百島百話 メルヘンと禅 百会倶楽部 百々物語

100% pure モノクロの故郷に、百彩の花が咲いて、朝に夕に、日に月に、涼やかな雨風が吹いて、彩り豊かな光景が甦る。

百手(ももて)祭

2011年11月24日 | 百伝。
ウララの春日和は、澄み切ったような青空が広がり、遠くまで手に取るように眺めることができた。

・・書き残して置きたいことがある。

百手祭・・四国から九州にかけて伝わる御弓神事である。

丹後半島からは、越前海岸がはっきりと見えた。

その丹後半島の兵庫県と京都府の国境に朝来、夜久野という地域が隣り合わせにある。

丹後半島には、元伊勢神宮内宮がある。

山陽路まで足を伸ばすと・・

兵庫県赤穂市には、福井と若狭野と言う地域名があった。

瀬戸内海まで足を伸ばすと、兵庫県赤穂、姫路の沖合いの播磨灘に、家島諸島が浮かんで見える。

この島の船乗りたちは、おそらく白旗観音を掲げているはずである。

再び、瀬戸内海を俯瞰すると・・

香川県観音寺の沖合いの燧灘には、「いりこの島」・・伊吹島が浮かんでいる。

この伊吹島には、百島の御弓神事とそっくり同じような祭り事が行われている。

延宝元(1673)年から延々と続いている伊吹島の百手祭である。

射手は、42、61歳の厄男・・昔の百島もそうであったはずである。

ただ、百島の御弓神事(嘉吉元年1441年)こそが、想い入れを込めて、百手祭の源流と考えたい。

さらに、驚くべきことがある。

この伊吹島の方言には、平安時代末期の京言葉が残っており、非常に珍しいという。

調査のために、言語学の金田一春彦先生親子も調査に訪れている。

百島の方言と同様に、この伊吹島は、先生や年上の目上の方に「お前」と呼んでいるらしい。

「お前」を尊称言葉として残しているのは、百島と伊吹島だけであろうか?

その昔、百島からも伊吹島に出向いてイリコ漁に従事したという話を聞いたことはある。

江戸時代・・伊吹島は、天領であった。

うどんの出汁は、いりこである。

伊吹島が、もう少し備後の近くの位置にあれば、香川県は、うどん県に改名できなかった。

広島県が、うどん県となり、讃岐うどんは、存在していないのかもしれない。

もうひとつ・・

伊吹島は、自分(私)のことを、「うら」と言うらしい。

「うらら」となると「私達」となる。

この語源は、不明だと言っているが・・実は、越前の福井でも同じ言い方が残っている。

偶然か必然か・・調べてみると面白いと思うが、あまり意味がないのかもしれない。

讃岐うどんと越前そば・・小生の好物である。

ただ、何となく、書き残しておきたいウララの物語である。

二巻の始まり

2011年11月23日 | 百伝。
雪も間近かい時季になりました。

午前中、病院へ介護と見舞いに行きました。

祭日なので、救急患者センターは、次々と来る患者さんでいっぱいでした。

日本各地の大きな病院は、どこも、いつも賑やかです。

それだけ、日本には、老人が増えているのでしょう。

さて、雪国の北陸地方では、冬支度の用意をしなければなりません。

車のタイヤも冬用のスタッドレスタイヤに交換する時期です。

午後から、息子にタイヤ交換を頼みました。

受験生の息子ですが・・来年春には、どうするんだろう?

小生が、息子の歳の頃は、「東京で暮らして、いろんな人間と出会ってみたい」という夢がありました。

母は、よく言いましたが、父は、一度も「勉強しろ」と言いませんでした。

小生も息子には「勉強しろ」とは言いませんが、「どこか県外へ行ってみたくないのか?」とは訊きます。

息子は、その意味を茶化したのか、タイヤを交換しながら・・

「来年、車とバイクの免許取って、百島までツーリングしたい」と言っていました。

「一巻の終わり」という考え方よりも、「二巻の始まり」という生き方を選択して欲しいものです。

今日は、勤労感謝の日。

紙一重

2011年11月23日 | 百伝。
冬の晴れた青空の日、百島から愛媛県の四国中央市のコンビナートの工場群を見ることができます。

四国は、製紙業が盛んな土地柄です。

あの場所が、エリエールの大王製紙の本拠地であり創業地です。

その大王製紙の前会長(47歳)が、特別背任容疑で逮捕されました。

カジノでのギャンブルに、百億円以上をつぎ込んだとのこと。

・・本望ではないでしょうか?

