百島百話 メルヘンと禅 百会倶楽部 百々物語

100% pure モノクロの故郷に、百彩の花が咲いて、朝に夕に、日に月に、涼やかな雨風が吹いて、彩り豊かな光景が甦る。

夏越大祓

2014年07月31日 | 百伝。
輪くぐり神事。

その廻り方をご存じですか?



明日から、八月です。

やっぱり、痩せられませんでした!

太ったまま、ありのままの肥満体で、百島へ帰省します。

縁起よく、100を掲げた車を見ました!!



夏越大祓です。


百島愛ターンの八月。

2014年07月27日 | 百伝。
八月の勤務表作りも、ほぼ完成しました。

いつも思うことですが、八月のお盆休みと正月休みの勤務表作成は、気疲れするのです。

金銭という休日手当で解決できれば、それはそれでよいのですが・・それぞれが各家庭の事情や予定があり、ある程度考慮しないと、働く側に、依怙贔屓という不平不満が積ります。

勤務管理する側にとっては、人員の少ない休日期間こそ経験豊富・業務能力の高い方をなるべく配置したいのが本音です。

・・暑いです。

汗が流れて、ダイエット効果抜群です。

冷たいモノも売れて、景気もよくなるでしょう。

ともかく・・八月が近づいてきました。

さて、八月二日には・・これ!!

百島初のビーチ・ライブ&キャンプですよ。

これまた、百島Iターンのキャプテンのアイデアです。

素晴らしいです。



八月三日には・・これ!!!

まるごと百島体験・・参加します。



八月十四日には・・なんと!・・百島納涼祭!!





これは、アートベース百島のスタッフの皆さんの御陰様とプランによるものです。

笑顔が、とても素敵ですね。

・・いいですね。

・・感謝です!!

日本各地での「地域興し」「イベント」「セレモニー」等々での生き残りをかけた地域の差別化競争も激しいものがあります。

とにもかくも、発信力というユニークな個性と自信力です。

Iターンというカタチで、百島へ移住された皆さん・・百島は、皆さんの人生舞台です。

世界へ羽ばたけるぐらいに、百島を踏み台として、大きく活躍していただきたいものです。

花火の国

2014年07月27日 | 千伝。
今週末だけでも、全国各地百か所程度で花火大会が催されるようです。

福井県内でも、今週末から九月まで、各地で続けざまで花火大会が目白押しです。

日本は、世界一の花火大国かもしれません。


(写真提供:尾道観光協会)

花火大会は、田舎や地方では経費のかかる大きなイベントですから、存続維持も大変です。

全国一出生率の低い東京に多くの人々が集まり、出生率の高い田舎には、人が定住しないという・・大きな矛盾を抱えている日本です。

どれだけ声高く「地方重視」と叫んでも、首都機能移転計画も棚上げです。

一層のこと、手始めに公共放送のNHKやメディア・教育関連施設を地方へ、日本の要となるエネルギー資源が安全というならば、原発・科学関連施設を首都圏へ移転すればよいのにと考えます。

このままならば、日本は、地方から間違いなく線香花火のような社会になってしまいます。

人生の花火も打ち上げれない国民事情も理解できます。

昨日、書き上げた課題文・・増え続ける寝たきり老人には、足が必要なのでしょうか?

誰何の大暑

2014年07月24日 | 千伝。
昨日の島根県津和野のからのニュース。

一年前の豪雨による被害も地元に建設業者に若者がいないために、復旧もままならない現状を伝えていました。

・・よく解ります。

日本中の建設業界、介護業界・・若者の働き手が少ないのです。

・・海運業界も然りだとのこと。

今、来月八月のお盆休みのある勤務表作りに頭を痛めています。

・・若者の人手不足なのです。

AKBやらEXILEへと・・踊り手や歌い手になりたい若者の気持ちも、理解できます。

地方の介護業者が続々と、東京へ「特養施設」設置の進出を図っているというニュース。

地元の若者も働き手として、一緒に、東京へ「出稼ぎ」です。

高齢者が圧倒的に増える東京へのビジネス展開も、よく理解できます。

石見の国、津和野の人「森鴎外」は、三鷹の禅林寺の小さな墓に、森林太郎として眠っています。

近くには「人間失格」の太宰治も眠っています。

明治期の森鴎外、昭和期の太宰治・・御二人が、故郷の石見と津軽の現状を考えると、何を想うことやら?

