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企画展「表現の不自由展・その後」への安倍自公政府の姿勢は「天皇機関説事件」の狙いと同じ自由主義への弾圧だ。その2

2019-09-28 21:13:53 | 芸術

 天皇機関説事件の発端は1935年2月18日の第67帝国議会貴族院本会議で、菊池武夫など在郷軍人(元陸軍中将、右翼機関「国本社」所属)議員が東京帝国大学教授美濃部達吉を、国体に反する学説を説く「学匪」であり、「緩慢なる謀反人」であり、「学説を超越した日本観の問題」であると攻撃した事にある。衆議院でも江藤源九郎が、美濃部の『逐条憲法精義』を発禁にするように政府に要求した事にある。

 美濃部は貴族院本会議で天皇機関説の正当性を説明した。貴族院では「支持」「同意」を示す拍手が起こり、新聞メディアも好意的に報道した。しかし、この動きに右翼勢力(天皇主権絶対主義擁護勢力)は危機感を抱いた。2月28日、衆議院の江藤源九郎は美濃部を「不敬罪」で告発した。右翼団体は「機関説撲滅同盟」を結成し、天皇機関説の発表の禁止と美濃部の自決を運動目標とし政府に要求する。帝国議会でも貴衆両院の有志議員が「機関説」排撃を申し合わせ、野党政友会も岡田啓介内閣を倒す運動に利用しようと積極的に関わり出す。

 このため岡田内閣も動揺し、3月4日、岡田首相は、「天皇機関説に反対する」と表明した。12日には林銑十郎陸相も以前の答弁を翻し、「天皇機関説がなくなる事を希望する」と述べた。帝国議会の貴族院は20日、政教刷新決議を採択し、衆議院鈴木喜三郎政友会総裁が提案した「国体明徴決議」を全会一致で可決し、政府に「天皇機関説」に対する断乎たる処置を要求した。この事は政党が議会政治の理論的根拠を自ら否定したという事である。

 機関説排撃運動は議会閉会後も4月から7月にかけ全国的運動に発展した。岡田内閣は倒閣運動に発展するのを抑えるため4月9日、内務省は美濃部の『逐条憲法精義』『憲法撮要』『日本憲法の基本主義』を発禁処分とし、『現代憲政評論』『議会政治の検討』に次版改訂命令処分を出した。文部省全国各学校に「国体明徴訓令」を出した。軍部真崎甚三郎教育総監が「天皇機関説は国体に反する」との訓示を全陸軍に出した。在郷軍人会天皇機関説排撃パンフレット15万部を全国に配り、各地の在郷軍人会支部は機関説排撃大会を開催した。右翼も美濃部処分と岡田内閣打倒を目標に運動。平沼騏一郎枢密院副議長の一木喜徳郎枢密院議長の失脚策動もあった。

 そして岡田内閣は8月3日、「国体明徴に関する声明」(大日本帝国統治の大権はげんとして天皇に存すること明らかなり)を出し、「機関説は我が国体の本義をあやまるもの」とした。9月には司法当局は美濃部を再び取り調べ、美濃部の貴族院議員辞任(9月18日辞任)を条件に、美濃部の学説は出版法中の「安寧秩序の妨害」「皇室の尊厳の冒瀆」に抵触する疑いがあるが、情状を酌量し「起訴猶予」とした。10月15日、岡田内閣は右翼の激しい要求で第2次「国体明徴に関する声明」を出した。

「政府は国体の本義に関し所信を披瀝し以て国民の嚮う所を明にし愈々その精華を発揚せんことを期したり。抑々我国に於ける統治権の主体が、天皇にましますことは我国体の本義にして帝国臣民の絶対不動の信念なり、……然るにみだりに外国の事例学説を援いで我国体に擬し、統治権の主体は天皇にましまさずして国家なりとし、天皇は国家の機関なりとなすが如き所謂天皇機関説は、神聖なる我国体に戻り其本義をあやまるの甚だしきものにして厳に之を芟徐せざるべからず。……政府は右の信念に基づき茲に重ねて意のあるところを闡明し、以て国体観念を愈々明徴ならしめ其実績を収る為全幅の力を尽さんことを期す」以上

 国体明徴声明」によって、「機関説的天皇解釈」、換言すれば「立憲主義的議会主義的憲法解釈」はまったく認められないものと位置づけられ、軍部ファシストの主張する「神聖天皇主権絶対主義的憲法解釈」こそが公認正統な解釈(思想)であるとされる事となったのである。それは議会政治の否定であり自由主義思想の否定を意味した。この後、神聖大日本帝国政府はファシズムを益々強化し、国民に対し天皇や国体を楯に非合理的な思想宣伝を押し付け、それを批判する国民は「反国体」「非国民」として弾圧し、同調圧力を加え、沈黙し服従せざるを得ないようにしていったのである。