製紙業界には、個人的な興味もあり、ビジネスアイデアを提案させて頂くこともあります。

ある意味で、ビジネスもギャンブルです。

初めて観たギャンブルは、幼い頃に父が乗っている貨物船のなかで、サイコロを振っている博打の賭け事でした。

父の膝に座らされて、代わりにサイコロを振らされた思い出があります。

船乗りたちの暇潰しの余興だったのでしょう。

幼な心に、とても退屈であったという記憶が残っています。

父は、真面目な性格を持ち合わせながらも、ボートレースにも興味があったようです。

小生、ボートや競輪、パチンコには、全く興味はありませんが・・DNA遺伝かもしれません。

小生も、一時、あるギャンブルにのめり込んだ時期があります。

果ては、アメリカのラスベガスまで飛んで行きました。

世界でもっとも明るい夜の街と呼ばれるラスベガスのホテル代は安く、部屋は大きく・・カジノで金を落す仕組みになっています。

ディズニーランドやディズニーシーにも似た、楽しく過ごせるパーフォマンス溢れる砂漠の中のリゾート地です。

人間には、ストレスがあります。

ギャンブルにのめり込む原因は、ストレスからの逃避かもしれません。

一攫千金を狙うのがギャンブルならば、夢の宝くじを買い求めるような一か八かの博打事業です。

しかし、ギャンブルによる失敗、倒産、破産まで想定した道程を、夢とは言いません・・悪夢でしょう。

悪夢となる要因は、ストレスです。

ストレスは、身の周りにいっぱいです。

病気に対する不安・・ストレスです。

家庭や仕事での問題・・ストレスです。

医療に対する不信・・ストレスです。

払拭方法は、ストレスに対して不安、不信、問題を逆提起すれば、リラックスとなります。

今、クリネックスのティシュペッパーで、清く、正しく、美しく、濡れた手をふいたり、鼻を噛んでいます。

紙幣も鼻紙も・・紙には感情がありませんが、リラックスを与えてくれます。

ネピアの王子製紙を追い抜けと言わんばかりの企業名が、エリーエールの大王製紙です。

正気と狂気、夢と悪夢、大王か王子か・・紙一重です。

紙一重から、天才か馬鹿かの・・神人へ。

百億円が、どこかで役に立つようにばら撒かれていたならば、紙一重の善き仕業になります。

ブータン 

2011年11月21日 | 千伝。
以前、「人類みな兄弟」と言ったコマーシャルがありました。

短い人生を・・モリエールの「人間嫌い」で生きると如何にも不幸です。

どっち道失われるものだったら、疑って人間を見るより、信用して人間に接した方が、幸福になるのかも知れません。

もし、この世に「幸福」という商品があったら、一体いくらの値段が付くのでしょう。

もし、「幸福」という商品があるとすれば、それは、きっと愛情のこもった商品に違いありません。

「愛情」のこもった商品を作る人は、幸福な人となります。

愛情は、波紋のように伝播します。

あったかい目を養えば、世界観は大きく変わるはずです。

ブータンの国王御夫妻の来日に、想いを馳せました。

朝陽夕陽にお陰さま

2011年11月20日 | 百伝。
♪海は 広いなあ 大きいな  
♪月が のぼるし 日がしずむ

朝陽夕陽に、まさかの時。

「もし、自分が倒れても、すぐに救急車を呼ぶな。放っておけばいい」と家族には伝えています。

中途半端に生き残って、残りの人生を寝たきりの人生は、嫌かな・・と考えるからです。

できれば、ピンコロリと旅立ちたいものです。

♪海は おおなみ 青いなみ
♪ゆれて どこまで つづくやら

ところが、そう思いつつも、身内が倒れてしまった時には、到底そんな事はできません。

大慌てで救急車を呼びました。

お陰さまで、脳内出血で倒れた身内の命は、救えました。

そして、これから長い介護生活が始まります。

♪海に おふねを うかばせて 
♪行ってみたいな よそのくに

今週は、百島に帰省するつもりでしたが、しばらく延期になりそうです。

故郷の百島が、近くになったり、遠くなったりします。

大好きな百島から、よその国に行ってよかったのか、どうか・・

♪海に おふねを うかばせて 
♪戻ってみたいな ふるさとへ

何れにせよ、有難いことです。

今、出来る事を精一杯出来る「豊かさ」に感謝です。

この世へのお陰さまです。

文明と寿命

2011年11月15日 | 千伝。
