンボル銀杏の時期「銀杏忌に 銀杏の写真 捧げつつ」かな。


決算❗大セール。

2019年11月29日 | 千伝。

先日、松竹と吉本興業の共同製作、映画「決算❗ 忠臣蔵」を観て参りました。

実際、赤穂浪士の面々は、関西訛りの言葉で喋り、生活費、活動資金・・・いろいろと「金銭」で苦労しただろうなぁ。

こういうアングルで忠臣蔵で解釈、映画となるのも、とても新鮮でした。

単なる笑わせてくれるコメディ映画ではなくて、それだけで終わる映画ではありませんでした。

いつの世も、損得勘定が先行するのが世の常、でも、それだけではない。

百円ショップ店が繁盛すれば、百貨店デパートが衰退するのは、必然の理。

人生、決算❗大セール(大売り出し)とは、行かないものです。


フランシスコ教皇のメッセージ。

2019年11月25日 | 百伝。

昨日の午後、広島へ到着。

夜、福井へトンボ帰り、広島での半日滞在。

それよりも、教皇の強行・・日程。

「平和の巡礼者として、被爆地ヒロシマ、ナガサキを訪れるのは、私の使命だ」と語ったフランシスコ教皇(法王)。

何を語るのか、その空気感に触れたくて、昨日、広島まで日帰りで出掛けて参りました。

広島のカソリック教会関係者は勿論のこと、神道、仏教界の代表関係者もお迎えした平和の集いでした。

原爆ドームのある対岸から遠く眺めていましたが、特別な高揚感もなく、感極まる歓喜もありませんでした。

ただ、不思議な穏やかさが漂う心の温もりです。

それが、目に見えない教皇(法王)の存在という空気感でした。

今朝の地元の朝刊新聞。

教皇のメッセージを読んでみました。

長崎でのメッセージ、広島でのメッセージ。

核兵器保有も倫理に反する。

武器の製造、維持、改良、武器商人もテロ行為。

平和となる道具、声として、核廃絶、戦争廃絶を訴える教皇。

簡単に言えば、世界のメディアに向けて問う「平和、戦争紛争への報道の在り方」に対するメッセージでもあります。

さらに言えば、唯一の被爆国である日本の政治姿勢です。

侵略する国も嫌だけど、侵略される国に暮らすのも嫌ですから、武力も備え、軍隊も用意する世界各国。

アメリカの核の傘で、豊かな平和な国を目指す日本。

ロシアにも、中国にも、英国にも、仏国にも、そして、アメリカにも、直接核廃絶を訴える、物を言える日本になって欲しいのです。

草の根の平和運動、市民団体の平和活動が、いかに大事なものか、身に染みる昨日、今日、明日です。


法王か教皇か、上人か聖人か、紅葉か黄葉か。

2019年11月21日 | 空木宝剣

三滝寺を 朱色で染める 楓かな

 

分けいって 三滝まわれば もみじ狩り

 

人誘う 楓よそおう 平和塔

 

瓶岩に もみじ浮かべて 龍の口

 

鐘ひとつ 撞けば楓の 天女舞い

 

赤丹よし 山ふところの 安芸もみじ

 

ヒロシマや 四人の開祖 三滝寺

左より、弘法大師 日蓮聖人 道元禅師 親鸞聖人

11月24日 ローマ法王(教皇)フランシスコ 来広予定。

まもりたまえ きよめたまえ

令和 初のもみじ狩りで宜しく❗


1981年のパウロ教皇(法王)の平和アピール。

2019年11月17日 | 百伝。

知人からの情報によると、コンビニのセブンイレブンの何かの抽選で日本中のアクティブ施設、教室を選択できるリストがあるらしいです。

その中に広島県では、百島のSUP ボードが紹介されており、利用参加できるとのこと。

こういう取り組みの効果、宣伝方法もいいなぁ、と思いました。

さて、地元では、北陸新幹線の金沢から敦賀までの延伸工事が着々と捗っています。

3年後、完成予定。

3年後には、東京は近くなるけどね。

30年後、百島上空には、空飛ぶ自動車が当たり前のように行き交う時代になっているんだろうなぁ。

その頃には、多分生きてはいないだろうなぁ。

老齢を感じる年頃、行きたい場所に自分自身独りでも行ける、生きる元気、パワー、穏やかさと心の強さを備える高齢者へと、まだまだ目指したいものです。

まだまだ、若い息子や、甥っ子、姪っ子には、平和な時代のままの中で、生涯を全うして、未来を見据えた生き方をして欲しいものです。

さて、1945年8月6日、広島に原爆が投下。

それから、35年後の広島。

1981年2月26日、当時のローマ法王パウロ2世が広島訪問して平和アピールを宣言しました。

20代半ばだった若造の身分、被爆者2世としても、あの時、あの場所、故郷の広島へ取材に行けなかったのは、今でも後悔の気持ちがあります。

その間、ベルリンの壁も崩壊。

東西冷戦も終結しました。

にもかかわらず、今の世界は、どうなんだ?

