キャプテン 漆原さんへ
はじめに、加島に庭園があったというのは、歴史的事実です。
豪商以前、もともとは、小早川家一族だったかな?・・確かに、尾道市の何かの文献にも間違いなく残っています。
それと、百済と加羅(任那)・・百島と加島との関連性ですが・・生前の父が、同じような話をしていたのを思い出します。
僕の個人的な見解です。
面白いのは、大阪市西淀川区に百島(ひゃくしま)、加島、歌島、佃島・・という地名があるのです。
歌島は、尾道向島(むかいしま)の旧名なのです。
東京の向島(むこうじま)、佃島は、大阪の西淀川区の歌島、佃島の民が、江戸時代になって移り住んだのです。
はじめ、瀬戸内海の備後の民が、大坂の地に移り住んで、その地名を残したのではと考えたのですが、歴史的なスパンで考えると、逆に摂津大坂から備後や木曽、尾州に移り住んだと考えた方が、正しいのでは?・・というのが個人的な見解です。
そこで、考えられるのは、大坂の地での百島と加島の地名の由来ですが・・百済と加羅(任那)との関連性はあるのかどうか・・大和の時代に、大陸に向けた日本の玄関口が、大坂の湊の地だったのかもしれません。
随分昔、大阪の西淀川区にさまざまな質問をぶつけたことがありましたが、残念乍ら、答えが無かったです。
長野県木曽にも百島という地名があり、その裏手に向山があって、木曽という苗字は、尾道向島に残っています。
それから、愛知県津島市にも百島という地名があって、ここには、津島神社(津島牛頭天王社・ごずてんのうしゃ)があり、織田信長、豊臣秀吉にも庇護を受けた格式高い神社です。
御祭神は、天照大神の弟・・あのスサノ王です。
備後国風土記(きびのみちのしりのくにのふどき)曰はく、疫隅国社(ひのくまのくにやしろ)、昔北の海に坐しし武塔神(むたふのかみ)、南の海の女子(むすめ)をよばひに出で坐ししに、日暮れたり、彼所(かしこ)に蘇民将来(そみんしょうらい)・巨丹将来(こたむしょうらい)といふ二人住みき、兄の蘇民将来は、甚(いと)貧窮(まづ)といしく、弟の巨丹将来は、富饒(にぎは)ひて、屋倉(いへくら)一百(ももち)在りき、爰(ここ)に武塔神、宿処(やどり)を借り給ふに、惜みて借しまつらず、兄の蘇民将来は借し奉る。即ち粟柄(あわがら)を以て座(みまし)とし、粟飯等を以て饗(みあへ)奉(たてまつ)る。既に畢(を)へて出で坐しき。後(のち)年経(としへ)て、八柱の子(みこ)を率(ゐ)て還り来て、詔(の)りたまはく、我(あれ)、将来の為に報答(むくい)せむ、汝(な)が子孫(うみのこ)、其の家に在りやと問はし給いければ、蘇民将来答へ申さく、己(おのれ)女子(むすめ)と斯の婦(め)と侍(さもら)ふと申す。即ち詔り給はく、茅(ち)の輪を以(も)て腰の上に著(つ)けしめよと詔り給ふ隨(まにま)に、著けしめき、即夜(そのよ)に、蘇民と女子(をみな)二人とを置きて、皆悉(ことごと)に許呂志保呂保志(ころしほろぼし)てき、即時に詔りたまはく、吾は速須佐能雄能神(はやすなのをのかみ)なり、後世に疫気(えやみ)あらば、汝蘇民将来の子孫と云ひて、茅の輪を以て腰の上に著けよ、詔の隨に著けしめば、即ち家なる人は免(まぬか)れなむと詔り給ひき。・・備後国風土記。
これは、モーゼのエジプト脱出記と似ているような逸話伝説です。
スサノ王は、桃源郷を探していた途中に、桃島で蘇民将来と出会ったのです。
だから、僕は、蘇民将来が生まれ育った舞台を備後の国桃島(現百島)を「茅の輪くぐり」の原点も、「笑う門に福あり」の原点も、百島伝説に組み込んで誇示したいと考えているのです。
話が飛んでしまいました。
百済と加羅(任那)伝説よりも、桃源郷伝説がいいかなぁ・・ごめんなさいね。
八月最後の日の今日は満月・・。
月二度見る満月をブルームーンだと呼ぶそうです。