秋の日は、釣瓶落し。

文明が進むと、人間の寿命(時間)が伸びる。

ところが、人間の体感時間は、スピードが速され忙しく感じられる。

現在人は、百年前の人間よりかなり忙しいはずである。

人間が、年令を重ねるに従って、時間の経つのを速く感じるように。

ところが、見た目には、赤ちゃんの時と老人は、ゆったり時間を過ごしているように見える。

見た目とは逆に、赤ちゃんの頃は、記憶にないほどに速く、老人もあっというまに一日が終ると言う。

人生の、夜明けと黄昏は、如何にも似ていて、そして短い。

時間を短く感じる時は、竜宮城にいる状態で、生産性のない消費の時期は短く、その逆で、体を使って、何かを生産して、時間を刻む時には長い。

文明とは、言葉を変えれば、便利であり、横着であり、人間を、竜宮城という楽園に運ぶ乗り物である。

だから、ほっとけばドンドン加速するし、人生五十年だったものが、人生八十年になった。

そして、人生百年となる。

やがて、文明と人間の寿命は、時間をかけて、人生二百年、三百年と積み重ねる筈である。

子供は、風の子。

今日は、七五三。

走れ

2011年11月14日 | 千伝。
昨日の日曜日・・福井市街地でスーパーレディス駅伝が行われました。



実業団、学生、県選抜と多彩な47チームが競い合うレースでした。

優勝チームは、佛教大学。

全日本女子大学駅伝の優勝校 立命館大学を下しての初優勝です。

アンカーの吉本ひかり選手、ロンドン五輪1万メートルの代表候補です。



1位 佛教大学、2位 立命館、3位 名城大学・・。

実業団チームは、精彩が欠けていました。

ここ数年、不景気なのか・・有望な新人は、大学に進学するようです。

福井県選抜チームは、ベテランの大南博美選手も参加して、上出来の第7位でした。

広島から参加した実業団チームのエディオン(旧社名デオデオ、前身は第一産業)を応援していたのですが、残念ながらの第10位でした。

エディオンのアンカー田中貴子選手(旧姓 小鳥田さん)の力走です。



招待された福島県選抜チームもがんばりました。

走りたいなぁ・・と思いながら、ドクターストップをかけられている我が身です。

ほんとうに、まったく無駄な贅肉のないランナーたちでした。

いつでも、どこでも、走れる人は、凄いです。

気持ちだけでも、走らなければと思った一日でした。感謝。

百年先へ。

2011年11月14日 | 百伝。

人生五十年から、はじめて人生百年と表記したのは、良寛さんではないのかなぁ、と思い巡らしてします。

百島では、猪(いのしし)の対策が急がれているとか・・牛を飼えるといいな。

もうひとつ、百島小学校の児童による「百島診療所」の劇が上演されたとか・・継続が大事かな。

いつか、「百島診療所」の物語が、書籍化されて、ドラマか映画にでもなると好いですね。

さらに、百島が、百年先のメジャーな存在になるには、「悟り」やら「癒し」という本物と触れ合えるような幸せ気分が必要かな。


旗手のおじさんへ。

個人的に想う日本一幸福な島「百島」から、日本一幸福な県「福井県」に暮らしていると、いろんな島が心の海に浮かんでいます。

人生の目的が、金ならば「金の島」へ行けばいいし、健康が目的ならば「健康の島」ですね。

最終の目的地(港)まで、いろんな島々を渡りながら、舟を漕ぎ出さねば・・。

旗手のおじさんの安全航海の指針は、非常に興味深いものがあります。

昔、「灯台のような人が憧れ」という方がいましたが・・今、よく解ります。

ストレスとリスクを取り除く方法が、「癒しの島」や「悟りの島」にあれば、そこに行けばいいと思うのです。

ただ、そこに辿り着くための「灯台のような人」こそ、「旗手のおじさん」ではないかと考えるのです。

来年春、旗手のおじさんの書籍出版を楽しみにしています。

「百島は、とても小さい島」ですが、人格者を輩出しています。

学ばねばと・・自分の生きた証のためにも力強く思います。

故郷の百島に、それも近くに・・旗手のおじさんのような先輩がいたことを誇りに思います。

百島から出でる二世や三世、四世、五世と続く「百島の大きな誇り」として・・百年先へ。


11.11.11。

2011年11月11日 | 百伝。
11号線の珈琲を飲みながら、凄いなぁ・・満月の今日は!

