金沢の方は、車を使って東京へ行く場合、どのルートを走るんだろうか?
最近、高速道路があちこちで延伸されているから、特に北陸地方に暮らす者にとっては、より良いルート探しは昔からの大きな課題なのです。
江戸時代、加賀潘は、毎夏になると江戸の徳川将軍に「氷」を献上していました。
大八車に載せて、氷が溶けて消えるまでに江戸まで爆走したようです。
最短ルートは、おおよそ今の北陸新幹線沿いの約450キロ、夏場それを4日間程度で走り届けたとの事。
江戸時代、加賀と江戸の通常の街道は、約480キロ、12泊13日が一般的な道程だったようです。
明治時代の文豪で、金沢出身の泉鏡花、彼の代表作は、高野聖、夜叉が池等々。
若い頃、彼の作品を多く読んだものです。
泉鏡花は、異常なほどに潔癖症だったとかで、現代社会でも現代病でもなく、昔々、大昔から、そういう神経質な人間が存在して生きていた、つまり、そういう神経質な人間が人類の文明を発展進化させたのでは?という大きな気付きでした。
「夜叉が池」という戯曲、舞台は福井県と岐阜県の県境に位置しています。
福井に暮らし始めて、金沢出身の泉鏡花が、どう考えても夜叉が池には行った事は無いだろうし、何故、夜叉が池の地名を作品名にしたのか?・・長年の個人的な僕の疑問でした。
この疑問、地元の新聞コラムを読んで解決❗
明治20年代、泉鏡花は、東京と金沢を何度か往復しているのです。
蒸気機関車の鉄道は、東京から敦賀まで延伸、金沢にはまだ鉄道が延びて無かったのです。
当時、泉鏡花も含めて金沢の人々の東京への最短ルートは、金沢から敦賀まで歩いて❗、敦賀から蒸気機関車に乗って上京していたようです。
それでも、東京への行程は驚異的な短縮だったはずです。
蒸気機関車を怪物と呼び、豆腐の「腐」という文字を嫌い、豆府と意図的に書いたり、お化け、夜叉、怪奇怪談を好む泉鏡花。
彼のエピソードは枚挙にいとまがなく、とてもユニークです。
文明開花の明治時代、現在よりも高速スピード感覚が鋭い時代だったのかもしれません。
夜叉が池は、今庄から敦賀に抜ける道中に分岐道があります。
泉鏡花は、その界隈に残る伝承を聞いて、デフォルメして作品にしたのでしょう。
余談ですが、夏目漱石は、泉鏡花よりも6歳程年長ですが、小説家としては、泉鏡花の方がずっと先輩になります。
漱石はデビューした頃、泉鏡花を天才だと称しました。
夏目漱石の草枕の一説。
「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生れて、画えが出来る。人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。やはり向う三軒両隣にちらちらするただの人である。ただの人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう。」
泉鏡花は、激しく共感したのでしょう。
天才だと称された泉鏡花、面識の無い漱石に会いに行き借金をしています。
泉鏡花は、「夏目さん、金之助さん、大好きです。」と書き認めています。
個人的な閑題。
この頃、喉が痛くて咳込みが止まりません。
コロナの抗原検査、陰性でした。
さて、今年は明治155年、明治200年となる45年後には、間違いなく生きてはいません。
この世界は、どう変わっているのかな?
本質的には、変わらないのだろうなぁ。
休題。
泉鏡花も夏目漱石も、彼らの作品は、お化けのように再生するのだと思います。
因みに、泉鏡花の代表作「高野聖」のあらすじ。
若狭へ帰省する旅の車中で「私」は、一人の中年の旅僧に出会い、越前から永平寺を訪ねる途中に敦賀に一泊。その宿に同宿した旅僧から不思議な怪奇話を聞く。それはまだ旅僧(高野聖)が若い頃、行脚のため飛騨から信州松本に向かう天生峠での世にも不気味不可解な怪奇談~。
余談ですが、初めに話を戻すと、現在、金沢から東京まで、車で高速道路を使用せず、一般道のみを走るのならば、最短ルートは、岐阜県高山から長野県松本へ抜ける安房峠(現在は安房トンネル)経由の国道158号線となります。
安房トンネル経由は、金沢だけではなく、福井、富山からも東京へ抜ける最短一般道路のルートとなります。
百年昔、泉鏡花は、高野聖の作品内で意図的に安房峠を天生峠に変えています。
相当、故郷金沢と東京の位置関係、最短ルートを日本地図で俯瞰して、過去から未来を予測していたのかもしれません。
天生峠の怪しい魔境世界から、人間として生還した高野聖。
永遠に考えさせられる人間テーマです。