バックパッカーという言葉が流行り出す以前、若い頃は、よく旅をしたものです。
今日は、旅での一期一会、その出会った方の命日でもあります。
ポルトガルを旅した際、ユーラシア大陸最西端、早春のロカ岬まで足を延ばした時の思い出。
ロカ岬までは随分と交通の便が悪く、ポルトガルの首都リスボンから電車に乗り、どこかの駅からバスを乗り継いで行きました。
ロカ岬に着くと、小さな土産屋の中にちょっとした小さな食べ物屋がありました。
ただ、帰りのバスが数時間に1本で、一度行くと帰るまでに随分と長い時間を過ごす事になりました。
ロカ岬からの見渡す限りの大西洋の大海原・・ただ何時間も眺め続けていると見飽きるせいか、さほどの感動も湧いてきません。
偶然にも日本からの女子大生が数人、卒業旅行でロカ岬を訪れていました。
それから、チェコからの家族一家での少人数の旅行者ぐらいだったでしょう。
時間を持て余しているので、いつの間にか旅仲間の一期一会、旅情報等々、会話が弾みました。
リスボンまでの帰りのバス、電車も同じ帰路を辿ります。
リスボン駅での別れ際、その中でとても朗らかで明るかった一人、4月から大手A航空に就職すると言っていました。
「今度、日本に帰国されたら、是非東京でお会いしましょう」ということで、ぼくのアドレス帳に自らの名前と住所を書き込んくれて、お別れをしました。
それから残念ながら音信不通のままとなりました。
その後、3年ぐらいが過ぎた6月6日。
僕は既に帰国して福井に引っ越し、あの日は週末で自宅の屋根裏で私物を整理していました。
そのうち、ポルトガル旅行での写真、当時のアドレス帳、その中には、あの時の朗らかな彼女の名前と住所と姿も・・お元気なのかな?
懐かしいロカ岬での思い出も甦りました。
そんな懐かしい思い出を振り返りながら、屋根裏から梯子階段で降りる途中、足を踏み出して階下の床へ落下してしまいました。
頭部を打撲、眩暈がして、1時間ほどソファにしばらく横になっていた。
頭部の痛みが消えて、テレビを点けてみました。
ぼんやりとテレビ画面を観ていると、ニュース速報のテロップが流れてきました。
セスナ機、富士山山頂に墜落。セスナ同好会クラブの飛行中のA 航空社員3名死亡。
その3名のなかに、数時間前に屋根裏で見つけた彼女の名前と住所が、そのままテレビ画面に流れていました。
僕が体験した実話です。
その後、墜落現場となった富士山山頂まで2度登頂しました。
深い意味はありません。
単純に富士山山頂のお鉢巡りを体験登頂したかっただけの事。
故人ヘの想いとして、「弔う」とか「悼む」とか「偲ぶ」とか、そのような語彙があります。
人間の正体、生かされている命の真理には程遠いのでしょうが、良きにつけ悪しきにつけて、多くの思い出、想いは物質として存在しているような気がします。
死があるからこそ、生が支えられているという命ヘの問い掛け、事実です。
合掌