今日は、同じ数字が6つ並ぶ珍しい一日。

・・百年に一度のこと。

それにしても、今日11月11日は、いろんな記念日でもあります。

煙突の日。

きりたんぽの日。

磁気の日。

おりがみの日。

ジュエリーデー。

ポッキー&プリッツの日。

チーズの日。

サッカーの日。

ピーナッツの日。

靴下の日。

鮭の日。

西陣の日。

電池の日。

配線器具の日。

もやしの日。

めんの日。

ハッピーバイナリデー:11月11日と1が4つ連続し、日付がバイナリ(二進数)値となる日の中で最大の値を示す日。

Happy Binary Day!

そして、今日は世界平和記念日(第一次世界大戦の終戦記念日)。

さらに、3年前から介護の日。

今日は、自分を介護した日でした。

焚き火と餅つき

2011年11月06日 | 百伝。
街には、クリスマスツリーが飾られ、年末年始の勤務表日程の準備も進めなければならない時季になった。

ずいぶん前に、俳優の渡哲也さんは、「趣味は、焚き火です」と答えておられた。

とても、共感した。

二十歳前後の冬休み、東京から百島に帰省すると、泊の浜辺で焚き火をすることが楽しみだった。

人間は、明るい方へと吸い込まれて行く。

太陽に向かう、ひまわりのように。

結局、仕事のために人間があったり、人間のために仕事をつくったり。

要するに、退屈しない愉快な日々が過ごせれば最高ということで、社会があるのではないかと思う。

祭りのように、普く人間が集まるにはどうしたらよいか考えることが、仕事だと思う。

餅つきもなくなったが、振り返って考えると・・あんなに面白いものはないかも知れない。

「パチパチ パチ」と焚き火の音、「ぺったん、ぺったん」と餅つきの音が懐かしい。

イングランド

2011年11月05日 | 千伝。
今宵、イングランド各地で、冬の花火が打ち上げられる。

ロマンチックな夜でもある。

毎年、11月5日は、ガイ・フォークス・デイと呼ばれる。

1605年11月5日未明、ロンドンで国王と議員の爆殺未遂(国会議事堂爆破未遂)事件が発覚して、カソリック教徒ガイ・フォークスとそのグループが逮捕された。

それをお祝いをする花火なのであるが・・歴史の顛末を要約すると現代に到るまでの複雑さがある。

ガイ・フォークスは、イングランドでは、テロリストであり国賊であるが、北アイルランド、スコットランドでは、ある意味、英雄視されている側面がある。

この宗教対立(カソリックとイングランド国教会)は、2005年に武装終結に到るまでの北アイルランドのIRAによる英国からの独立闘争(テロ・爆破事件)を思い起こすほど連綿と繋がっているのである。

今回のタイトルは、あえて英国ではなく、イングランドと記している。



英国(イギリス)の正式名は、UK( United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland)という。

UKは、イングランドとスコットランドとウェールズと北アイルランドから構成されており、GB(グレートブリテン)となると、イングランドとスコットランドとウェールズから成り立つのである。