昨日は、大暑でした。

・・暑い日々が、続きます。

深夜便のラジオから、40年昔(昭和49年、1974年)の夏の懐かしいヒット曲が流れています。

ひと夏の出来事、グッバイ・マイ・ラブ、えりも岬、岬めぐり、東京、空港、心もよう・・等々♪

・・あの時代も、暑かったです。

40年後の大暑・・見届けることもできません。

これから、40年先の未来・・日本全体が、過疎の国になっているはずです。

夢のような・・若き君住む、美しい過疎の国、日本になって欲しいものです。

大暑の真夜中・・スイカ(誰何)を食べながらです。

出羽守

2014年07月22日 | 千伝。
昨日は、「海の日」。

宮崎県高鍋町が率先して、健康促進のために、高齢者にサーファーになることを薦めている活動が紹介されていました。

70代の方、80代の方のサーファーの皆さんが、とても若々しいのです。

ボードにうつ伏せになって海に漕ぎ出すと、背筋がピンと伸びるし、筋力もつくそうです。

そして、ボードに立っての波乗り・・バランス感覚を養うそうです。

おまけに、腰痛が治ったとか、肥満が解消されたとか、頭の髪の毛がまた生えたか・・ともかく活き活きとした高齢者サーファーの皆さんでした。

楽しくて、移住したくなるような・・宮崎県でした。

若い人の中では、宮崎県に移住する方も多いようですが、現実問題・・宮崎県への移住は無理でしょうが、今後の高齢者生活に向けての、とても参考となるようなヒントを頂きました。

最近、邦画の話題作となっている「超高速!参勤交代」と「Wood Job!」・・面白いとのこと。

ぼくは観ていないのですが、両作とも、福井県池田町の風景が使われているとのこと。



今日の地元新聞コラムに、「出羽(では)の守」の謂れを書いていました。

先端科学の世界では、かつて、「アメリカでは、イギリスでは・・」と日本の現状と海外とを比較するのに「では」と説明されていた御仁を「出羽守」と揶揄したようです。

でも、今の日本の現状問題・・女性の社会進出、社会福祉、高齢者と幼児、政治家の議員定数、収入格差の拡がる社会福祉政策・・これらに対して、「北欧では」とか「北米では」・・ともっと「出羽守」が提言すべきだという内容になっておりました。

・・賛成です。

参勤交代の特長を推して、地方定住の在り方、日本のよき未来の在り方を提言するのに・・もっと、もっと、よきことを提言紹介する「出羽守」が多く現れてもよいと思います。

宮崎県の海岸では、高齢者サーファーが多く楽しんでいるようです。

火と水と木と金と土と。

2014年07月19日 | 千伝。
以前、ぼくの親しい友が、「X・トレイル」という新車を買った途端に盗難に遭ったとのこと。

ふつうならば、即、警察に盗難届けを出すでしょう?!

それなのに、彼は、もう東南アジアにでも売られてしまっただろうと思って、警察に届けなかったそうです。

信じ難い話なのですが・・彼は、物欲とか金欲とかに、それほど執着心の無い不可解なのんびりした面を備えています。

その事件から、随分経って、警察から連絡があったそうです。

盗んだ者が、事故を起こしたのでしょう。

車内は、証拠隠滅のため、意図的に、火をつけたかのように消火栓で泡だらけになって放置されていたとか・・犯人の仕業なのでしょう。

勿論、所有名義者の彼は、警察からいろいろと調査と苦情が入ったようです。

・・信州・南木曽から、福井に帰って参りました。

実は、昨日、ぼくは、自分の財布を落として紛失してしまいした。

現金数万円と診察券とポイントカード類だけだったので、「もう戻らない」と思って、警察に届けませんでした。

誰もいない露店風呂にゆったりと入浴・・よい気分転換となりました。



風呂につかりながら、友人が車の盗難に遭っても警察に届けなかったことを思い出していました。

・・その理由が解るのです。

どうせ、警察に届けても「戻らない」という「あきらめ」なのです。

南木曽に、ほんとうに「お金」を落として帰ったと思えばいいではないかと・・。

あきらめの境地というのは、不満や不平や憎悪を忘れさせてくれるのです。

今朝のNHKあさいちのテレビ番組にゲストで出演されていたシスターの渡辺和子さんが、1981年にローマ法王ヨハネ・パウロ2世が広島を訪問された時、「許しなさい」と言った言葉を伝えていました。

相手を許さないと、ずっと相手に対して憎悪という不自由な心にさらされるという深い意味です。

・・余談ですが、法王ヨハネ・パウロ2世の「平和アピール」もここに紹介しておきます。

「戦争は人間のしわざです。戦争は人間の生命を奪います。戦争は死そのものです。過去を振り返ることは、将来に対する責任をになうことです。ヒロシマを考えることは、核戦争を拒否することです。ヒロシマを考えることは、平和に対しての責任を取ることです」

水に流せれば、それでいいのです。



木曽路を散策すると「ももはな街道」という名のついた散策道がありました。

春先には、桃の花が咲くのでしょうか?