あれから、38年後の今年、来週の11月24日の日曜日、長崎、広島へ、、現ローマ法王フランシスコが来られるとのこと。

・・・テレビで観れるかな?

1981年2月 カトリック中央協議会HP より下記抜粋。

(教皇ヨハネ・パウロ2世 広島平和アピール)

戦争は人間のしわざです。

戦争は人間の生命の破壊です。

戦争は死です。

この広島の街、この平和記念館ほど強烈に、この真理を世界に訴えている場所はほかにありません。

もはや切っても切れない対をなしている2つの街、日本の2つの街、広島と長崎は、「人間は信じられないほどの破壊ができる」ということの証として、存在する悲運を担った、世界に類のない街です。

この2つの街は、「戦争こそ、平和な世界をつくろうとする人間の努力を、いっさい無にする」と、将来の世代に向かって警告しつづける、現代にまたとない街として、永久にその名をとどめることでしょう。

広島市長をはじめ、ここに集まられた友人の皆さん、私の声に耳を傾けているすべてのかたがた、私のメッセージが届くすべてのかたがたに申します。

1.

本日、わたしは深い気持ちに駆られ、「平和の巡礼者」として、この地にまいり、非常な感動を覚えています。

わたしがこの広島平和記念公園への訪問を希望したのは、過去をふり返ることは将来に対する責任を担うことだ、という強い確信を持っているからです。

この地上のありとあらゆるところに、戦争のもたらした惨事と苦しみのゆえに、その名の知られている場所が数多く、あまりにも数多く、存在しています。

それは、人類の犯した悲しむべき行為だといわねばなりません。

戦勝記念碑- それは一方の側の勝利の碑であると同時に、数多くの人々の苦しみと死を物語るものです。

国のために命を落とした人々、崇高な目的に命をささげた人々が横たわる墓地があります。

同時に、戦争のもたらす破壊の嵐の中で命を失った、罪のない一般の人々が横たわる墓地もあります。

強制収容所や死体処理場の跡-- そこでは、人間と侵すべからざる人権とがいやしめられ、野卑と残酷とが最も強く表されたところでした。

戦場-- そこでは、自然が慈悲深く地上の傷をいやしていますが、人間の憎悪と敵意の歴史を消し去ることはできません。

こうした数多くの場所や記念碑の中でも、特に広島、長崎は、核戦争の最初の被災地として、その名を知られています。

あの陰惨な一瞬に生命を奪われた、数多くの男女や子供たちのことを考えるとき、私は頭をたれざるをえません。

また、身体と精神とに死の種を宿しながら、長い間生き延び、ついに破滅へと向った人々のことを思うときにも、同様の気持ちに打たれるのであります。

この地で始まった人間の苦しみは、まだ終わっていません。

人間として失ったものが、全部数え尽くされたわけではありません。

人間の考えやものの見方、ないし人間の文明に対して、核戦争がもたらした実害を目のあたりにし、将来の危険性を考えるとき、特にそうした想いに駆られるのであります。

2.

過去をふり返ることは将来に対する責任を担うことです。

広島市の皆さんは、最初の原子爆弾投下の記念碑を、賢明にも平和の記念碑とされました。

わたしは、この英断に敬意を表し、その考えに賛同します。

平和記念碑を造ることにより、広島市と日本国民は、「自分たちは平和な世界を希求し、人間は戦争もできるが、平和を打ち立てることもできるのだ」という信念を力強く表明しました。

この広島でのできごとの中から、「戦争に反対する新たな世界的な意識」が生まれました。

そして平和への努力へ向けて新たな決意がなされました。

核戦争の恐怖と、その陰惨な結末については、考えたくないという人がいます。

当地でのできごとを体験しつつも、よく生きてこられた人々の中にさえ、そう考える人がいます。

また、国家が武器を取って戦い合うということを、実際に経験したことのない人々の中には、核戦争は起こりえないと考えたがる人もいます。

さらに、核兵器は力の均衡を保ち、恐怖の均衡を保つため、いたし方のないものだとする人もいます。

しかし、戦争と核兵器の脅威にさらされながら、それを防ぐための、各国家の果たすべき役割、個々人の役割を考えないですますことは許されません。

3.