だから、単に英国(イギリス)という一括りでは、英国の歴史の意味合いの理解説明ができなくなるのである。

さて、明日は、11月6日は、11月の第一日曜日・・。

小生、ロンドンで約1年間、ブライトンで約2年間ほど暮していた。

明日は、ロンドンからブライトンまでの約60マイル(約80KM)の距離を1905年以前に登録されたクラシックカーのレースが行われる。

正式名は、London to Brighton Veteran Car Run・・1896年から行われる世界で最も歴史のあるベテランカーのランなのである。

自転車サイクリングよりも、スピードの遅いランレースなのである。



さて、ブライトンでは、カルチャーショックを受けるぐらい、いろんな思い出が残っている。

当時の日本は、まだまだ染めた髪や耳に複数のピアスを付けた人は殆ど皆無だった。

そして、日本のビールが、キリン、サッポロ、アサヒという銘柄で選ぶしかない時代であった。

ビールに、ラガーやビター等々、何十種類もあるのを知ったのは、イングランド生活のパブで知ったことだった。

ブライトンは、海に面した高級リゾートの保養地としても富裕層も多いが、ヨーロッパ中から若者が集まる治安の悪い面もあった。

おまけに、同性愛者が多い街でもあった。

はじめて、ブライトンに到着した日、真昼の日中の路上では、男同志が堂々と切ないぐらいキスを交わしながら抱き合っていた。

海辺に行けば、世界初の海水浴場として有名なビーチでは、オールヌーディストの老若男女の裸体が寝転がっていた。

鶏冠のような真っ赤な髪型に顔中にピアスを付けた・・ギョとするようないでたちの若者が闊歩していた。

それでも、ブライトンは、リッチで、優雅で、おしゃれな街だった。

ブライトンには、夏季の1~2ケ月間だけの滞在予定で、その後、ケンブリッジに移動する予定だったが、そのままブライトンに居ついてしまった。



人生の大きな曲がり角だった。

写真は、クラシックカーが、次々にブライトンに到着した後の光景である。



このレースランに、参加できる連中は、とんでもない財力の持ち主ではないかと思う。



思い出すのに・・フロックコート姿の日本人の方が参加しており、「お疲れ様でした。優雅な生活ですね」と声をかけたことがある。

その御仁「アハハ・・ありがとう。君は、ここで何をしているんだ?」

「ブライトンで遊んで暮しています」と答えると、「君こそ優雅な生活ではないか・・アハハ」と上機嫌に笑った。

会話が長くなりそうになったが、夕方に約束事があったので、その場を去った。

今思うと、あの御仁は、ホンダの本田宗一郎さんではなかったのではないかと考えるのである。

若い頃に、野蛮気質と紳士気質が同居するイングランドに暮らして、本当によかったという想いがある。

それは、人を卑しくする「妬みや羨望」という意識が薄まって、マイペースで自分なりに生きてゆける自信を備えたことである。

あの頃は、日本に戻る気持ちなど毛頭無かったが・・

今になれば、自分の命が、あと一年、あるいは一ヶ月ならば、残り僅かの人生をどのように過ごすのか?・・と考えるこの頃なのである。

ラ・マンチャの男

2011年11月03日 | 百伝。
その男の名は、ドン・キホーテ。

愛馬のロシナンテと従者サンチョ・パンサを引き連れて「見果てぬ夢」の遍歴の旅にでる。

作者は、スペイン人のミゲル・デ・セルバンテス。

聖書に次ぐロングセラーとして、いまも世界中で翻訳されて愛し続けられている。

世界一の愛読書としての誉れ高い物語「ドン・キホーテ」の著者セルバンテスの生涯は、ラ・マンチャの男 ドン・キホーテと同じぐらい波乱に満ちている。

同時代に英国では、シェイクスピアがいた。

シェイクスピアもセルバンテスも正規の高等教育を受けていない。

この二人の偉大な作家は、1616年の同年に亡くなっている。

因みに、日本では、徳川家康が同年没。

ドン・キホーテの物語は、世の中の悪の不正をただすために正義かつ狂気の初老騎士が旅に出るあらすじである。

風車を敵の巨人と思い込み、突き進みすすむが、吹き飛ばされてしまう。

風車は、オランダの象徴である。

・・スペイン人セルバンテスの隠喩が利いている。

さらに可笑しいのは、セルバンテスは、「ドンキホーテ」を書いたのは、聞き伝えを記録しているのだと言う。

セルバンテスは、捕虜になったり、何度か牢獄に入っている。

そこで「ドン・キホーテ」の構想を練ったともいう。

スペインが最盛期だったレパントの海戦(1571年)でトルコに勝利した。

その時、セルバンテスは、従軍兵として左腕を失っている。

ただ、当時の中世ヨーロッパの文化というのは、イスラム教圏世界の文化よりも見劣りしていたのは事実なのである。