また、一度、訪問したいものです。

さて、10年前の今日・・福井は、たいへんな豪雨に見舞われて、我が家も床下浸水の被害を受けました。

福井のほとんどの方が忘れかけていますが、あの時、どこのどなたか存じませんが、2億円の当選宝くじを我が福井へ送ってくださった方がおられるのです。

その後、福井よりも大きな自然災害に遭った多くの自治体もあり、大変恐縮したものです。

あの二億円という寄進行為は、それ以上の多くの示唆と価値を教えてくれるのです。

あれから、十年。

とりあえず、生きていることに感謝。

生きて、考えて、動けることに感謝しているのです。

振り返れば・・親戚・身内等の者を数えれば、この十年に、十人ほどが、この世を去っています。

人生は「おもちゃ箱」だと言います。

東京おもちゃ美術館館長の多田先生は、「おもちゃ」をアートだと考えない芸術家とアートとして受け入れてくれる芸術家に分かれると言います。

その通りです。

ぼくの視点から観れば、育児も老後も、生き方の芸術です。

アートもデザインもスポーツも音楽もレジャーもレクリエーションも「生き方のおもちゃ道具」です。

食事、排泄、入浴・・これに芸術心、遊び心、自然文化を取り入れたのが「いのちの本質」なのです。

みなさんの人生に、よりよい日差しが届きますように。

今日は、土曜日。

合掌。

百島の風車(かざぐるま)

2014年07月18日 | 百伝。
愛媛県の八幡浜に「真網代くじらリハビリテーション病院」というのがあるとか。

その庭に石の風車(かざくるま)が、10基ほどあるとか。

微風が吹けば・・その石の風車が、回るとか!!

・・東京おもちゃ美術館館長、芸術教育研究所所長の多田千尋先生から聞いたお話です。

江戸時代の風車には、無病息災を表意するものがあったとのこと。

六枚羽根の一枚一枚が、米俵のかたちになっています。

「六つ」の「俵」で、「む・ひょう」と音読みして、無病息災の風を吹かせるのでしょう。

以前、その話を・・知り合いの彫刻家にお話しされたようです。

それが、どこで繋がったのか・・真網代くじらリハビリテーション病院から、心の病、摂食障害、痴ほう症等々をケアするために、庭にモニュメントの石の風車を作ろうという話が持ち上がったそうです。

でも、その彫刻家の方は、箱根の彫刻の森等に展示しなければならないほど忙しく、「リハビリ病院の庭が作品の展示場」というのも、芸術家として気が引いてしまった感があるのでしょう。

その背景を知る多田先生は、その彫刻家の方に「是非とも引き受けるべき仕事だ」と説明したようです。

今、真網代くじらリハビリテーション病院のモニュメント(石の風車)は、入院患者さんは勿論、地元の方達の誇りにもなり、ちょっとした観光地にもなっているようです。

地元テレビ局からも天気予報のロケ中継に頼まれることもあるそうです。

これは、医療設備と同等レベルでの「遊び心」溢れる演出でもある・・と多田先生のコメント。

百島診療所とアートベース百島を巧く組み合わせれば、百島にも無病息災を祈るよい風が吹くのでは・・。

ちょっと、そんな思いで、百島の風車は、何だろう?・・と考えています。

妻籠で「百島」を考えた。

2014年07月18日 | 百伝。
妻籠宿・・かつては、中山道一賑やかな宿場町だったとのこと。





時は、今・・平日の妻籠のメイン・ストリートです。



ほとんど観光客も歩いていません。

・・平日のせいでしょうか?



