田中耕太郎は、1915年東京帝国大学を卒業、1923年には同大学教授に就任、1937年には同大学法学部長に就任、1946年6月は貴族院議員に就任、1947年には参議院議員に就任、緑風会に所属、1950年3月には初代長官三淵忠彦に代わって第2代最高裁判所長官に就任し、1959年に砂川事件の裁判に関わった。
1955年に起った砂川事件に対し、59年3月東京地裁は、米政府駐留軍は憲法第9条違反であり、米政府軍を特別に厚く保護する刑事特別法は違憲・無効であるとし、被告学生たちを無罪とした。しかし、日米安全保障条約改定中の岸信介内閣は跳躍上告した。最高裁は、59年12月16日「統治行為論」により「外国軍隊の駐留は憲法にいう戦力ではなく、又安保条約は高度の政治性を有する統治行為で合憲であり、違憲立法審査権の範囲外であるとして棄却した。
ところでこの上告審に関して田中が、その日程や結論方針を駐日米国主席公使に伝えていた事などが、機密指定解除となった公文書で2013年4月に明らかになった。その内容は、
「判決は恐らく12月であろう。最高裁の結審後の評議では実質的な全員一致を生み出し、世論を揺さぶる元になる少数意見を回避するやり方で評議が運ばれる事を願っている」
である。砂川事件関係での裁判官の独立性を否定する、機密指定解除となった米国公文書は2008年4月と2011年にもあり、米国政府から日本政府への圧力があった事が明らかになっている。
2008年公文書「駐日大使ダグラス・マッカーサー2世との内密の話し合いと称した、日米安保条約に配慮し優先案件扱いとする」
2011年公文書「マッカーサー大使に、伊達判決は全くの誤りとして破棄を示唆」
そして、砂川事件上告審判決において田中は、
「仮に駐留が違憲であるとしても、とにかく駐留という事実が現に存在する以上は、その事実を尊重し、これに対し適当な保護の途を講ずる事は、立法政策上十分是認できる。……既定事実を尊重し法的安定性を保つのが法の建前である」
と補足している。
田中耕太郎は、長官になる時に宣誓をしたが、その形式が決まっていないので困り、憲法の本の上に手を置いて宣誓し、「これが前例になるだろうか」と言ったようである。又、田中の妻の父は松本烝治で、おじが小泉信三である。裁判の中立性については、妻は「共産主義運動との関係でも裁判は厳密に中立でなければならない」と考えていたようだが、田中は「裁判の中立といって、その結果世界中が共産化したらどうするのか」という考え方で反共主義であったようだ。
(2024年5月1日投稿)