過去をふり返ることは将来に対する責任を担うことです。

1945年8月6日のことをここで語るのは、われわれがいだく「現代の課題」の意味を、よりよく理解したいからです。

あの悲劇の日以来、世界の核兵器はますますふえ、破壊力をも増大しています。

核兵器は依然として製造され、実験され、配備されつづけています。

全面的な核戦争の結果がいかなるものであるか、想像だにできませんが、核兵器のごく一部だけが使われたとしても、戦争は悲惨なものとなり、その結果、人類の滅亡が現実のものとなることが考えられます。

わたしが国連総会で述べたことを、ここに再び繰り返します。

「各国で、数多くのより強力で進歩した兵器が造られ、戦争へ向けての準備が絶え間なく進められています。

それは、戦争の準備をしたいという意欲があるということであり、準備がととのうということは戦争開始が可能だということを意味し、さらにそれは、あるとき、どこかで、なんらかの形で、だれかが世界破壊の恐るべきメカニズムを発動させるという危険を冒すということです。」

4.

過去をふり返ることは、将来に対する責任を担うことです。

広島を考えることは、核戦争を拒否することです。

広島を考えることは、平和に対しての責任をとることです。

この街の人々の苦しみを思い返すことは、人間への信頼の回復、人間の善の行為の能力、人間の正義に関する自由な選択、廃虚を新たな出発点に転換する人間の決意を信じることにつながります。

戦争という人間がつくり出す災害の前で、「戦争は不可避なものでも必然でもない」ということをわれわれはみずからに言い聞かせ、繰り返し考えてゆかねばなりません。

人類は、自己破壊という運命のもとにあるものではありません。

イデオロギー、国家目的の差や、求めるもののくい違いは、戦争や暴力行為のほかの手段をもって解決されねばなりません。

人類は、紛争や対立を平和的手段で解決するにふさわしい存在です。

文化、社会、経済、政治の面で、さまざまな発展段階にある諸国は、多種多様の問題をかかえており、そのために、国家間の緊張や対立が生じています。

こうした問題は、国家間の正当な協定や、国際機関のよって立つ、平等と正義という倫理原理に添って、解決されねばなりません。

それは、人類にとって肝要なことです。

国内秩序を守るために法が制定されるように、世界の国々には、国際関係を円滑にし、平和を維持するための法制度が作り上げられなくてはなりません。

5.

この地上の生命を尊ぶ者は、政府や、経済・社会の指導者たちが下す各種の決定が、自己の利益という狭い観点からではなく、「平和のために何が必要かが考慮してなされる」よう、要請しなくてはなりません。

目標は、常に平和でなければなりません。

すべてをさしおいて、平和が追求され、平和が保持されねばなりません。

過去の過ち、暴力と破壊とに満ちた過去の過ちを、繰り返してはなりません。

険しく困難ではありますが、平和への道を歩もうではありませんか。

その道こそが、人間の尊厳を尊厳たらしめるものであり、人間の運命を全うさせるものであります。

平和への道のみが、平等、正義、隣人愛を遠くの夢ではなく、現実のものとする道なのです。

6.

35年前、ちょうどこの場所で、数多くの人々の生命が、一瞬のうちに奪い去られました。

そこで、わたしはこの地で、「人間性のため、全世界に向けて生命のためのアピール」を、人類の将来のためのアピールを、出したいと考えます。

各国の元首、政府首脳、政治・経済上の指導者に次のように申します。

正義のもとでの平和を誓おうではありませんか。

今、この時点で、紛争解決の手段としての戦争は、許されるべきではないというかたい決意をしようではありませんか。

人類同胞に向って、軍備縮小とすべての核兵器の破棄とを約束しようではありませんか。

暴力と憎しみにかえて、信頼と思いやりとを持とうではありませんか。

この国のすべての男女、全世界のすべての人々に次のように申します。

国境や社会階級を超えて、お互いのことを思いやり、将来を考えようではありませんか。

平和達成のために、みずからを啓蒙し、他人を啓発しようではありませんか。

相対立する社会体制のもとで、人間性が犠牲になることがけっしてないようにしようではありませんか。

再び戦争のないように力を尽くそうではありませんか。

全世界の若者たちに、次のように申します。

ともに手をとり合って、友情と団結のある未来をつくろうではありませんか。

窮乏の中にある兄弟姉妹に手をさし伸べ、空腹に苦しむ者に食物を与え、家のない者に宿を与え、踏みにじられた者を自由にし、不正の支配するところに正義をもたらし、武器の支配するところには平和をもたらそうではありませんか。