平日の駐車場料金は、必要ないのでは?・・と思うぐらい閑散としていました。

それでも、江戸時代へと、ふとタイム・スリップしたような感覚になりました。

江戸時代は、さぞ賑やかだったのは、間違いのない情景・世界です。



この本陣は、島崎藤村の母方の実家だとのこと。

とても雰囲気のある宿場町なのですが・・ほとんど観光客がいないのです。

宿場通りに「空き家」が、増えているのも現実なのです。

馬籠、妻籠・・木曽路ルートは、歴史的な資源もあります。

世界遺産になれば、京都やベニスのように集客努力もせずに世界から観光客が集まってくるのでしょうが・・このままならば、どうなるのか?・・という心配が先に立ちました。

でも、京都・祇園祭のごった返す人混みの中の観光巡りよりも、今日選択した妻籠散策の方が有意義でした。

木曽は、「もったいない観光地」です。

木育普及活動といえば、多田千尋さん。

そのマネジメントには、鋭さと際立って素晴らしいものがあります。

この木曽の地域には、そういった人材が、必要なのではないかと考えました。

全国から「木曽大好き応援隊」のような存在も必要かなぁ・・と思い巡らしました。

裏返せば、妻籠で考えた「百島への想い」でもあります。

木曽路へ

2014年07月18日 | 千伝。
先程まで、NHKラジオの昼番組が、広島県府中市から生中継されていました。

「木育(もくいく)」という地域活動が、紹介されていました。

昨日、南木曽町まで出かけて参りました。

岐阜県中津川に降り立ち、国道19号線の木曽路に入りました。

まっすぐに北上すれば、長野県塩尻です。

ここで、島崎藤村の「夜明け前」の舞台になった馬籠(現・岐阜県中津川市)にも立ち寄ろうかと悩みましたが・・



そのまま、長野県南木曽町妻籠へ。

妻籠は、先日の南木曽町の土石流の被害にも、大した影響もなかったようでした。

木曽路というのは、今でいう中山道六十九次に組み込まれています。



江戸時代には、京と江戸を結ぶ・・東海道五十三次と並ぶスーパー・ハイウェーでした。

ちなみに、島崎藤村は、「木曽路は、すべて山の中である・・で始まる夜明け前」の中で、中山道ではなく、東山道(とうさんどう)とか、木曾街道六十九次と記載しています。

木曽の蕎麦は、美味です。

日本の書物に「蕎麦」という言葉が、初めて登場したのは「木曽の蕎麦」だったとのこと。

昔、百島の祖母が作ってくれた「蕎麦」の味覚と似ているような記憶が甦りました。

この界隈に暮らす方は、生涯に百度ほど「海」を見れたらいいかなぁ・・とおっしゃていました。

木曽と瀬戸内海は、不思議な繋がりがあります。

でも、木曽は、やはり「木育」が似合う地域です。

島崎藤村の~夜明け前 序の章~を下記に抜粋します。

見事なまでに「木曽への案内」を、巧みに描いています。

「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「
 木曾路(きそじ)はすべて山の中である。あるところは岨(そば)づたいに行く崖(がけ)の道であり、あるところは数十間の深さに臨む木曾川の岸であり、あるところは山の尾をめぐる谷の入り口である。一筋の街道(かいどう)はこの深い森林地帯を貫いていた。
 東ざかいの桜沢から、西の十曲峠(じっきょくとうげ)まで、木曾十一宿(しゅく)はこの街道に添うて、二十二里余にわたる長い谿谷(けいこく)の間に散在していた。道路の位置も幾たびか改まったもので、古道はいつのまにか深い山間(やまあい)に埋(うず)もれた。名高い桟(かけはし)も、蔦(つた)のかずらを頼みにしたような危(あぶな)い場処ではなくなって、徳川時代の末にはすでに渡ることのできる橋であった。新規に新規にとできた道はだんだん谷の下の方の位置へと降(くだ)って来た。道の狭いところには、木を伐(き)って並べ、藤(ふじ)づるでからめ、それで街道の狭いのを補った。長い間にこの木曾路に起こって来た変化は、いくらかずつでも嶮岨(けんそ)な山坂の多いところを歩きよくした。そのかわり、大雨ごとにやって来る河水の氾濫(はんらん)が旅行を困難にする。そのたびに旅人は最寄(もよ)り最寄りの宿場に逗留(とうりゅう)して、道路の開通を待つこともめずらしくない。
 この街道の変遷は幾世紀にわたる封建時代の発達をも、その制度組織の用心深さをも語っていた。鉄砲を改め女を改めるほど旅行者の取り締まりを厳重にした時代に、これほどよい要害の地勢もないからである。この谿谷(けいこく)の最も深いところには木曾福島(きそふくしま)の関所も隠れていた。
 東山道(とうさんどう)とも言い、木曾街道六十九次(つぎ)とも言った駅路の一部がここだ。この道は東は板橋(いたばし)を経て江戸に続き、西は大津(おおつ)を経て京都にまで続いて行っている。東海道方面を回らないほどの旅人は、否(いや)でも応(おう)でもこの道を踏まねばならぬ。一里ごとに塚(つか)を築き、榎(えのき)を植えて、里程を知るたよりとした昔は、旅人はいずれも道中記をふところにして、宿場から宿場へとかかりながら、この街道筋を往来した。
 馬籠(まごめ)は木曾十一宿の一つで、この長い谿谷の尽きたところにある。西よりする木曾路の最初の入り口にあたる。そこは美濃境(みのざかい)にも近い。美濃方面から十曲峠に添うて、曲がりくねった山坂をよじ登って来るものは、高い峠の上の位置にこの宿(しゅく)を見つける。街道の両側には一段ずつ石垣(いしがき)を築いてその上に民家を建てたようなところで、風雪をしのぐための石を載せた板屋根がその左右に並んでいる。宿場らしい高札(こうさつ)の立つところを中心に、本陣(ほんじん)、問屋(といや)、年寄(としより)、伝馬役(てんまやく)、定歩行役(じょうほこうやく)、水役(みずやく)、七里役(しちりやく)(飛脚)などより成る百軒ばかりの家々が主(おも)な部分で、まだそのほかに宿内の控えとなっている小名(こな)の家数を加えると六十軒ばかりの民家を数える。荒町(あらまち)、みつや、横手(よこて)、中のかや、岩田(いわた)、峠(とうげ)などのがそれだ。そこの宿はずれでは狸(たぬき)の膏薬(こうやく)を売る。名物栗(くり)こわめしの看板を軒に掛けて、往来の客を待つ御休処(おやすみどころ)もある。山の中とは言いながら、広い空は恵那山(えなさん)のふもとの方にひらけて、美濃の平野を望むことのできるような位置にもある。なんとなく西の空気も通(かよ)って来るようなところだ。
 本陣の当主吉左衛門(きちざえもん)と、年寄役の金兵衛(きんべえ)とはこの村に生まれた。吉左衛門は青山の家をつぎ、金兵衛は、小竹の家をついだ。この人たちが宿役人として、駅路一切の世話に慣れたころは、二人(ふたり)ともすでに五十の坂を越していた。吉左衛門五十五歳、金兵衛の方は五十七歳にもなった。これは当時としてめずらしいことでもない。吉左衛門の父にあたる先代の半六などは六十六歳まで宿役人を勤めた。それから家督を譲って、ようやく隠居したくらいの人だ。吉左衛門にはすでに半蔵(はんぞう)という跡継ぎがある。しかし家督を譲って隠居しようなぞとは考えていない。福島の役所からでもその沙汰(さた)があって、いよいよ引退の時期が来るまでは、まだまだ勤められるだけ勤めようとしている。金兵衛とても、この人に負けてはいなかった。
」」」」」」」」」」」」」」」」」」」



