※以下の内容は2016年12月10日に投稿したものですが、再投稿します。
昭和天皇は、対米英開戦にどのように対応したのか。可能な限り真実の姿を知る事が間違いのない適切な判断を生み出す事ができます。
最近問題となっている「生前譲位」の問題についてはもちろん、国民にとっての天皇家や皇族のあり方についても同様です。
昭和天皇は、一言でいえば、当時の天皇の発言から判断すれば、天皇は実質的に開戦の決定権を握っていた事は明確であり、作戦指導においても非常に積極的に深く関わっていたと言える(大日本帝国憲法では、宣戦の布告も、講和の条約も天皇大権として定められている)。以下、その言動を見てみよう。
○1941年11月26日(米、ハル=ノート提案)、ハワイの真珠湾を奇襲攻撃するために向けて千島の択捉島を発進したその日の昭和天皇と内大臣の木戸幸一との会話。
天皇「いよいよ最後の決意を下すに当たっては、是非重臣を集めて広く意見を聞いてみたいと思う。この事を東条(首相)に話してみたいと思うがどうであろうか」
木戸「今後の御決意は本当に後には引けない最後の決定となります。少しでも御不審の点があるようでしたら、御遠慮なく仰せいただき、後に悔いの残らぬようなご処置が宜しいかと思います。その意味から、首相に御申しつけになって宜しいと存じます」(木戸日記)
○天皇が東条首相に対して、
天皇「開戦すれば、どこまでも挙国一致でやりたい。重臣はよく納得しているか、政府はどう考えているか。重臣を御前会議に出席せしめてはどうか」(「杉山メモ」)
○11月30日午後、天皇と木戸との会話。
天皇「どうも海軍は手一杯で、出来るなれば日米の戦争は避けたいような気持だが、一体どうなのだろうかね」
木戸「今度の御決意は一度聖断あそばさるれば、後へは引けぬ重大なものでありますゆえ、少しでも御不安があれば充分、念には念を入れて御納得の行くようにあそばさねばいけないと存じます。ついては直接に海軍大臣、軍令部総長を御召しになり、海軍の直の腹を御確かめ相成りたく……」
○11月30日午後6時、天皇と嶋田海軍大臣、永野軍令部総長との会話。
天皇「いよいよ、時機切迫し、矢は弓を離れんとす。一旦矢が離るれば長期の戦争となるのだが、予定の通りやるのかね」
両者「大命御降下あらば予定の通り進撃致すべく、いずれ明日(12月1日の御前会議の事)委細奏上仕るべきも、航空艦隊は明日はハワイの西1800マイルに達し申すべし」
天皇「大臣としてもすべての準備は良いかね」
大臣「人も物も十分の準備を整え、大命御降下を御待ち致しております」(「嶋田日記」)
○両者退出後、天皇と木戸との会話。
天皇「海軍大臣、総長に先ほどの件を尋ねたるに、いずれも相当の確信をもって奉答せるゆえ、予定の通り進むるよう首相に伝えよ」(「木戸日記」)
○12月1日御前会議。議題「帝国国策遂行要領に基づく対米交渉は遂に成立するに至らず帝国は米英蘭に対し開戦す」。
東条「御質問又は御意見は以上をもって終了したるものと存じます。本日の議題につきましては、御異議なきものと認めます。つきましては最後に私より一言述べたいと存じます。今や皇国は隆替の関頭に立っておるのであります。聖慮を拝察し奉り、ただ恐懼の極みでありまして、臣等の責任の今日より大なるはなき事を、痛感致す次第でございます。一度開戦と御決意相成りますれば、私共一同は今後一層報効の誠を致し、いよいよ政戦一致施策を周密にし、ますます挙国一体必勝の確信を持し、あくまでも全力を傾倒して速やかに戦争目的を完遂し、誓って聖慮を安んじ奉らん事を期する次第であります。これをもって本日の会議を終了いたします」
○12月2日、陸海軍総長は、昭和天皇より、「12月8日、ハワイ攻撃を初めとする開戦の勅許」を受けた。
○日本時間1941年12月8日AM2:15、英領マレーのコタバルへ奇襲攻撃。
○日本時間1941年12月8日AM3:19、ハワイ、オワフ島真珠湾へ奇襲攻撃。
※以下は、1975年の外国特派員団との記者会見での昭和天皇の発言であるが、無責任極まりないものと言えないであろうか。
「私は軍事作戦に関する情報を事前に受けていた事は事実です。しかし、私はそれらの報告を軍司令部首脳たちが細部まで決定したあとに受けていただけなのです。政治的性格の問題や、軍司令部に関する問題については、私は(大日本帝国)憲法の規定に従って行動したのだと信じています」
※皇室に関しては、カテゴリー「皇室」に「別の内容」も投稿していますので読んでください。