幸せになれますように。
はじめに、加島に庭園があったというのは、歴史的事実です。
豪商以前、もともとは、小早川家一族だったかな?・・確かに、尾道市の何かの文献にも間違いなく残っています。
それと、百済と加羅(任那)・・百島と加島との関連性ですが・・生前の父が、同じような話をしていたのを思い出します。
僕の個人的な見解です。
面白いのは、大阪市西淀川区に百島(ひゃくしま)、加島、歌島、佃島・・という地名があるのです。
歌島は、尾道向島(むかいしま)の旧名なのです。
東京の向島(むこうじま)、佃島は、大阪の西淀川区の歌島、佃島の民が、江戸時代になって移り住んだのです。
はじめ、瀬戸内海の備後の民が、大坂の地に移り住んで、その地名を残したのではと考えたのですが、歴史的なスパンで考えると、逆に摂津大坂から備後や木曽、尾州に移り住んだと考えた方が、正しいのでは?・・というのが個人的な見解です。
そこで、考えられるのは、大坂の地での百島と加島の地名の由来ですが・・百済と加羅(任那)との関連性はあるのかどうか・・大和の時代に、大陸に向けた日本の玄関口が、大坂の湊の地だったのかもしれません。
随分昔、大阪の西淀川区にさまざまな質問をぶつけたことがありましたが、残念乍ら、答えが無かったです。
長野県木曽にも百島という地名があり、その裏手に向山があって、木曽という苗字は、尾道向島に残っています。
それから、愛知県津島市にも百島という地名があって、ここには、津島神社(津島牛頭天王社・ごずてんのうしゃ)があり、織田信長、豊臣秀吉にも庇護を受けた格式高い神社です。
御祭神は、天照大神の弟・・あのスサノ王です。
備後国風土記(きびのみちのしりのくにのふどき)曰はく、疫隅国社(ひのくまのくにやしろ)、昔北の海に坐しし武塔神(むたふのかみ)、南の海の女子(むすめ)をよばひに出で坐ししに、日暮れたり、彼所(かしこ)に蘇民将来(そみんしょうらい)・巨丹将来(こたむしょうらい)といふ二人住みき、兄の蘇民将来は、甚(いと)貧窮(まづ)といしく、弟の巨丹将来は、富饒(にぎは)ひて、屋倉(いへくら)一百(ももち)在りき、爰(ここ)に武塔神、宿処(やどり)を借り給ふに、惜みて借しまつらず、兄の蘇民将来は借し奉る。即ち粟柄(あわがら)を以て座(みまし)とし、粟飯等を以て饗(みあへ)奉(たてまつ)る。既に畢(を)へて出で坐しき。後(のち)年経(としへ)て、八柱の子(みこ)を率(ゐ)て還り来て、詔(の)りたまはく、我(あれ)、将来の為に報答(むくい)せむ、汝(な)が子孫(うみのこ)、其の家に在りやと問はし給いければ、蘇民将来答へ申さく、己(おのれ)女子(むすめ)と斯の婦(め)と侍(さもら)ふと申す。即ち詔り給はく、茅(ち)の輪を以(も)て腰の上に著(つ)けしめよと詔り給ふ隨(まにま)に、著けしめき、即夜(そのよ)に、蘇民と女子(をみな)二人とを置きて、皆悉(ことごと)に許呂志保呂保志(ころしほろぼし)てき、即時に詔りたまはく、吾は速須佐能雄能神(はやすなのをのかみ)なり、後世に疫気(えやみ)あらば、汝蘇民将来の子孫と云ひて、茅の輪を以て腰の上に著けよ、詔の隨に著けしめば、即ち家なる人は免(まぬか)れなむと詔り給ひき。・・備後国風土記。
これは、モーゼのエジプト脱出記と似ているような逸話伝説です。
スサノ王は、桃源郷を探していた途中に、桃島で蘇民将来と出会ったのです。
だから、僕は、蘇民将来が生まれ育った舞台を備後の国桃島(現百島)を「茅の輪くぐり」の原点も、「笑う門に福あり」の原点も、百島伝説に組み込んで誇示したいと考えているのです。
話が飛んでしまいました。
百済と加羅(任那)伝説よりも、桃源郷伝説がいいかなぁ・・ごめんなさいね。
八月最後の日の今日は満月・・。
月二度見る満月をブルームーンだと呼ぶそうです。
幸せになれますように。