百島・女男岩ライブ

2014年07月16日 | 百伝。
百島北端のビーチで、8月2日に夜ライブが行われます。

女男岩(めおといわ)という場所です。

主催は、キャプテン?

ぼくは、当日の夕方か夜に、百島着予定なので参加できないかもしれません。

でも、是非共、成功をしていただきたいものです。




翌日、8月3日は、「まるごと百島」のイベントです。

ボランティアとして、喜んで参加します。



ちなみに、百島南端は、「だんご岩」という地名です。

背負う生き方

2014年07月15日 | 百伝。
「がん哲学外来市民学会」への感想を書こうと思いながら、今日の早朝、ワールドカップ・サッカー決勝ドイツ対アルゼンチン戦をテレビ観戦。

ドイツが、24年ぶりのワールドカップ優勝・・テディベアも、さぞ喜んでいるのでしょう。

24年昔当時、ぼくはイングランドに居て、ドイツに負けたイングランドは、イングランド在住のドイツ人を襲ったり大暴れ。

その年に、ぼくは、ドイツの外資系企業に就職しました。

どれぐらい、まくしたてられるような英語で、ドイツ人上司に叱られたことやら・・「ショートセンテンス イズ ベスト」。

「日本のJIS(工業規格)は、殆どのネジを時計方向の右に回したら締まる。変だと思わないか?」

「ドイツ人の思考規格は、車の右サイドのタイヤは、時計方向に。左サイドのタイヤには、反時計方向に回すんだ。設計思想の問題だ」

設計思想と言われてもね・・日本人は、同じく島国の英国人と情緒が似通っている。

友人の英国人から「ほんとうにドイツ企業で働いているのか?」と何度訊かれたことか?

ぼく自身、あの頃、どうやって仕事をしていたのか?・・今では、不思議でなりません。

・・たぶん、今は太りすぎて、頭の血行が、よくないのでしょう。

さて、昨日の続き・・。



「がん哲学外来市民学会」に参加された医学界からのパネリストのメッセージです。
樋野興夫氏 順天堂大学 病理・腫瘍内科教授
「人間の目的は、品性の完成。偉大なるお節介。日本は先頭を走る必要はない。一周遅れで堂々と走ればいい」

山口 健氏 静岡県立静岡がんセンター総長
「心通う対話。暮らしの質を重視。死の質の向上を目指す。がんよろず相談。がんの社会学を提唱」

柏木哲夫氏 淀川キリスト教病院理事長、金城学院学院長、ホスピス財団理事長
著書多数。「励ますよりも、支えるよりも、寄り添うが大事。使命、運命、懸命、宿命」

とても素晴らしいメッセージを拝聴することができました。

感謝です。

そして・・。



一般からパネリストとして、多喜義彦氏と多田千尋氏がシンポジウム講演、パネルディスカッションで発言されました。

この御二人の人生に想いを巡らせると、今回の不思議な巡り合わせに、胸が熱くなりました。

多喜義彦さん・・知る人ぞ知る「開発の鉄人」。

全国の企業の新商品・新事業に携わり、その企業数800社以上、その実績・開発件数は約3000件。
講演内容で、自分の生き様を述べておられました。
18歳か19歳で発明、財を得るも、人から疎まれぬよう「顧問料」だけを頂くことにした。
その後、父の事業を継ぐが、負債2億円が判明。借金取りに追われ、九十九里浜まで連れて行かれたこともあるとか。
その講演内容で、剣道をしていたことを話されていました。
道場荒らしではないが、その道場へ行くと「剣のレベル」が判るとおっしゃっていました。
綺麗な整理整頓している道場ほどに、その剣道のレベルが高いとのこと。
かなりの剣道の達人です。
現在、「がん哲学外来事務局長」でもあり、がん哲学外来カフェを全国7000箇所設置を目標に活動。