あなたがたの若い精神は、善と愛を行なう大きな力を持っています。

人類同胞のために、その精神をつかいなさい。

すべての人々に、私はここで預言者の言葉を繰り返します。

「彼らはその剣を鋤に打ちかえ、その槍を鎌に打ちかえる。国は国に向かいて剣を上げず、戦闘のことを再び学ばない」(イザヤ2・4)。

神を信じる人々に申します。

われわれの力をはるかに超える神の力によって勇気を持とうではありませんか。

神がわれわれの一致を望まれていることを知って、団結しようではありませんか。

愛を持ち自己を与えることは、かなたの理想ではなく、永遠の平和、神の平和への道だということに目覚めようではありませんか。

最後に、わたしは自然と人間、真理と美の創り主である神に祈ります。

神よ、わたしの声を聞いてください。

それは、個人の間、または国家の間でなされた、すべての戦争と暴力の犠牲者たちの声だからです。

神よ、わたしの声を聞いてください。

それは人々が武器と戦争に信頼をおくとき、いの一番に犠牲者として苦しみ、また苦しむであろうすべての子供たちの声だからです。

神よ、わたしの声を聞いてください。

わたしは、主がすべての人間の心の中に、平和の知恵と正義の力と兄弟愛の喜びを注いでくださるよう、祈ります。

神よ、わたしの声を聞いてください。

わたしはすべての国、またすべての時代において戦争を望まず、常に喜んで平和の道を歩む無数の人々にかわって、話しているからです。

神よ、わたしの声を聞いてください。

わたしたちがいつも憎しみには愛、不正には正義への全き献身、貧困には自分を分かち合い、戦争には平和をもってこたえることができるよう、英知と勇気をお与えください。

おお、神よ、わたしの声を聞いてください。

そして、この世にあなたの終わりなき平和をお与えください。


徳川吉宗(在位1716ー1745)

2019年11月16日 | 空木宝剣

年末に 花見問題 時季外れ

公務員が、民間業者から接待を受ける場合、その何分の一かの会費をおさめて、賄賂を回避する手口は、昔からである。

安倍総理主催の花見が、票田への接待、それも税金で賄われているとなれば、問題になるのは自明の理である。

花咲爺さんの筈が、とんだ意地悪爺さんに陥れられるのが世の常。

時は、1688年元禄時代。

お犬様将軍徳川綱吉(1646〜1709)の贅沢禁止令。

元禄バブルの反面、元禄地震(1703年11月23日)もあった。

江戸から小田原にかけて、倒壊家屋2万戸、死者5千余を数えたという。

野暮な潔癖漢は、世の中を窮屈にするってことで、六代家宣、七代家継の後、八代将軍徳川吉宗(1684〜1751)となった。

ご存知、暴れん坊将軍は、江戸庶民に隅田川沿いの花見を奨励。

将軍という権力を、広くあまねくみんなを喜ばすことに発揮。

みんなという数の力を、味方に束ねるのが名君。

立場上、敵と味方に別れなければスタンスが取れないのは、凡人。

江戸は、えーどー。

歴史ある日本の、令和の政治家の面々。

そのあるべき姿が、田沼意次(1719〜1788)の化身では情けない。

井戸塀政治家も気の毒だが、資産家の政治屋は身の毒である。

税金で成り立つ職業人は、須らく税沢に留意し、ジンテーゼの進路を保ち、必要を計ることを常とせねば贅沢に傾く。

天変地異の多い令和の時代。

メシアとなるは、暴れん坊将軍か、目安箱か?

樹齢 約300年の楠分限に問う。


星野哲郎忌

2019年11月15日 | 空木宝剣

さようなら 宇野 高松の 連絡船

109年の歴史を持つ「宇高連絡船」が、来月16日にて幕を閉じるとの事。

1910年(明治44年)より大正・昭和・平成と続いた四国への海路が、令和という終着港にアンカーを降ろす。

団塊が15才の昭和40年頃、高松の栗林公園への家族旅行の際、利用したのが宇高連絡船だった。

特等室のキャビンが豪華だった記憶がある。

その後、何度か乗船したが、宇野港を発ち、直島や大槌・小槌を抜けて、男木・女木島・屋島を眺めれば、高松港に到着。

優雅で長閑な船旅が、瀬戸内海を行きかいしていた。

1908年開業の青函連絡船は、青函トンネル開通の1988年に終焉となったが、1910年誕生の宇高連絡船は、1988年4月瀬戸大橋開通後も、平成の30年間を生き延びた。

失って分かるものがある。

人は、便利さを追及するあまりに、橋やトンネル、空まで飛んだりする。

忙しさに疲れた時、昔にフィードバックする乗物の灯りが、またひとつ消ていくのが寂しい。

♪連絡船よいつまでも

星野哲郎

(1925年9月30日~2010年11月15日・周防大島出身)

