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布施辰治『鮮人騒ぎの調査』:関東大震災朝鮮人虐殺100年に再読その➁

2023-09-02 10:48:55 | 関東大震災

 関東大震災時の朝鮮人虐殺事件は、第一次世界大戦後、日本独占資本主義の確立を社会的基盤にして形成された、「神聖天皇主権大日本帝国の労働者階級を中心とする日本人民の諸階級・諸階層と、朝鮮人労働者階級を中核とする朝鮮人民との反日本帝国主義の連帯の芽生えを、つみとろうとして神聖天皇主権大日本帝国政府によって強行されたものである」とされている。

布施辰治在日朝鮮人調査会(慰問会)の発起人、顧問として活躍し、1924年9月に『鮮人騒ぎの調査』(日本弁護士協会録事)を遺している。以下はその➀のつづきである。

第三は、鮮人殺害下手人の種類であるが、官憲当局の発表によると、その殺害下手人は悉く自警団員であって、当局官憲のものには何ら関係がない事になって居る。けれども現在鮮人殺害事件の被告人は、自警団員が自ら進んで鮮人の殺害を企てたというわけのものではなくて、すべてが警察官憲の教唆か、使嗾か、指揮かに基づいたものであるといって居る。私の友人で在郷軍人分会長をして居る弁護士さえも、幸い鮮人に出会わなかったから殺さずに済んだが、二日の晩に一人の警察官が、今朝鮮人が来るから各自武器を持って警戒せよというて来たので、自分らは警察官のいう通りに日本刀を提げて戸外へ出た、そこへ又一人の警察官が来て、鮮人が来たならばヤッツケてもカマワないというて来たので、鮮人が来たら暴行の有無如何にかかわらず、これを斬るつもりだったといって居た。又現に警察官や軍隊のある者が手を下して斬り殺したり、銃殺したりした鮮人の殺害が少なくないというて来る者がある。しかるに鮮人の殺害が全部自警団の所為であって、いやしくも官憲に在職するものは、全然これに関係しないという当局の発表は、あまりにひどい白々しさであった。

第四に問題になるのは只単に殺害されたという言葉だけでは、いわゆる鮮人殺害の真相が尽くされていない殺害にも方法があり種類がある、誤って射殺された殺害も殺害なれば故意に惨酷にナブリ殺しに殺した殺害も又殺害である。従って同じ殺害という言葉に表れたる殺害でも、その殺害の手段方法如何によって、いわゆる殺害事件の批判が自ら異ならざるを得ない。ところでいわゆる鮮人の殺害方法は果してどうだったか、鮮人と誤認されたものの殺害でさえも惨酷を極めたものである事は、埼玉、群馬、千葉の法廷に展開せられた通りである。さらに真の鮮人の殺害された状態は、私の筆にするも忍びない。鳶口、針金、拳銃、竹槍、日本刀などの武器が、どう使われたかは、今なお身震いして現状の目撃者の語るところである。

さらに、殺害された後屍体焼却に至っては、当局官憲の認るところでありながら、この事実を正直に発表しないのははなはだ卑怯である。

最期の問題は、殺害下手人の責任に関する捜査、検挙、処罰の実情であるが、私どもは是非の批判よりもまず厳粛なる事実の前にヒレ伏す敬虔な誠意を以て鮮人殺害問題の真相捜査にも検挙処罰の前後策にも臨まなければならない。左様して敬虔な誠意があってこそ、禍を福に転ずる事もできるのである。しかるに官憲当局のこの点に関する態度も発表も、殆どなって居ない。私どもは人の過ちはその人が自らその過去を改むる事によりてこれを許したい。又、人の悪事はその悔い改めに任せたい。従って鮮人殺害の真相がどんなにひどくともそれが過ちであるならばその過ちを改めてこれを再びする事のないように、又それが故意の悪事であったら、真に心からの悔い改めによるその罪を償う事を以てその前後策としたい。(具体案は後日述べる)それにはどうしてもまず第一に事実の真相を調査確定する必要がある。これは私ども自由法曹団で着々鮮人殺害問題の真相調査を進めて居るところなのである。官憲当局はすべからく臭いものに蓋の事実隠蔽や発表の誤魔化しを計るような従来の態度を改めて、私どもの調査に便宜を計って貰いたい事を希望する。」