今日、この話を、ぼくの長兄に話すと・・ただただ、驚く発見がありました。

多喜さんという人物・・ぼくが中学生の頃に、大学生だった兄から既に聞いていた「とてもかっこいい人」だったのです。

兄と多喜さんは、日本でも有数の強さを誇る某大学の剣道部の同学年として所属。

部員百数十人いた中で、多喜さんは、1年生の時から5人のレギュラーに入っていたとのこと。

当時の体育会は、1年生は奴隷、2年生は家来?、3年生は殿様?、4年生は神様と呼ばれるぐらい「縦社会」で剣修行も「しごきのような地獄の特訓」だったとか・・その後、兄は、我が家の経済状況を考えて、剣道部を退部。

続いて、多喜さんも剣道部を退部したとか。

兄の話によれば、「1年生なのに剣道部で一番上手いのに、しごきなんかで嫌になったんだろう。ボンボンで白いジープに乗っていた。頭もよかった。優しい男だった。あのまま剣道を続けていれば、間違いなく日本一の剣士になっていた」と今でも断言します。

昨日、帰りがけに、出入り口で、多田さんを待っていると、多喜さんが、独りで立っておられました。

「とても、よいお話を聞かせていただきました。ありがとうございます」と挨拶させていただきました。

もし、今日ならば、付け加えて「40年以上昔の中学生の頃から、存じ上げておりました」・・と、ご挨拶出来たのに残念です。

そして、天命を背負う多田千尋さん。

ぼくよりも若いのですが、ほんとうに「多田先生」と呼びたくなるような「逞しさ、マネジメントのアイデア」と、千尋さんと呼びかけたくなる「繊細な優しさ」が同居しています。

背負っているものが・・とても大きいのです。

日本で(早稲田大学とお茶ノ水大学で)、老人と幼児に関わる社会福祉学を教えている人物は、まず二人といないでしょう。

さらに、木育によるウッドスタート宣言・・実に興味深い人物なのです。

ましてや、御祖父様が、百島出身となれば、とても身近な人に映ります。

シンポジウム終了後、喫茶店で1時間弱、お話する機会がありました。

百島に、また行きたいとのこと。

前回の百島訪問が、鮮烈な衝撃的な思い出になったようです。

ぼくは、百島という枠組みというよりも、多田さんの故郷である地元新宿区と尾道市を作家の林芙美子記念館がらみ、映画「東京物語」と「東京おもちゃ美術館物語」として結びつけた方がよいのかな?・・と思ったりしました。

それにしても、多田さんの講演内容の面白さと興味深さとマネジメントの鋭さに関しては、また別の日に感想を書かせていただきます。

多田さんと建物を出ようとする際、我々が喫茶店から出て来るのを待っていたのでしょう。

東京の東久留米から来られていた「がん哲学市民学会」の会員さんの親子の方から声をかけらました。

「実にすばらしかった・・今度、東京おもちゃ美術館に遊びに行きます」とおっしゃっていました。



多田さん、お疲れ様でした。

小松空港へ、一路東京へと別れました。



この不思議な巡り合わせに感謝。

では、また。

ごきげんよう♪

がん哲学外来市民学会

2014年07月13日 | 百伝。
第1回が佐久、第2回が東京、そして、第3回が、本日、福井で開催されました。

「がん哲学外来の見据えるこれからのイノベーション」

がん哲学外来市民学会・・?

昨日、初めて耳にしました。

がん哲学外来とは・・「生きることの根源的な意味を考えようとする患者とがんの発生と成長に哲学的な意味を見出そうとする人との対話の場である」とのこと。

午前中は、日本各地の「がん哲学外来報告」のプログラムには、残念ながら参加できませんでした。

でも、多田さんが講演するということで、急遽、ぼくの予定を変更。

午後の部からのシンポジウム(特別講演会)、パネルディスカッションに見学参加させていただきましたが、大正解でした。

午後のテーマは、「がん医療の隙間を埋める新たな癒しの力」でした。

パネリスト:

樋野興夫氏 順天堂大学 病理・腫瘍内科教授
山口 健氏 静岡県立静岡がんセンター総長
柏木哲夫氏 淀川キリスト教病院理事長、金城学院学院長、ホスピス財団理事長
多喜義彦氏 システム・インテグレーション代表

そして、多田千尋氏(芸術教育研究所、高齢者アクティビティ開発センター、東京おもちゃ美術館館長)

