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伊勢神宮に憲法改正(改悪)実現の加護祈願?メディアは先ず首相の神宮参拝自体が憲法違反行為である事を問題提起すべきだ

2024-01-06 12:01:07 | 宗教

 2019年1月も伊勢神宮に参拝した。そして参拝後に年頭会見し、「戦後日本外交の総決算を行う」と宣言した。

 メディアは、2018年1月4日安倍自民党首相が、伊勢神宮を参拝した後、年頭の記者会見をし、「改憲原案提示に意欲」を示した事を伝え、自民党内の昨年末からの論点整理を加速させ条文案をまとめたうえで各党との協議に入りたい考えがある事や、改正(改悪)に対する考え方などを伝えていた。

 しかし、ここで思うのだが、このような事も国民にとって大事な情報ではあるが、もっと大事な見過ごしてはならない事について指摘批判すべきではないのか。それは、敗戦後、国家神道(神社境内地は国有地であった)が解体された翌2月3日(1946年)、国家神道時代の天皇中心の国体の教義と神社の中央集権的編成を存続させる事を目的に設立された宗教団体神社本庁が、庁規の第61条に「伊勢神宮は神社の本宗とし本庁之を輔翼す」(伊勢神宮を頂点として神社本庁が全国約8万の神社を統率する)と定めた「伊勢神宮」に安倍首相が参拝した事についてである。伊勢神宮は「古事記」「日本書紀」の建国神話にある「天照大神」を祀る場所であり、この神は天皇家においてはその祖先とされ、国家神道の中核となっていた皇室神道(宮中祭祀)の最高神(天皇が最高祭祀者)であり、安倍首相の参拝はその神に参拝する事であるからである。この行為は、つまり、伊勢神宮参拝行為は「憲法違反」そのものであり、それも確信犯であり批判すべき行為である。

 敗戦後の現行日本国憲法は主権者国民の精神の自由を守るために、その弊害となっていた神聖天皇主権大日本帝国政府とその支配原則「政教一致の原則」を廃し、戦後の政府に対し「政教分離の原則」を明確に定めたのである。安倍首相の参拝行為はこのような歴史的経過を傲慢に無視したマニアックな戦前回帰を目論む狂信的行為である。また安倍首相は、「天皇」を「きどった」行為をする事に、自己満足をしているのではないだろうか。

 そしてその参拝目的は、「憲法改正(改悪)実現の祈願」と考えてよいであろう。つまり、安倍政権による政治は、「神頼み」の政治・「政教一致」の政治と化しているのである。

 神聖天皇主権大日本帝国下においては、その帝国成立時の「五か条の御誓文」(維新政権の基本方針)の発布は、明治天皇が公家・大名・百官を率いて「天地神明に誓う」という形式で行われた。

 また、大日本帝国憲法の発布は、明治天皇が、天照大神の霊を祭る宮中の賢所で、天皇家の祖先に皇祖皇宗の統治の大法を時代の進歩の中で明らかにするために、皇室典範と憲法を制定した事を告文で報告した。これは欽定憲法の最初の儀式であった。その後、大臣以下高官が列席する正殿において、天皇より臣下に憲法を与える事を象徴する憲法発布の式典が行われた。まず天皇の不磨の大典宣布の宣言があり、伊藤博文枢密院議長の奉呈する憲法を、天皇自ら黒田清隆内閣総理大臣に授与して式は終了した。天皇の正殿への入退場時には君が代が流れた。

 安倍自公政権が行っている事はすべて、「自民党憲法改正草案」の中身の既成事実化なのである。この手法は麻生副総理の言葉「ナチスのやり方を……」に示されている。

 安倍自公政権にはもちろんであるが、メディアの情報操作にも騙されてはいけない。情報操作の手法には色々あるが、「問題として取り上げない」という事もその一つであるから。

 ついでながら、最近、若者たちが(大人たちもかな?)、メディアによって、音楽やダンスなど芸能界からの包囲攻撃を受けており、冷静に客観的に政治や社会や人間関係や自分自身について、どうあるべきかを考える事ができなくされているように思われる。この状態も、安倍自公政権の国民統治(支配)の政治的策略によって生み出されている事を見抜いた対応をすべきだと思うがどうだろう。この政策は昔からの権力者・為政者が支配下においている者に行う常套政策であるが、ヒトラーの政策からもそれがうかがえるのでを紹介しておこう。