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企画展「表現の不自由展・その後」への安倍自公政府の姿勢は「天皇機関説事件」の狙いと同じ自由主義への弾圧だ。その1

2019-09-28 16:55:09 | 芸術

 大日本帝国憲法については、穂積八束や上杉慎吉らに代表される「天皇主権絶対主義的憲法論」が公認学説となっていたが、美濃部達吉東京帝大教授は明治末期以来、『憲法講話』(1912年3月)などで「天皇機関説」を唱え、上杉らの憲法思想を「言を国体に借りてひたすら専制的の思想を鼓吹し、国民の権利を抑えてその絶対の服従を要求し、立憲政治の仮装の下に其の実は専制政治を行わんとするの主張」だと批判した。それに対し上杉は雑誌『太陽』(1912年6月号)に『国体に関する異説』を発表し、美濃部を攻撃した。それは、天皇に主権があるという国体の概念に、法的な意味だけでなく、日本固有の歴史的倫理的意味を持たせ、これを立憲制か専制かという政体の概念よりもはるかに重視したものであり、天皇機関説は、日本を民主国とし、天皇を人民の使用人視するものである、というものであった。美濃部はそれに対し、『太陽』(1912年7月)に『上杉博士の「国体に関する異説」を読む』と題して反論。「天皇を人民の使用人とするものでもなければ、日本が君主国である事を否定して民主国だとしたわけでもない、それは誤解も甚だしい」と。

 上杉と美濃部の論争は大正デモクラシー(第1次護憲運動)の時期であり、上杉らの天皇主権絶対主義的憲法解釈勢力大正デモクラシー立憲主義的議会主義的憲法解釈勢力との思想闘争であった。そして、その結末は、議会と民衆運動による「大正政変」で桂内閣」を53日で総辞職させた事によって、美濃部の天皇機関説が政治的に勝利し、それ以後、学会の主流で正当な学説として認められる事となったという事であり、大日本帝国憲法体制を支える事となったという事である。

 そして、1935年の「天皇機関説事件」は、天皇主権絶対主義的憲法解釈勢力による反撃であった。1931年の満州事変以後、侵略戦争や社会問題に疑問を持つ人々が生まれ、32~33年には治安維持法違反で検挙される人々が最大に達した。「司法赤化事件」のほか、小学校教員、兵士、華族の子弟など天皇制を支える諸分野にも及び、内務省や司法省は、メディアを統制してその脅威を宣伝し、天皇主権絶対主義擁護派の危機感を煽り国民には恐怖感を煽り自由主義思想学問弾圧の布石とした。

 1933年の滝川事件の火付け役であった蓑田胸喜(狂信的右翼団体の原理日本社の蓑田は、『司法官赤化事件と帝大赤化教授』と題したパンフを作り、「司法官赤化事件」の原因が東京帝大の美濃部、末弘厳太郎、京都帝大の滝沢幸辰らの教授たちの法学思想にあるとし、これら自由主義的法学者を「赤化教授」と攻撃)らの国体擁護連合会が、1935年1月には、「美濃部達吉博士、末弘厳太郎博士の国憲紊乱思想について」と題した文書を配布し、美濃部に対する攻撃を開始した。

※蓑田の動きを受けて、貴族院菊池武夫衆議院の宮沢裕は、第64帝国議会で政府に対し帝国大学の「赤化教授」追放を要求。特に滝川の『刑法読本』について無政府主義的であると攻撃した。政府はこれを受け入れ、内務省が1933年4月11日、『刑法読本』『刑法講義』の2著を発売禁止とした。また、鳩山一郎文相小西重直京都帝大総長に4月22日、滝川の『刑法読本』の内乱罪や姦通罪についての解釈は内乱を煽動し、姦通を奨励する危険思想であると非難し、滝川を辞職または休職させるよう要求。小西は文部省の処分要求を受け入れず、また京都帝大法学部教授会は、問題は滝川個人の問題ではなく、大学における学問研究の自由の問題であり、「政府の方針と一致しない」という理由で教授の辞職を要求するのは大学の自治への介入であるとして文部省に反駁。斎藤実内閣は5月25日、文官高等分限委員会を開き滝川の休職を決定し発令した。(つづく)

 続きは「その2」を参照してください。

 

 

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