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神聖天皇主権大日本帝国政府による自由主義的学問の排除システム

2020-12-05 17:55:42 | 皇室

 敗戦までの神聖天皇主権大日本帝国政府は、特に昭和期に入っては、中華民国侵略を完遂するうえで、臣民(国民)に、侵略戦争政策に協力させるための思想統制を徹底する必要から、特に帝国大学などにおける、政府の意に添わない自由主義的な学問研究(者)を排除した。

 代表的な事件は、1933年の京都帝大教授(刑法学)・滝川幸辰の滝川事件、35年の東京帝大教授(憲法学)・美濃部達吉の天皇機関説事件、1937年の東京帝大教授(植民政策学)・矢内原忠雄の矢内原事件、1938年の東京帝大教授(経済学)・河合栄次郎事件、1940年の早大教授(歴史学)・津田左右吉事件などである。

 彼らはすべてその著書を発禁とされたうえ、職を奪われた。そこには政府・軍部・議員・右翼団体などによって仕組まれた共通した手法が存在した。それは、先ず大学教授間で右翼団体所属の教授らが上記の彼らに非難攻撃をしかけた。それを退役軍人で右翼的な帝国議会議員が帝国議会で政府に対し処分追放を要求した。右翼団体は生命にかかわる脅迫行為も行った。それを受けて政府が権力によって排除処分をする、という手法である。

 滝川・美濃部については、右翼団体「原理日本社」創立者の蓑田胸喜(1932年まで慶応大学教授その後国士館専門学校教授)らが、司法官赤化事件(1932~33年。天皇主権の中枢をなす司法部の一部に社会問題に眼を向け、1931年9月の満州事変以後の侵略戦争の行方に疑問をもつ動きがあった)の原因が、東大の美濃部、京大の滝川らの法学思想にあるとして、「司法官赤化事件と帝大赤化教授」なるパンフレットを作成配布し、自由主義的法学者を非難攻撃した。これを受けて貴族院議員菊池武夫退役陸軍中将、右翼団体「国本社」所属)などが、第64帝国議会斎藤実内閣に対し、帝国大学の上記教授らの追放を要求するとともに、特に滝川の『刑法読本』を無政府主義であると攻撃した。これを政府は受け入れ、内務省が1933年4月11日、滝川の『刑法読本』『刑法講義』を発売禁止の行政処分にした。同月22日には鳩山一郎文相が小西重直・京大総長に対し、『刑法読本』の内乱罪や姦通罪に対する解釈は内乱を扇動し、姦通を奨励する危険思想であると非難し、滝川に対し辞職または休職の措置をとるよう要求した。それ以後の経緯については別の拙稿を参照してください。

 美濃部については、1935年1月にまたしても蓑田胸喜らの国体擁護連合会が「美濃部達吉博士、末広厳太郎博士の国憲紊乱思想に就いて」というパンフレットを配布し、非難攻撃した。同年2月には、第67帝国議会貴族院本会議で、またしても菊池武夫(在郷軍人)議員が美濃部を、国体に反する学説を説く「学匪」であり、「緩慢なる謀反人」であると非難攻撃した。衆議院でも江藤源九郎が、美濃部の『逐条憲法精義』の発禁岡田啓介内閣に要求した。これに対し美濃部は貴族院本会議で「一身上の弁明」として、天皇機関説の理論的正当性の根拠を説明した。しかし、江藤は同年2月28日、美濃部を不敬罪で告発し、右翼団体は機関説撲滅同盟をつくり、機関説の発表禁止と美濃部の「自決」を運動目標として政府に迫った。帝国議会では貴衆両院の有志議員が機関説排撃を申し合わせた。同年3月4日、岡田首相は機関説に反対する事を表明、同年3月12日、林銑十郎陸相も、機関説がなくなる事を希望すると表明した。その後貴族院では同年同月20日に政教刷新決議を採択、衆議院も鈴木喜三郎・立憲政友会(野党)総裁提案国体明徴決議を全会一致で可決し、政府に機関説に対する断固とした処置を要求した。この事は政党が議会政治の理論的基盤を自ら否定した事を意味した。議会閉会後も機関説排撃運動は激化し全国化した。政府文部省は1935年4月、全国各学校に向けて「国体明徴」訓令を発令し、同月9日には内務省は美濃部の『逐条憲法精義』『憲法撮要』『日本憲法の基本主義』を発禁とし、他2著を次版改訂命令処分とした軍部も真崎甚三郎・教育総監が機関説排撃のパンフレットを全国に配布し、在郷軍人会支部は機関説排撃大会を開催した。

 岡田政府は8月3日、「国体明徴に関する声明」を出し、「天皇機関説は我が国体をあやまるもの」とした。9月司法当局は、美濃部を取り調べ、貴族院議員辞任(同月18日)の内意を得て、機関説は出版法中の「安寧秩序の妨害」「皇室の尊厳の冒涜」にふれる疑いがあるが情状酌量して起訴猶予とするとした。その後も陸軍は満足しなかったため政府は10月、第2次「国体明徴に関する声明」を出した。内容は「曩(さき)に政府は国体の本義に関し所信を披瀝し以て国民の向かう所を明にし愈々其精華を発揚せん事を期したり。抑々我国に於ける統治権の主体が、天皇にまします事は我国体の本義にして帝国臣民の絶対不動の信念なり、……然るに漫りに外国の事例学説を援いて我国体に擬し、統治権の主体は天皇にましまさずして国家なりとし、天皇は国家の機関なりとなすが如き所謂天皇機関説は、神聖なる我国体に戻り其本義をあやまるの甚だしきものにして厳に之を芟除せざるべからず。……政府は右の信念に基づき茲に重ねて意のあるところを闡明し、以て国体観念を愈々明徴ならしめ其実績を収むる為全幅の力を尽さん事を期す。」とした。

 この国体明徴声明は、政府が、軍部ファシストが奉ずる「統帥権的・神権的天皇」解釈官許公認正当な思想として承認したと言う事を意味した。そして、軍部が主導するファシズム勢力による、議会政治の否定と、思想的には自由主義思想否定についての政府の公的宣言であった。そして、これ以後、軍部や政府に対する臣民の批判的な動きは「反国体」「非国民」として処断される事になるのである。

 津田についても蓑田胸喜(1932年まで慶応大学教授その後国士館専門学校教授)が、津田の著書には「大逆思想」があるとして非難攻撃した。津田のその後についての詳細は別の拙稿「記紀の神代史は天皇支配正当化のための政治的創話とした津田左右吉の口封じをした神聖天皇主権大日本帝国政府」を参照してください。

 矢内原は、内村鑑三門下の無協会キリスト教徒で、学問研究の根底には信仰に基づく正義感をもち平和主義者であった。1937年に軍部の戦争政策を批判した矢内原の論文に対し東京帝大経済学部の土方成美右翼的教授らが彼の思想を「不適当」として辞職を強要した。第1次近衛文麿内閣の荒木貞夫文相も長与又郎京大総長に圧力をかけ矢内原を辞職に追い込んだ。

 河合は、理想主義的自由主義の立場から議会主義に基づく社会主義を唱えた。荒木貞夫文相の大学総長官選論を批判して右翼的教授と対立した。そのため、1938年に第1次近衛内閣は河合の「ファシズム批判」など4著を発禁とし、39年平沼騏一郎内閣は矢内原を起訴し、休職処分とした。

この手法は安倍自公政権において使われてきたし、現行の菅自公政権においても使われ続けている。

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