 ヒトラー(ナチス・ドイツ総統)の1942年の東方植民地政策についての談話によると、

被征服民族に対して学校教育を強制してもいけない。ロシア人・ウクライナ人・キルギス人などが読み書きできる事は、我々の害になるばかりだ。読み書きができると、頭の良い者が歴史的知識を獲得し、政治的思考を我がものにして、ついにはドイツに反逆する恐れがあるからだ。従って、彼らに教育を与えるよりも、ラジオ拡声器(現代ならスマホ?)を各村落に備えてニュース(情報操作した為政者にとり都合良く情報操作した内容や方法で)を流したり、娯楽(現代ではスポーツの奨励も?)を提供した方が良い。……ラジオではむしろ音楽だけを放送すべきであり軽快な音楽によって労働意欲を増進させるべきである」という政策の実施を命じている。

(2018年1月4日投稿)

 

 

 

  

 

 

 

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伊勢神宮参拝の首相閣僚は政教分離原則を故意に無視、メディアはなぜ糾弾しないのか

2024-01-06 11:54:05 | 宗教

 2020年1月6日昼、安倍首相は伊勢神宮(皇室が祖先神とする天照大神を祀る神社)に首相の肩書で参拝した。改めて言うが、この参拝行為は日本国憲法に定める「政教分離原則」を故意に無視し違反した行為である。メディアは糾弾すべきである。糾弾しないメディアは安倍首相の行為を正当視し支持する立場に立つ事を表明しているに等しいと言って良い。

 2023年1月4日、岸田首相も伊勢神宮を参拝した。2回目。

※以下は2016年1月6日に投稿したものであるが、安倍自公政権による主権者国民に対する愚弄と憲法違反行為を今こそ糾弾し阻止すべきであると考え改めて投稿したものである。

 メディアによると、安倍首相は、5日、岸田外相ら9閣僚とともに伊勢神宮に参拝した。参拝後、首相は「日本のふるさとと言ってもいい素晴らしい環境で、世界が直面する様々な課題について率直な議論を行い、実り豊かな成果を出したい」と述べた、との事。メディアはまた、「新年の参拝は歴代首相の恒例行事」と記す。

 それ以外の記述はない。その扱い方も特別問題視すべき出来事ではないかのように、見過ごしてしまいそうな目立たない小さな形で伝えている。

 なぜ、国民にその問題点を大きくアピールしないのか。この行為は、「歴代首相の恒例行事」となっていようとも、日本国憲法の「政教分離の原則」に基づいて判断すれば、「憲法違反」以外の何物でもない事は明らかではないか。それを、上記のような扱いで事足れりとしてしまうという事は、メディアにはその判断力がなくなってしまったか、故意に「世論を操作する」事を目的とする行為であるというほかないであろう。メディアが、敗戦までの「大本営発表」のみに基づく報道をしたように、安倍政権による統制により、御用新聞化している事を証明するものではないか。主権者国民はメディア・リテラシーを高める事がますます重要になっている。

 メディアは、すでに「遷御の儀」の安倍首相列席において、「憲法違反」の主張・批判をしなかった、という過ちを犯しているが。メディアはこれらの安倍首相の行為について、「自民党憲法改正草案」第20条「信教の自由」第3項にある「国及び地方自治体その他の公共団体は、特定の宗教のための教育その他の宗教活動をしてはならない。ただし、社会的儀礼又は習俗的行為の範囲を超えないものについては、この限りではない」というなかの「社会的儀礼又は習俗的行為の範囲を超えないもの」という認識を判断の根底に持っているという事であろう。しかし、それがメディアの使命を放擲する事と、安倍政権が自己を正当化する事を支える結果を生んでいるのである。敗戦までのメディアと同じ誤りを犯しているのである。民主主義、国民主権を大切に思う国民はこのようなメディアに騙されてはいけない。