参加者の皆さんも、福井県内よりも、福井県外からの参加者の方が多いようでした。

それにしても・・興味深いお話が、盛り沢山、満載でした。
医師と患者の関係で、皇室の従医として20年間働いた体験談。
箱根の彫刻の森にある展示品と、ある精神系施設にある彫刻の展示品の存在価値。
全国に「がん哲学外来 カフェ」の7000店の設置目標。
使命、懸命、運命、宿命。
遊びのデザイン、芸術、ほどよい仕事。
・・等々、皆さんのお話が、非常に興味深く、幅広く、まとめるのに大変です。

後日、少しづつですが、ぼくなりの感想をまとめてみます。

さて、多田さんとは、百島で会って以来、約1年ぶりの再会でした。

ワンダフルでした!!

医療の世界の視点ではなく、多田先生としての一般人の視点からの講演会内容、「しつらえ、ふるまい、よそおい」のお話。

・・つづく。

オープン・データー化する社会

2014年07月13日 | 千伝。
以前、何度か取り上げましたが、福井県鯖江市の取り組みが面白いです。

女子高生課やおばちゃん課を設置して、年齢を超えての意見を集約して、行政という範疇よりも、市民参加型の市民サービスに努めているのです。

今日の中部地方のニュースにも取り上げられていた鯖江市のオープン・データー化の注目度が凄い!

でも、・・オープン・データーって、何だろう?

英国社会の最先端のオープン・データー化を真似ているようですが、フェイスブックでのシェアのように、うまく利用できればよいのかな?

要は、市の行政情報をオープン、市民からの情報もオープン。

言うなれば、著作権や所有権利の放棄して、誰もが自由にシェアして使用してもよいと言うことに繋がるそうです。

鯖江市のアイデアが凄いところは、行政情報をオープンにして、誰にも自由に提供するのです。

その情報をベースにして、アプリの開発をも、市が率先して手助けしているのです。

鯖江市民の素人の老若男女の希望者にも、スマホ用のアプリ開発を分かりやすい市民講座を開いているのです。

だから、ITに無縁だった60歳過ぎの方もスマホのアプリを開発しているのです。

・・市による市民のためのアイデアとサービスの報酬制度なのです。

例えば、バスが、どこを走っているのか、その待ち時間とか、消防栓の位置情報とか、図書館の空席情報とか・・等々。

それらの情報をスマホから入手できるとのこと・・そのアプリ数90以上だとかで、全国から自治体やIT企業が見学に来るとか。

鯖江市は、身のこなしが軽いフットワークのよさがあります。

それから、身の丈を知るという動き・・金が無いのなら、金のかからないように、安い予算案で実行に移しています。

学ぶべき点が多いと感心した今日の朝でした。

木曽伝説

2014年07月10日 | 百伝。
・・台風に想う。

小学生の頃、台風が百島上空を通過して、台風の目の中を体験したこともあります。

台風被害にも遭ったこともあります。

百島の我が家の玄関のガラスが割れたこともあります。

二階の屋根が吹き飛ばされたこともあります。

それでも、子供の頃、台風が来るとワクワクしたものです。

・・学校が休みになったからでしょうか?

大人になって想うのは、もし屋根が吹き飛ばされた場合、どれぐらいの費用が必要になるのだろうか?

・・と考えたりするからでしょうか?

大人になるにつれて、ワクワク感よりも警戒感が強くなりました。

今回の南信州、長野県南木曽町の土石流による被害に遭った皆様には、お悔やみを申し上げます。

国道19号線、JR中央線の可能な限りの素早い復興を祈ります。

北には、旧日義町(向山(向島)、百島)もあります。

南には、妻篭、馬篭の中山道の宿場町もあります。

観光客の足が、遠のくことのないように祈ります。

♪木曽の御嶽さんは・・なんじゃら、ほい♪

木曽節・・とても、ながーい信濃民謡です。

また、聴いてみたくなりました。

百島村上水軍秘史

2014年07月09日 | 百会倶楽部(日本「百」歴史探訪)
今年の本屋大賞となったのは、和田竜の長編歴史小説「村上海賊の娘」・・村上武吉の娘・景を描いているとか。

・・まだ読んでおりません。

随分昔、城山三郎先生の意欲作「秀吉と武吉 ~目を上げれば海~」という能島村上水軍の当主村上武吉と豊臣秀吉を描いた作品を読んだことがあります。

正直な読後感想を述べると「非常にがっかりした」としか言えない記憶があります。

村上水軍一門の歴史を紐解くと、非常に複雑です。

愛媛県史には「村上水軍の歴史」を詳細に記録記載しています。
下記に抜粋~
村上氏の遠祖は清和源氏または村上源氏ともいい、平安時代の末頃から伊予の河野氏と結んで瀬戸内に勢力を張ったと伝わる。南北朝時代の頃、南朝のてこ入れのため北畠顕家の息子が村上家に入り村上師清と名乗ったのが後の三島村上氏の先祖となると言われるが、この人物を北畠氏側の史料では確認できないようである。いずれにせよ村上氏の出自は定かではない。
村上師清の子供は能島、来島、因島の三島に分かれて、勢力を張った。代々伊予の河野氏との関わりも深かったようであるが、周防の大内氏の勢力が伸びてくるとその傘下にも入った。三島は一応能島を宗家としていたが、因島は安芸の児玉氏や小早川氏と親しく、来島は伊予の河野氏に近いなどそれぞれの利害関係はかなり異なり、独自に行動することが多かった。
上記に抜粋~