星野哲郎は、働く人々にエールを送る「人生の応援歌」を作り続けた作詞家。「連絡船よいつまでも」 「函館の女」「なみだ船」 「兄弟船」など星野演歌といえば海。その詩作の原点は、海の男に憧れ、挫折した青年時代の体験にある。海の貴婦人と呼ばれた練習船「海王丸」で航海訓練を終え、船乗りになったが、過酷な労働のため大病を患い、長い療養生活を余儀なくされた。死と隣り合わせの日々。故郷の情景を言葉に書き留めることで星野は自らの生きる道を発見する。それは「詩」という言葉の海への船出だった。人生の転機となった青年時代の苦難の歴史が語られる。

(NHK アーカイブより抜粋)

<収録曲>

DISC-1

思い出さん今日は/蟹工船/黄色いさくらんぼ/さいはての唄(アリューシャン小唄)/なみだ船/出世街道/清らかな青春/明治大恋歌/俺だって君だって/おんなの宿/涙を抱いた渡り鳥/自動車ショー歌/アンコ椿は恋の花/兄弟仁義/男の涙/6番のロック/純愛のブルース/函館の女/想い出を君に返そう/いっぽんどっこの唄/冬子のブルース/花はおそかった

DISC-2

夜のピアノ/河内遊侠伝/関東流れ唄/いつでも君は/叱らないで/城ヶ崎ブルース/さようならは五つのひらがな/三百六十五歩のマーチ/男はつらいよ/女渡世人/お金をちょうだい/祭りのあと/昔の名前で出ています/風雪ながれ旅/好きですサッポロ/兄弟船/女の港/夫婦坂/海の祈り/坂のある町

DISC-3

雪椿/みだれ髪/息子/不如帰/春の海/京の川/山/心/思い川/北の大地/感謝状~母へのメッセージ/前橋ブルース/さだめ雪/海峡の春/湯情の宿/君/親子船

(日本クラウンレコード株式会社)