(2023年9月2日投稿)

 

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布施辰治『鮮人騒ぎの調査』:関東大震災朝鮮人虐殺100年に再読その➀

2023-09-02 01:12:54 | 関東大震災

 関東大震災時における朝鮮人虐殺事件は、第一次世界大戦後、日本独占資本主義の確立を社会的基盤にして形成された、「日本の労働者階級を中心とする日本人民の諸階級・諸階層と、朝鮮人労働者階級を中核とする朝鮮人民との反日本帝国主義の連帯の芽生えを、摘み取ろうとして神聖天皇主権大日本帝国政府によって強行されたものである」といわれている。

 布施辰治は在日朝鮮人調査会(慰問会)の発起人、顧問として活躍し、1924年9月に『鮮人騒ぎの調査』(日本弁護士協会録事)を遺しているが、以下に紹介しよう。

「昨秋の変災中における鮮人殺害問題は、激震劫火、海嘯の襲来に惨死した、自然の罹災者よりも、人為の兇刃に斃された襲撃であっただけに真に私の心を傷ましめた悲惨事件の一大悲惨事である。それ故、私どもの自由法曹団では、9月20日第1回変災善後策総会で、「変災中における鮮人殺害の真相及び其の責任に関する件」の調査を付議し、着々その調査を進めたのであるが、どうしたものか当局官憲では、私どもに調査の便宜を与えないばかりか、却ってこれを妨害して居るような感があるので、確定的事実の調査を発表する程度に至って居らない。従って、私は今ここにいわゆる鮮人殺害問題の真相を「こう」と定めて発表する事は出来ないが、当時官憲当局の発表したいわゆる鮮人殺害問題の顚末は、あまりに杜撰で又あまりに卑怯な発表ぶりである事は、これを断言し得る。故に私どもの調査方針として居る、

⑴殺害された鮮人の幾千、⑵殺害せられたる原因如何=すなわち単に鮮人なるが故に殺害せられたるや、又は、真に不穏危険の暴行ありたるが為に殺害せられたりや、⑶殺害下手人の種類如何=すなわち軍人か警官か自警団の民衆か、⑷殺害の方法如何=すなわち殺害の止むを得ざる事情に出でたる殺害方法ありしや、又は残忍苛虐の殺害方法なりしや、⑸殺害死体の顚末如何、⑹殺害下手人の責任に関する捜査検挙処罰の実情如何の各項につき、官憲当局の発表した「鮮人殺害問題に関する顚末」を批判して、当局官憲の反省一般の参考に供し且つ当時を連想しよう。

まず第一、官憲当局の発表にかかる殺人被殺害者の数300位というのは、余りにも寡少過ぎる。私は、震災当時いわゆる鮮人殺害の罹災区域なる、東京、神奈川、千葉、埼玉、群馬1府4県に在留した鮮人の数が幾千か、変災後それらの罹災区域から退去したものと今なおその区域に残存するものの数とを除いた数が⑴悉く殺害されたものか、⑵災死したしたか或は真に行方不明となって居るものか、の問題数に属するのであるが、私どもの調査したところでは、変災区域に在留した変災当時の鮮人数は少なくも2万は下らないらしい。而して変災後或は帰国し、あるいは在留して、その所在のわかって居るものが、多くて1万2、3千を出ないらしいから、少なくも6、7千の問題数が残る事になる数字を如何ともする事ができない。最もその中には、真の災死者も、真の行方不明者も相当あるに違いないが、すでに鮮人の殺害されたのを見聞したという罹災区域数十ヶ所にわたる「彼処で何人」「此処で何人」の計数を合わせて行くと、当局官憲発表の数が一桁上る事になりはしまいかと思う。