端的に言えば、その勢力拠点は芸予諸島を中心であり、村上一門の後期において、俗に言う、能島村上、来島村上、因島村上の三家へ分かれました。

当時、瀬戸内海という概念は無く、現在のしまなみ海道の芸予諸島に関所を設ければ、瀬戸内海航路を制覇できたのです。

因みに、因島は備後の国、瀬戸田のある生口島は安芸の国、弓削島は伊予の国でした。

さて、因島村上水軍というのは、備後の鞆の浦にも領地があり、田島村上をも傘下に治めていました。

では、百島村上というのは?

・・これが謎なのです。

何故かというと応永34年(1427)、将軍義持が赤松氏を討伐した時、村上因島家の村上備中入道は、山名時煕の催促によって出兵し、将軍から感状を与えられた・・村上三家の名が、歴史上にはっきりと登場するのは、この時以来なのです。ー愛媛県史料抜粋ー

その後、1441年(嘉吉元年)、嘉吉の乱で敗れた赤松満祐の一族が百島に逃れて住み着いたという歴史認識を、どうとらえるべきなのか?

赤松一門も村上一門も・・繁殖・生存能力が素晴らしいのに、誰も探究しようとしません。

悲しい哉・・誰も歴史的な認証を加筆した人がいないのです。

村上吉高( 喜兵衛義高)。
百島村上、茶臼山の初代領主。因島村上家庶流であり、村上吉房の子であるとのこと。
その後、永正年間、因島村上一門の村上範和と結び幸崎城を攻撃するも敗退、逆に因島村上家の攻撃を受け戦死。

村上吉卿(むらかみ よしあき)
百島村上水軍の海将。村上吉房の子。永正年間、本家(因島村上家)と抗争になり茶臼山城を攻められる。
この時、兄・吉高を失うも、島内に残り抵抗を続け、和議を結ぶ事に成功。
兄の子・高吉を呼び寄せ、百島村上家の再興を果たす。
以後、高吉の補佐を行い、各地の海戦で活躍した。

村上高吉(喜兵衛高吉 1533~1597)
居城 :備後国百島茶臼山城
因島村上水軍の海将。百島村上家二代目。吉高の子。
永正年間、本家と抗争になり、茶臼山城を落とされ、島外に逃れ一命を取り留めた。
後、叔父の吉卿に呼び戻され、因島水軍の海将として活躍し、厳島合戦・木津河口海戦において奮戦した。
1579年 - 村上喜兵衛高吉 百島萬松山西林寺(曹洞宗)を建立。
1592年 - 村上喜兵衛高吉 小早川隆景の命を受け朝鮮に出兵。毛利氏より感状を貰う。

因島村上傘下の田島村上家に残る古文書によると「村上又左衛門就常の曾孫・又七朗が、祖父から譲り受けた由緒ある木仏と石仏の二体を百島の西林寺へ寄進した」とあります。

村上水軍一門の多くは、真言宗徒であり、百島西林寺は、別格だったのかもしれません。

さて、子供の頃に聞いた茶臼山で切腹した大将(村上吉高)は、因島村上ではなく、伊予の河野水軍に攻められたという記憶があるのです。

その時、何故・・近隣の村上水軍が助けに来なかったのか?という素朴な疑問がありました。

吉高の父は、村上吉房・・因島村上ではなく、来島村上の当主では?

本能寺の変・・織田信長が暗殺される頃の瀬戸内海では、既に村上水軍一門も敵・味方と散り散りにバラバラでした。

豊臣の時代になった頃には、海賊停止令発布。

その後の村上水軍一門の流れは、いつか、また書くとして・・。

百島には、昔から豊後(大分県)から、わりと多くお嫁さんが嫁いで来ているのです。

何故か、分かりますか?

江戸時代、来島村上・・吉房を起源とする子孫一族は、豊後国の森へ転封。当主は、久留島氏と改め、以後代々、森藩主。
明治維新後は子爵となります。

付け加えるならば、村上吉房の子、村上吉高、そして高吉親子は、かなり赤松一門の影響を受けたような気もします。

西林寺建立もしかり。

独断個人的推測の百島村上一門秘史の一部です。

また、黙々と興味が湧き上がった時に、この続きを書きます。