大愚の人。

2019年11月14日 | 百伝。

よりよい生き方を教えてくれる。

よりよい死に方を教えてくれる。

今生きる社会で、ふと、幸せかな?不幸せかな?と思い巡らすと、他力本願でパワースポット巡りをするとか、神社寺院を参拝するとか、あるいは、自力で踏ん張る❗

神さま仏さま、宗教の神々に頼る事が手っ取り早いのは、人間の業です。

自力の禅宗、他力の念仏宗。

今から800年ほど昔、日本に二人の偉人が現れました。

現在の日本社会に今も大きな影響をもたらす道元禅師と親鸞上人です。

その600年後の江戸時代末期、曹洞宗寺院で修業した良寛さんは、道元禅師の正法眼蔵を読み漁ります。

現在では、禅の宗教書というよりも世界一の哲学書だという評価があります。

良寛さんの悟りとは、道元禅師の語る通り人間平等、仏性の姿なのです。

しかし江戸時代の寺院には、士農工商さらに非民という身分差別がありました。

死んだあとの戒名でさえ、非民は草とか糞とか、一語が入ります。

良寛さんが、越後に戻ったあとも、寺を持たず住職にもならない理由が分かります。

越後は、親鸞上人が流刑にされた地でもあり、親鸞上人が、「念仏、他力こそが救い」だと悟った地でもあります。

自力禅師の良寛さんは、当然他宗の親鸞上人の教えを百も承知のはずです。

そして、良寛さんが貧しい民から托鉢によって生かされたことも分かります。

良寛さんは、面白い事に、南無阿弥陀仏とよく書いたようです。

良寛さんの生誕地出雲崎には、良寛記念館があります。

この記念館に入館すると、日本で一番多く研究、資料、物語、書物として記録されて、広く評価されている人物は、良寛さんではないかと考えてしまいます。

それほど、良寛さんの生き方、死に方は、自力も他力も融合されているのです。

良寛史料館の中の書棚です。

すべて、良寛さんに関係するものです。

残念ながら、この書棚の中に新美南吉の書いた書籍はありませんでした。

良寛さん、若い頃は、岡山県玉島の曹洞宗円通寺で、師匠の国仙和尚から、大愚という号を授けられました。

大愚良寛の誕生。

人間は小賢しい知恵を持って生きています。

自分で自分を、愚かな人だとほとんどの方が言わないでしょう。

愚かになれる事は、仏道の世界ではちょっとした憧れの境地でもあります。

大愚の号を与えられた良寛さんは、その頃から天真爛漫、愚直なまでの人間だったかもしれません。

乞食坊主とも揶揄されながら、托鉢する無一文の禅師としての生き方。

道元禅師の教えを貫いています。

良寛さんの終焉地、和島には、良寛の里美術館があります。

どれだけ、良寛さんが人々から慕われたか、その人柄が伝わってきます。

今風に例えると、介護の必要な高齢者を彷彿する良寛さんの晩年。

曹洞宗良寛禅師の眠る浄土真宗隆泉寺の住職さんに、良寛和尚は、御自身で希望して、ここで眠っているんですか?と訊いてみました。

住職さん曰く、良寛さんは、どこの寺院とか、どこに墓をとか、一言も残さず遷化されたとのこと。

「俗に交われば、俗になる」ということを自覚していた、とても自分に厳しい人だったと思います。との由。

生き方は、自力。

死に方は、他力。

良寛さんの世界へ誘ってくれた新美南吉に感謝です。


良寛さんの大河。

2019年11月13日 | 百伝。

国上山は、福井ならば、文殊山。

百島ならば、十文字山のような山です。

その国上山の中腹にある小さな庵で、30年間暮らしながら、里山に下りて托鉢生活を行っていたのです。

究極の断捨離生活を実践していたのが、良寛さんです。

ただ、その30年の歳月において、良寛さんの文芸の才は花が咲きました。

楷書、草書、仮名文字、和歌、漢詩、すべてにおいて秀でるものと成りました。

晩年が近づくにつれて、良寛さんの名声は、遠く江戸まで知られるようになったとのこと。

五合庵から草庵に引っ越した頃から、国上山を訪ねてる客人も増えたとのこと。

多分、その頃から、良寛さんから、良寛様と呼ばれて、生きている伝説の人物になったかもしれません。

地元の和島村の有力者木村家が、自宅で良寛様の、老後のお世話をしたいと申し出ました。

さすがに70歳になる良寛さん、山の中での暮らしは無理だと悟ったのでしょう。

国上山を下りて、終焉の地となる和島村に移ります。

国上山から、その和島(現長岡市)まで、訪ねてみました。

大河津分水の土提道路を抜けて、与板(長岡市)地区を経由で、車で約40分から50分ほどの距離です。

余談ですが、信濃川からの寺泊(長岡市)へと抜ける大河津分水という川は、人工川です。

先月の台風19号の大雨でも、信濃川は決壊しなかったのは、この大河津分水の御蔭だと言われています。

それまで、信濃川流域は過去何十回、何百回も大洪水、大水害に襲われたとのこと。

正直、この大河津分水のことは、詳しく知りませんでした。

そう説明されるまで、実際、自然の大きな川だと映っていました。

帰宅後、もっと現地見学しておけばよかったと後悔しています。

この人工の治水工事の発案は、良寛さんが生きていた江戸時代から紆余曲折を経て、完成に実に約200年。

延べ約1000万人の労働者によって完成されたもので、東洋一の大治水工事だったと言われています。

だから、この近くの西山で生まれた育った田中角栄先生は、日本列島改造計画の政治発想を得たかもしれません。

その大河津分水が完成したのが大正時代、新潟港に注がれていた信濃川の河口が半分に狭くなったとのこと。

当時、新潟で暮らしていた坂口安吾少年は万代橋が半分になるのが悲しかったと故郷を書き残しています。

堕落論を著し、京都、奈良の古寺を否定した坂口安吾・・・寺を持たず、住職にもならず、徹底した断捨離生活を行った郷土の偉人を、良寛様と書き認めています。

新潟愛、郷土愛、新潟ラブを感じます。

 さて、和島村に移り住んだ良寛さん、人生最後に最高の輝きが放たれます。

40歳も年下の弟子となる貞心尼との出会いです。

男女間の相聞歌に関しては、よく分かりません。

良寛さんは、貞心尼に看取られて亡くなりました。

形見とて/何か残さむ/春は花
夏ほととぎす/秋はもみじ葉
(良寛)

良寛さんの心の指針だった道元禅師の歌と似ています。

貞心尼は、その後、40年生きたのち、明治5年には、良寛さんの遺した歌を集め「はちすの露」という歌集を出版します。

良寛さんの辞世の句。

うらを見せ/おもてを見せて/散るもみじ(良寛)
 