第二は、鮮人殺害の原因であるが、その原因はすべからく遠因近因とに別けて見なければならない。そしてその遠因を与えたものは改めていうまでもない、いわゆる鮮人暴動の流言蜚語を放った、鮮人以外の誰かでなければならない、故にいわゆる鮮人殺害問題の発表としては、そうした流言蜚語に誤られたものの軽率はともかく、この流言蜚語を放ったものを突き止める事が最も肝腎な当然の注意点でなければならない。しかるに官憲当局の発表が少しもこの点の調査を突き止めていないのは、余りに不徹底である。この点は鮮人殺害問題の重大を感じて居るもののすべてが調査研究せんとしている処でありながら、どうしたわけかこれに触れ得ない感があるからなおさら面白くない。これ恐らくは、変災直後の人心恟々たるに乗じて、案外組織的な鮮人暴動襲来という妄想敵国の流言蜚語を放ったものがあった正体の暴露を虞るるが為ではあるまいか、私どもの調査は、是非ともこの点にも触れて見たいと思うて居た。

次は、鮮人殺害問題の近因であるが、官憲当局の発表によると、1、2狂暴の鮮人に暴行脅迫放火強姦等の行為があったので、多数善良の鮮人迄も誤解せられたのだというて居るが、この発表も又余りに架空過ぎる、現に震災中の鮮人犯罪として検挙されたものは、美梅模爆発物取締規則違反位のもので、他に変災中の鮮人事件はないと思う。当局の発表した狂暴鮮人の暴行脅迫、放火強姦というのは、被害者の名前もわからなければ、被告の名前もわからない流言蜚語そのままの訛伝が、死人に口なき被害者に鞭打つものではあるまいかを疑わなければならない。1、2狂暴不逞鮮人があって、不穏危険な変動に及んだとしても、それが果たして鮮人自発の犯罪であったか、又は鮮人暴動襲来の流言蜚語に挑発された犯罪であったかも考えて見なければならない。すでに栃木県下で鮮人と誤られた日大の学生でさえも、余りにひどい鮮人的虐待に憤慨し、自ら鮮人だと名乗りて殺せるなら殺して見ろ、ほんとに殺すなら俺にも覚悟があると叫んだそうである事を考えて貰いたい。いわんや、1、2の狂暴者があった為に善良な鮮人迄も誤解せられた結果の鮮人殺害ありとしても、やはりその責任が誤解せられた多数の善良な鮮人に移るわけがない。しかるに、殺害を加えられた鮮人仲間の中に悪い人間があったからだというがごとき当局の発表には、いささかの誠意をも認る事ができないのを遺憾に思う。私は鮮人殺害の遠因を与えたものが誰であろうと、又1、2狂暴な鮮人があって善良な多数の鮮人を誤らしめたものであろうと、官憲当局は、善良な多数鮮人の為に、一切の誤解を解いて、生命の保護を完了する事が官憲当局の責任である事を切言して、更に誠意ある鮮人殺害問題の真相発表を望んで止まない。  (つづく)

(2023年9月2日投稿)

 

 

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甘粕憲兵大尉による「大杉栄虐殺事件」顛末に見える神聖天皇主権大日本帝国為政者メディアの価値観

2023-08-28 12:20:11 | 関東大震災

 関東大震災後の1923年9月16日夜、甘粕正彦憲兵大尉による大杉栄夫妻と甥虐殺事件が起きた。甘粕は淀橋署特高刑事から大杉の行動予定を聞き出し、16日夕方、任意同行に成功した。

 甘粕とその部下たちは、大杉と同伴の妻・伊藤野枝、甥・橘宗一(6歳)の3人を東京麹町の東京憲兵隊本部に連行し、ろくに尋問もしないで次々に絞殺し、死体は構内の古井戸に投げ込み犯行の隠蔽を図ったという。

 淀橋署は大杉の所在は教えた事により、大杉たちが行方不明となったので、警視庁に「憲兵が検束した。その後不明。あるいは殺されたか」と報告した。警視庁は戒厳司令部に照会したが、憲兵司令官・小泉六一は「検束」をも否定した。

