北の庄城址で、一礼。
そのまま、福井メトロ劇場まで。
この映画館・・とても、好いのです。
三日前、映画「わたしは、ダニエル・ブレイク」を鑑賞。
観終えての率直な感想・・英国の貧困問題を取り扱った社会派ドキュメンタリータッチのような映画で、まさしくケン・ローチ監督の流儀だと思いました。
ところが、最後のシーンでは、「えっ?これで終わり?」という中途半端な失速感。
ぼくは、主人公と同年代、同じく心臓病を患いながらも障碍者認定の支給を受けていません。
でも、ぼくは、ダニエル・ブレイクのような考え方、生き方は到底出来ません。
この映画「わたしは、ダニエル・ブレイク」、ほんとうに最高傑作なのかな?
・・ほんとうに、カンヌ国際映画祭パルムドーム(最高賞)受賞作なのかな?
あれだけ楽しみにしていた映画なのに・・訝しながら、映画館を去りました。
一日過ぎて、二日過ぎて、昨日「とろろ蕎麦」を食べていると、ふと、「わたしは、ダニエル・ブレイク」の話題になりました。
映画「わたしは、ダニエル・ブレイク」は、人間の尊厳を、社会格差、貧困世界と相対峙したものとして描いていました。
しかし、貧困に喘ぐとは、人間の尊厳を失うということなのでは?
貧困から抜け出すのには、金を稼ぐ、働かなければなりません。
ただ、心臓を患って、仕事を止められているダニエル・ブレイクには、公共福祉からの支援援助が必要です。
しかし、英国の社会保障制度の複雑なシステムによって、実直で生真面目なダニエル・ブレイクは、支援援助を受けられず、だんだんと現実の厳しさに追い詰められていきます。
それでも、知り合った貧困な母子家庭を助けようとします。
・・貧困だから万引きする、貧困だから売春を行う。
独り者のダニエル・グレイクは、「どうあろうとも、それでも、人間の尊厳を失ってはならない」と諭します。
昔、昔観たイタリア映画「自転車泥棒」という名作があります。
自転車を盗み捕まり殴られた父親、それを見ていた幼い子。
その貧しく哀れな父子の姿に、涙した憶えがあります。
貧困問題は、自己責任ではなく、社会問題なのでは?
即ち、社会、国家、政治の責任なのでは?
国の支援は、誰のためにあるのか?
一部世界のグローバルではなく、世界中のローカルの問題なのでは?
ところで、介護の世界には、認知症ケア「ユマニチュード」という手法が最近導入されています。
ユマニチュードとは?
フランス生まれの新しい認知症ケアの手法。
うつ状態や暴力的になったりする人も、穏やかになる。
「魔法のような手法」と紹介されることも多いが、中身は魔法ではない。
具体的な技術で、誰にでも習得できる介護の方法。
基本は「見る」「話しかける」「触れる」「立つ」の4つの手法を組み合わせる。
認知症の人は「病人」ではなく、徘徊する「犬」でも「猫」でもない。
あくまで「人間」として接すること。
僕なりの実感ですが、決して上から目線ではなく、一歩も二歩も引いての立場で接しなければなりません。
この「ユマニチュード手法」は、福祉・介護の世界よりも、世界中の政治家に必要なのかもしれません。
低予算で制作された「わたしは、ダニエル・ブレイク」・・時間が経つほどに思い出してしまう魔法のような手法映画です。
だからこそ、カンヌ国際映画祭パルムドームを受賞したのかもしれません。