つづく。


分水 山上の庵暮らし。

2019年11月10日 | 千伝。

出雲崎の名主の長男跡取りだった17歳の頃、名主の地位も家業を捨て、突然剃髪して出家します。

良寛は、出家の理由を書き残していません。

ただ、出家する17歳まで、この地でこの世の苦悩を耐えて生きていたと思うのです。

21歳の頃、備中玉島の円通寺ヘ修業、その後諸国放浪を終えて、故郷越後に帰った時、39歳でした。

その間、母は病死、父は入水自殺。

家業は弟が継いだものの没落はひどいものでした。

17年ぶりの帰郷は、良寛の心は、どのような面持ちだったのだろうかと偲びます。

良寛は、帰郷後、出雲碕には一度も托鉢をしていないはずです。

74歳の生涯を終えるまで、この出雲碕という土地の周辺を放浪して暮らさなければ為らない宿命を負ったのです。

出雲碕から、車で40分か50分かけて、寺泊の町を通り過ぎて、信濃川を分水した大治水工事でできた川を渡ると国上山があります。

現在は燕市となっています。

実際、現地を訪問して驚く事が多々あります。

国上山中腹にある20年暮らした五合庵と10年暮らした草庵を訪ねました。

良寛さんは、この山の中で実に30年もの間、徹底した清貧暮らしを過ごしたのです。

この六畳一間の狭い五合庵。

草庵も似たり寄ったりの建物です。

 この辺鄙な雪深い山中で、ぽつんと一軒庵、そこで暮らした30年間を思い描くと、心を打たれ鳥肌が立ちます。

まさに、良寛さんの宿命となる分水嶺だったかもしれません。

つづく。


毛毬和尚。

2019年11月08日 | 百伝。

僕が知る良寛さんは、陽気で能天気な和尚さんというイメージでした。

筍が床下から生えてきたら、床に穴を空けて、伸ばしたという逸話。

雨降り日には、お地蔵さんに自分の編み笠をかけてやる逸話。

子供たちと、毛毬を興じて遊ぶ良寛さん。

食べ物がなくなると、良寛さんは、山をおりて托鉢をします。

懷には、必ず毛毬とおはじきを持っています。

その日も新しく作ったばかりの毛毬を持っていました。

いつものように毬つきをしながら、子供たちと夢中になって遊んでいると、離れた場所で、娘が独り草笛を吹いていました。

良寛さんは、訊ねます。

「どうして、あの娘は一緒に遊ばないんだ?」」

「あの子には母親がいないから毛毬がないから、一緒に遊ばないんだ」

「毛毬がなくても一緒に遊べば」と良寛さんは、言います。

「でも、あの娘は毬がないんだもの」と子供たちは言います。

良寛さんは、思うのです。

「この子達は、母親がいない毬がない娘を憐れまねばならないのに軽蔑している」と。

良寛さんは、その娘に手招きをしました。

何度も手招きをして言いました。

「その草笛いいね。私の毛毬と交換しよう」と言いました。

良寛さんは、自分の懷から新しい毛毬を取り出し手渡しました。

「遠慮なくお取り。さて、その草笛で上手く吹けるかな?」と言いながら、良寛さんが下手な草笛を吹くと、子供たち皆が、どっと笑い出したのです。

人は、こういう風にして、いたわり合わなければならないと、良寛さんがした事が正しいと覚えるのです。

良寛さんは、子供たちの相談事にも、読み書きも教えていたようです。

そして、何よりも哀しいことを、良寛さんは知っているのです。

この読み書きもできない貧しい子供たちの未来を。

いづれ、この子達が、どこかで働かされて、身売りされる子もいるのです。

良寛さんは、この世の不条理を嘆くのです。

どうして、力のある者は、力のない者を思ってやらないのか?

お金のある者は、お金のない者の気持ちを察してやらないのか?

不合理やら不正が、世の中には実にたくさんあることを、良寛さんは知っているのです。


天上大風。

2019年11月08日 | 千伝。

 昨日の新潟県は、快晴。

田中角栄さんの故郷、西山IC で降りて、海沿いの隣町、良寛和尚の生まれ故郷、出雲碕へ。

にいがた景勝百選第一の当選地に立って観ました。

真下に見える祠(良寛堂)が、良寛和尚の生誕地です。

海の向こうに良寛和尚の母の故郷、佐渡島の島影がうっすらと見えます。

それにしても、新潟県は、広いなぁ。

新潟県の面積は、北陸3県(福井、石川、富山)を合わせたよりも大きいのです❗

だから、行き帰りは、「富山で休もう。」となります。

さて、最近、テレビのCM を観ていると、気のせいかなぁ?

やたらに、ミツカンのテレビCM 番組が多いような気もします。

その度に思い出すのが、海里のミツカンと同じく在郷を故郷(山里)とする新美南吉です。

今年の夏、愛知県半田市に行ったのが、インパクトが強かったのです。

29歳の生涯で終えた新美南吉。

彼は、良寛さんの故郷越後に行きたかっただろうなぁ。

新美南吉は、ほとんど資料が残っていない良寛さんの幼年子供時代を想像の中で書き残しています。

新美南吉が生きた時代、越後の人々の偉人と言えば、上杉謙信と良寛和尚だったとのこと。

そして、新美南吉は、驚くべきことに、80年昔に、世界の片隅で生きる意味も、誰にも備わる悲しみ(でんでんむしのかなしみ)を、良寛さんの生涯、生きる姿に投影しています。

多分、多分ですが、良寛さんの子供時代は、あの温暖化反対を掲げるスウェーデンの16歳の少女グレタさんと似ていたかもしれません。

(トランプ米大統領のパリ協定離脱声明、彼女、怒り沸騰しているのかな?)