 9月18日夜、『報知新聞』夕刊が「大杉夫妻行方不明、憲兵が連行」との記事を載せたため、警視総監・湯浅倉平山本権兵衛首相に改めて報告した。陸相・田中義一に糾した。田中は「激怒」して、同月20日で小泉、小山介蔵・東京憲兵隊長(甘粕の直属上司)を停職処分とした。福田戒厳司令官も更迭した。

 陸軍当局は、隠蔽や正当化は困難である考え、24日に甘粕の殺人行為を明らかにし、軍法会議にかける事を発表した。発表文は「(甘粕の)犯行動機は、平素より社会主義者の行動を国家に有害なりと思惟しありたる折柄……大杉栄等の震災後未だ(治安の)整わざるに乗じ、如何なる不逞行為に出づるやも計り難きを憂い、自ら国家の蠧毒を芟除せんとしたるに在るが如し」というものであった。

 軍法会議は10月8日が初公判であった。新聞はこの裁判を異例の大きさで記事にし、「社会主義者の奸計を未然に防いだ国士」として祭り上げた。報道界も国民も、甘粕は上からの命令に従ったものと受け止め、個人的な憎悪の対象とはならなかったようだ。

 また、軍首脳は、甘粕は信念に基づいて社会主義者は殺しても、子殺しをするような殺人鬼ではないというキャンペーンをはり成功した。

 甘粕本人は、「子どもを殺す必要はないと思っていた。子どもまで殺す気はなかったが、部下がやってしまった。しかし、すべて自分の責任である」と露骨に部下の罪をかばう上官を演じた。

 判決は12月8日。甘粕は懲役10年(求刑15年)と軽かった。しかしそれさえ、甘粕は刑期の3分の1を務めただけで、1927年2月に釈放され、陸軍の金で妻同伴で渡仏した。1930年には満州に姿を見せ、陸軍の特務機関と深い関係を持ち、満州国政府の要職を歴任し、晩年は満映理事長として暗躍した。そして、1945年8月20日、ソ連軍の満州侵入に際して青酸カリ自殺した。甘粕正彦憲兵大尉らによる大杉栄夫妻らの虐殺は「陸軍による犯罪」だったというべきである。

(2020年5月8日投稿)

 

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関東大震災下、陸軍警察主導で組織的に実行された王希天など中国人大量虐殺受難者慰霊式から日本の労働運動が学ぶべき事

2023-08-28 12:01:40 | 関東大震災

 今年2018年は関東大震災から95年。大震災下で陸軍警察主導で虐殺された在日中国人の慰霊式(今回で6回目)が9月9日、「関東大震災中国人受難者を追悼する会」の主催で実施された。同会の共同代表は、田中宏・一橋大名誉教授、林伯耀・旅日華僑中日交流促進会。

 関東大震災では、朝鮮人虐殺や日本の社会主義者・大杉栄夫妻らの虐殺(甘粕事件)や河合義虎、平沢平七ら10人の虐殺(第2次亀戸事件)はよく知られていると言って良いが、中国人の大量虐殺(大島町事件)と王希天虐殺事件は知られているとは言い難い。しかし、虐殺受難者名簿だけでも750名以上が記載されているのである。そして、今日においても日本政府(安倍自公政府)は陸軍警察による王希天を含む中国人虐殺を認めておらず隠蔽し続けているのである。その事は歴史を改ざんしている事でもある。そして、もちろん賠償もなされていない

 慰霊式には王希天の遺族ら15名が出席した。挨拶した来賓は、服部良一社民党国際担当常任理事、中村まさ子江東区議会議員などであった。

 なお、遺族は安倍自公政府(日本政府)に以下の事を要求している。

1、日本政府は必ず、国家としての責任を負い、この歴史的事実を認め、1923年関東大震災時に虐殺された旅日中国人労働者・行商人及び彼らの遺族に謝罪する事。

2、1924年に日本政府(清浦内閣)が決定した賠償方針(1人400円の慰藉金)に基づき、現行の国際慣例、物価水準に適合させ、受難者人数を修正(当時、死者不明あわせて約500人とした)のうえ賠償を実施する事。