 敗戦までの「尋常小学校修身書巻六 児童用 第一課 皇大神宮」では、「伊勢神宮」がどのように教えられていたかを紹介します。

皇祖天照大神をおまつり申してある皇大神宮は、伊勢の宇治山田市にあります。神域は神路山のふもと、五十鈴川の流にそい、いかにも神々しい処で、一たび此処にはいると、誰でもおのずと心の底まで清らかになります。皇室は一方ならず、皇大神宮を尊ばせられます。天皇陛下は皇族を祭主に御任命になって御祭事をすべつかさどられ、祈年祭・神嘗祭・新嘗祭には、勅使をおさし立てになって、幣帛をささげさせられます。勅使をおさし立てになる時には、天皇陛下は親しく幣物を御覧になって、御祭文をお授けになり、勅使が退出するまでは入御になりません。なお神嘗祭の当日には、宮中でおごそかに御遥拝の式を行わせられます。また毎年の政始には、第一に皇大神宮の御事をきこしめされ、皇室や国家に大事のある際には、必ず皇大神宮に御親告になります。大正天皇の御即位の礼を行わせられた時にも、御みづからその趣をお告げになりました。皇大神宮の宮殿は、二十年毎に新たにお造りになって、おごそかに正遷宮の御儀式を行わせられます。皇室は御遷宮の御事を至って大切に遊ばされ、明治四十二年に最近の御遷宮のあった時にも、明治天皇はこの御事を深く大御心にかけさせられ、前もって工事等のくわしい書きものを差し出させて一々御覧になりました。皇室はかように厚く皇大神宮を御尊崇になります。国民も昔から厚く皇大神宮を敬い、一生に一度は必ず参拝しなければならないことにしています。」

 敗戦までの子供たちは、このような教材で「伊勢神宮」(国家神道)についての教育が行われ、神聖天皇主権の大日本国帝国(国体)をすり込まれたのである。そして、おかしな事であるが、敗戦後もこの神道体制はそのまま維持され、年月を経るに従いその存在感を強めてきたのである。

その「伊勢神宮」へ、安倍首相を先頭に閣僚らが、神聖天皇主権大日本帝国(国家神道)を否定した「政教分離原則」にもとづく日本国憲法を公然と無視して、公然と参拝しているのである。

(2020年1月6日投稿)

 

 

 

 

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伊勢神宮の宇治橋からの風景は神聖天皇主権大日本帝国政府(国家神道)が生み出した「皇室の風景」

2024-01-06 11:49:34 | 宗教

 初詣などに伊勢神宮内宮へ参拝する人々が非常に多いようであるが、あの宇治橋の鳥居をくぐった先の風景は「皇室の風景」として神聖天皇主権大日本帝国政府が創り出したものである事を認識できている人は非常に少ないと思われる。

 現在見られる内宮参道風景は、玉砂利、低い松、刈り込みと芝生という構成でできている。しかし、幕末の風景は、内宮周辺には、御師と呼ばれる「伊勢参り」のプロモーターたちの屋敷が数多く建ち並んでいた。幕末の絵図によれば、宇治橋を渡って伊勢神宮内宮に至るまでの地域にも、多くの民家が建ち並んでいた事がわかる。

 現在の伊勢神宮内宮参道風景は、江戸時代からのものでもなく、それ以前からのものでもなく、明治時代以後の新しいものなのである。つまり、帝国政府が内宮周辺地域の大改修を行い現在の元になる姿を創り出したという事なのである。この風景は、神聖天皇主権大日本帝国政府が整備した宮内省内匠課の造園担当者が創り出した「皇室の風景」であり、当時在籍していた小平義近、福羽逸人、市川之雅、折下吉延らが創り出したものなのである。

(2020年6月13日投稿)

 そして、この「皇室の風景」完成形は、明治天皇の伏見桃山陵と、昭憲皇太后の伏見桃山東陵であり、この時の責任者は内務省内匠頭であった片山東熊(建築家)と内苑頭であった福羽逸人(園芸家)であった。

 神聖天皇主権大日本帝国政府は、あらゆる面で、歴史を改ざんし、歴史を都合よく創り出し、臣民(国民)に自己の支配統治の正当である事を押し付け刷り込んだ(洗脳)のである。

(2023年1月2日投稿)

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