その後、良寛さんは、岡山県玉島の曹洞宗円通寺で12年にも及ぶ修行に入ります。

大愚良寛禅師の誕生です。

今回、良寛さんの生誕地、山の中で暮らした五合庵、草庵、終の住処となった終焉地、浄土真宗のお寺に眠る良寛さんの墓地、その住職さんのお話も伺う事もできました。

74歳で生涯を終えた良寛和尚。

終の住処に地に石碑が立っています。

浄土真宗の念仏の寺に、禅師として眠っています。

人徳、天晴れです。

托鉢の日々、こじき和尚とも呼ばれ、子供から石も投げられ、虐められた事も多々あったでしょう。

読み書きができた良寛和尚、膨大な量の和歌、詩歌、文を書き残しています。

その成果が、晩年の良寛和尚の名声を、良寛上人として、その名を広く大きく高くします。

天上大風。

良寛和尚さんの事、また追々と。


本居宣長(1730 ー1801)

2019年11月03日 | 空木宝剣

剣道や 伊勢路駅伝 文化の日

「もののあわれ」は、日本人の情緒、感性であると説いたのは、鈴と山桜をこよなく愛した鈴屋大人(本居宣長)。

享保 元文 寛延 宝歴 明和 安永 天明
寛政 享和と、伊勢路松坂に生きた本居宣長。

そして、文化(1804)、文政(1818)。

今日は、熱田神宮から伊勢神宮までの、第51回全日本大学駅伝。

16時からは、全日本剣道選手権の中継。

災害やら首里城の火事で、気の休まる間のない世情だか、スポーツ観戦に集中する時くらいが、せめてもの安寧の時間だった。

敷島(しきしま)の大和心(やまとごころ)を 人問わば 朝日ににおう 山桜 (本居宣長)


森を見て、機を見ず。

2019年11月01日 | 千伝。

11月になりました。

日本中、いろんな出来事が駆け巡ります。

東京オリンピック2020、マラソン、競歩の開催地が、札幌に変更決定・・・東京で観たかったなぁ、残念。

都知事も苦渋の決断。

高校時代から既に伝説的な中距離ランナー、そして、マラソンに転向、今は日本のマラソン強化委員長になっている瀬古利彦さんの意見も聞いて見たかったなぁ。

次いでに、トライアスロンも佐渡島か、五輪組織委員会会長の地元、石川県能登半島で行えばいいのにね。

今日は、ワールドカップ3位決定戦、ニュージーランド対ウェールズ戦・・・楽しみだぁ🎵

因みに、日本ラグビー代表の桜ジャージのユニフォームは、福井産です。

日本のラグビー協会も五輪委員会のお偉いさんは、早稲田のラグビー部出身の元首相。

沖縄県のシンボル、宝、首里城焼失。

悲しいかな❗

台湾檜の木材が使用されて、92年の復元工事に携わったのが、福井県の宮大工を中心に再建されたのが首里城だったのです。

復元を願います。

思い出すのは、首里城で開催された沖縄サミット。

当時の日本の首相が、出迎え歓迎の言葉を暗記していたのを間違えたというジョーク。

当時のアメリカ大統領クリント氏に、how are you? と言うべきところを、間違えて、who are you? と言ってしまった。

ジョークだと考えたクリント氏、I am ヒラリーのhusband. と答えた。

それを聞いた日本の首相は、あなたはどうかな?と決まり文句の返しだと考えた、練習した通り、me too! と答えた。

大学入試の民間英語検定機関導入の延期決定。

文科省大臣の「身の丈に合わせて」の失言問題。

高校の先生も、大学の先生も、これはアンフェアだと言い続けていた。

だから、延期決定は、結果オーライかな。

最近、発達障害という言葉をよく目にして耳にします。

堂々と、「私は発達障害だ」と言える時代にもなりました。

でも、もっとこれはという言い方、言葉はないのかな?

今の言葉通りならば、国も、地方も、大臣の失言も、国会議員の辞職も、すべて発達障害で済む話となります。

木を見て、森を見ず。・・・そんな社会になってしまいます。

今回のマラソン開催地、札幌に変更。

裏には、英国の伝説的ランナー、モスクワ、ロスでの金メダリストでもある国際陸連のセバスチャン・コーの意見があったとの事。

彼は、マラソンランナーになれなかった中距離ランナーでした。

日本には、同じ年齢のランナー、瀬古利彦がいました。

彼は、中距離からマラソンに転向。

絶対に金メダリストとなると思われたモスクワ五輪には、日本は不参加となり、悲運なランナーとなりました。

瀬古氏から、セバスチャン・コーに苦言を一言でも伝えて欲しかったなぁ。