3、歴史を以って鑑とし、後の世代にこの歴史事実を伝えるため、受難現地に、記念碑を建立し、並びに中国人と朝鮮人を含む虐殺歴史記念館を建設する事。

4、日本の歴史教科書に書き入れ、日本の若い世代にこの歴史を知らしめ、そこから教訓をくみ取らせる事。

などの4点である。

 大日本帝国下の憲法においては、天皇が主権者であり、国民は主権者とされておらず、国民に知る権利を認めず、神聖天皇政府に都合の良いように改ざん、隠蔽、湮滅がまかり通っていたのである。そして、それを継承するのが安倍自公政権である。

 ちなみに、王希天虐殺事件は、軍隊や警察によって社会主義者や労働運動活動家らが殺害された亀戸事件や、大杉事件と根は同じである。社会主義者をやっつける事は即出世につながると考えられていた時代であった。排日の巨頭、日本の社会主義者らとの交友、共済会での労働者の人権主張など、どれをとっても王希天は日本の官憲には目障りな存在だったのである。この官憲の行為に対してはそれを支持する国民の中国人朝鮮人など外国人に対するいじめと排除意識が育まれていた。この事件は労働行政に問題があり、中国人労働者政策に問題が存在したのであるが、日本の労働運動にも大きな衝撃を与え、この後、総同盟と評議会に分裂した。また、神聖天皇主権大日本帝国政府は、1925年には治安維持法を公布し、国民を戦争への道へ向かわせるのであった。

 王希天と交友関係にあった学生たちは、後に中国共産党の主要メンバーとして、あるいは市民として中国解放に身を挺したが、この事件を隠蔽した神聖天皇主権大日本帝国帝国政府の首謀者たちは、軍国主義の主要メンバーとして侵略戦争を推進したのである。

 外国人労働者問題はまさに現代の問題である。主権者国民は、安倍自公政権や東京都知事など為政者による過去の歴史の隠蔽行為を許さず、過去の真実から教訓を学びとり、自らを幸福へ導く生き方を大切にすべきである。

(2020年9月4日投稿)

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「朝鮮人虐殺」内閣府HP、「削除ではない」と前言をごまかし本音を隠蔽し開き直る

2023-08-28 11:57:32 | 関東大震災

 2017年4月19日、内閣府は、HPで中央防災会議の「災害教訓の継承に関する専門調査会(2003~10年度)報告書」が閲覧できなくなっている件で記者会見を開き、閲覧できない理由は「HPの刷新に伴うもので、意図的な削除ではない。技術的な問題で、刷新が終われば4月中にも再び閲覧できるようにする」と説明した。

 関東大震災の報告書の第2編(09年作成)には「殺傷事件の発生」として「朝鮮人虐殺」について、「震災全体の死者・行方不明者が10万5千人を超え、このうち殺害による死者数を1~数%と集計。官憲、被災者や周辺住民による殺傷行為が多数発生した。虐殺という表現が妥当する例が多かった。対象となったのは、朝鮮人が最も多かったが、中国人、内地人も少なからず被害にあった。大規模災害時に発生した最悪の事態として、今後の防災活動においても念頭に置く必要がある」と書いていた。

 ところで、4月18日の段階で内閣府の担当者の説明では、「朝鮮人虐殺」の内容について、「なぜこんな内容が載っているんだ」という苦情批判の声が多く、掲載から7年も経つので担当部局内での判断で、すべての報告書を載せない決定をし、データを順次消す作業をしている。掲載した資料は今後も保管され、希望者にはメールでの配布を検討する」としていた事を考えれば、冒頭の記者会見の説明とは整合性がない事は誰の目にも明らかである。つまり、事実は意図的な「削除」(歴史を修正する)であったが、問題が大きくなり、安倍政権の評価にマイナス影響が出る可能性を恐れて、速やかな火消しを狙い、とりあえず前言をごまかすために詭弁を弄し、追及をかわして開き直ろうとしている事は疑いない。また、安倍政権に追及が及ぶのを避けるために「担当部局内での判断」とし、さらに、自己が責任をかぶる事をも避けるために「技術的な問題」という説明で事実をスリカエているのも姑息な考えである。「削除した意図は安倍政権にとって都合が悪く認めたくない歴史的事実であるからで、それを国内外の眼に触れないように隠滅しようとしたと考えて間違いない。安倍政権は自己にとって都合の良いように歴史を書き変える事を意図しているのである。その事によって国民を洗脳し、政権を支持するようにさせようとしているという事である。