セルバンテスは、「ドン・キホーテ」をイスラム教徒が書いたものを翻訳した記録を伝えているとほのめかしている。

彼は、当時、世界の海を制していたスペインの栄光と挫折を経験しているのである。

スペイン無敵艦隊の食糧調達係をしていた。

英国侵攻を進めたスペイン無敵艦隊だったが、1588年7月、アルマダ海戦で英国に破れた。

英国人ならば、誰もが知る歴史的な勝利したアルマダ海戦である。

スペインは、この敗戦で、世界の覇権を英国に譲ることになる。

さらに、アルマダの海戦以後、ネーデルランド(オランダ)における独立運動が高まる。

スペインは、一挙に経済基盤を失うのである。

その後、英語圏がスペイン語圏よりも勢力を拡大するのは歴史の流れである。

スペインの凋落を知るスペイン人の「見果てぬ夢」なのである。

もう、ずいぶん昔になるが、スペインのラ・マンチャ地方に行ったことがある。

首都のマドリッドから列車に乗って、降り立った。

荒涼とした何もない風景だった。

ラ・マンチャの子供たちが、小生に歩み寄って「シーナ、シーナ」と呼びかける。

スペイン語でシーナは、中国の意味だが、東洋人を意味している。

安宿で一泊。

翌日、ドン・キホーテが立ち向かった風車のある場所にゆく。

誰もいなかった。



風車以外・・何もない。

トレドかバルセロナに向かうために、駅まで行った。

電車が来ない・・。

三時間ぐらい待たされた思い出がある。

百島での時間の流れとラ・マンチャでの時間の流れは、とても似ていたという感覚が残っている。

読書週間・・文化の日。

見果てぬ夢・・いい言葉(訳語)である。

父から息子たちへ

2011年11月01日 | 百伝。
今日から十一月(11.1)。

NHkの朝ドラマ「カーネション」は、面白い。

昭和初期、大阪岸和田を舞台にした和服の着物から洋服に変わる時代背景もそうだが、人物像がいい。

家庭内での喧嘩、罵り合い・・それでも「人生、やるきゃない」という構えがいい。

父から聞いたエピソードがある。

昭和初期、父が、百島から大阪の小学校へ入学した時、独り自分だけが着物姿で、皆、洋服姿だったとか!

数年後、大阪から百島に帰った時、今度は独りだけ洋服姿で、他全員が着物姿だったとか・・。

そんな逸話を持つ父も亡くなって、四年近くなる。

昭和40年(1965年)冬、三男である小生が九歳の誕生日の日・・新しい家に引っ越しをした。

今尚、現在に至る百島の実家となる我が家である。



当時としては、小さいながらも2階にバルコニーをつけたモダンな家であった。

ただ、屋根が日本瓦ではなく洋式瓦の茶色ぽっいオレンジ色が混じったものであった。

子ども心に違和感があったが、父が自ら設計してバルコニーを付けて、好みの屋根の色にしたのである。

父の意図的な好みを理解できたのは、ずっとあとになって、小生がヨーロッパで暮らした時だった。

オランダに行くと、「なるほど!」という想いが湧いた。

オレンジ色は、オランダのナショナルカラーである。

戦時中、父が居たジャワ島は、オランダの植民地だった。

道路はどこまでも舗装されていてオレンジ色屋根のバルコニー付きの家がたくさんあったという。

父は、ジャワ島で暮らしたオランダ風の「家」に憧れていたんだと・・。

父は、船乗りだった。

だが、自伝ノートには、航海中の回顧よりも接岸時の荷役作業の回顧の方に重きを置いている。

船倉内の荷役作業が辛いのではなく、その作業の段取り、内容を楽しく重視している傾向があった。

どういう風に表現していいのか・・昔の貨物船の船倉のハッチは、二人一組の人力でかなりの枚数の長板をはめてゆくのである。

船倉の底に落ちると危ないのだが、見る側としてはテキパキとする作業も頼もしく映り、実際、個人的には楽しい作業であったという思い出がある。

船乗りの利点として、日本各地で石やら植木を買い求めては、庭作りに精を出していた。

船乗りという日常から脱出して、自らの世界を楽しんでいたのであろう。

時には、鳩小屋も犬小屋も作っていたかな。

自分で設計して、材料のセメント、レンガ、タイルも自分で選んで買ってきた。

自ら、大工になったり、左官になったりする父親だった。

自分で掘り進めて、池も作り、鯉も飼っていたりする。

初孫ができた時には、池の半分を孫の赤ちゃん用プールに黙々と作り変えた時には、さすがに驚いた。

当時、赤ちゃん用プールに入って、男ばかり親子で酒を飲んだ思い出がある。



すべて、人任せが嫌だった父親だったのかもしれない。

その初孫も結婚して、息子を持つ親になった。

時は、流れてゆくのみである。

「人生、やるきゃない!」