 以下に、朝鮮人虐殺の実態を紹介しておこう

 関東大震災は1923年9月1日正午頃に起きたが、午後3時頃には早くも「社会主義者及び鮮人(朝鮮人への蔑称)の放火多し」「鮮人が井戸に毒を入れた」「鮮人が暴動を起こしている」などの流言が発生し、翌2日午前10時頃には「不逞鮮人の来襲あるべし」となり、午後2時頃には「鮮人約3千名、既に多摩川を渉りて洗足村及び中延附近に来襲し、今や住民と闘争中なり」というまでに拡大した(警視庁『大正大震火災誌』)。この流言は計画的に流されたものであるか、民衆の対朝鮮人蔑視感情の裏返しの恐怖感の爆発なのかは明確ではない。しかし、その流布に警察、軍隊が大きな役割を果たした事は否定できない。というのも、2日、警視庁は朝鮮人の厳戒を管内に命令していた。また、同日在郷軍人を中核に組織された自警団が、午後6時発令の戒厳令下で広範な朝鮮人狩りを行っていた。自警団は、鳶口、竹槍、こん棒、銃剣などを持って全通行人を検問し、朝鮮人と疑わしきものは手当たり次第に殺した。3日、朝鮮人の暴動が事実無根とわかり、当局は自警団の行き過ぎを抑えようとしたが、抑えきれなかった。荒川放水路、利根川原、多摩川原などでは数百人の朝鮮人が殺された。暴行の範囲は東京、横浜から関東一円に及び、被虐殺者3000名とも6000名ともいわれる。朝鮮人虐殺が行われている時、社会主義者の虐殺も行われた。亀戸事件と大杉事件である。

 朝鮮人革命家金山の回想を聞き取った、ニム・ウェールズ『アリランの歌』では、「9月3日、政府は東京の警視総監に朝鮮人無政府主義者と民族主義者が日本人無政府主義者と協力して家を焼き払い、人々を殺し、金銭や財産を盗んだりしている旨を布告させ、住民には生命と財産を守るためにあらゆる必要手段を用いよ、と訴えた。この布告は人目に付くあらゆる場所に貼りだされた。それは嘘であったし、住民の大多数はどう考えてよいかわからなかった。しかし、反動どもはすでに20人ないし100人ずつの隊をつくって密に動員され、短刀、竹槍、日本刀、ハンマー、鎌などをふるって、たちまち虐殺を始めた。多くの朝鮮人に竹槍で拷問を加えながらなぶり殺しにした。拷問者たちはまわりに並んで拍手喝采した。若い女学生や婦人もそれに加わった。……3千名の死者は大部分東京、大阪、名古屋など不安動揺しつつあった工業中心地で殺されたものである。9月5日に、日本政府は虐殺を中止する事、また警察はすべての朝鮮人を保護すべしという命令を出した。そうした上で、約10万人を朝鮮に強制送還した。朝鮮人同胞が虐殺されていたその時に、朝鮮本国ではすべての朝鮮人家庭が米を無料供出して日本人を助けねばならなかった。われわれ朝鮮人は日本人を飢餓から救うため200万担(1担=約60㌔)の米を与えたのだ」としている。

 そしてこれらの事件は、前年の議会で廃案となった過激社会運動取締法案が9月7日に治安維持の緊急勅令として発動されたり、1925年の治安維持法制定の大きなきっかけとなった。

(2017年8月26日投稿)

 

 

 

 

 

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