つれづれなるままに心痛むあれこれ

知る事は幸福度を高める

韓国併合条約締結時の後藤新平の所感

2024-09-05 20:51:56 | 朝鮮問題

 韓国併合条約に関して、1910(明治43)年8月30日付の東京日日新聞が「韓国併合所感 後藤男爵談」の小見出しで以下のような記事を掲載したが、当時、第2次桂太郎内閣逓信大臣であり、今日の評価では、「生涯通じて露骨な大陸侵略を鼓吹した」とされている後藤新平がどのように感じていたのかを紹介しよう。東京日日新聞は1881年に福地源一郎が社長となってから完全な御用新聞となり、政府系新聞として終始した。

韓国は愈々大日本国に合併せられ、同国一千万の蒼生(人民)は挙て我が王化の下に服するに至りたるが、此の一事は一面甚だ気の毒にして韓民の心中察するに余りあれども、韓国は遠き昔既に完全なる独立国の実質を失い、其国民は世界の国際舞台に馳駆して対等の待遇を受け得ざるの境遇にありたるのみならず、人民の多くは其の存する生命、財産をすら時に其の危険を防止し得ざる如きに憫然なる状態に在りたるものなるに、今次の合併に因り彼等は遂に世界最近史上最も栄誉ある大日本国の臣民に化し、その生命財産が永遠安全に確保せらるるを得るのみならず世界一等国の臣民たる幸福と名誉に浴するに至れるものなれば、日韓問題の解決はひとり我国の為め之を慶すべきのみならず、余は韓民一千万の前途及び其の子孫の幸福の為に之を祝賀せずんばあらざるなり、然るに昨今の情勢を見るに本邦が前後二千年間努力と丹精を凝らしたる結果、今次終に之を併有するの已むなきに至りたる事情と真精神とは未だ全く韓民の総てに徹底せず今回の併合を以て或は自国の滅亡と観じ、或は日本の併呑と誤解し、間々本邦に対して敵愾心を挟み居る者なきに非ざるの一事は聊か遺憾とせざる能わず、即ち今回の事たる大詔及び当局の声明にもある如く東洋永遠の和平日韓特殊の関係を願い両国併合を行うの最大利益なるを認め両国民無窮の幸福の為めに之を決行するに至りたる次第にして、云わば弱気を扶け強きを挫く大和民族特有の狭心義気の発現したるものに外ならず、故に其の精神は本邦国民の指導啓発の下に韓民族永遠の幸福を希う誠意赤心に出でたるものにして、何等併呑又は占領の意に出でたるにあらざるは炳として火を睹るが如し、この一事は実に俯仰天地に愧じざる事実にして環視列国の亦等しく諒とする所ならんも、此の機に臨んで本邦の対韓国真精神を重ねて叙述するは必ずしも無用の業にあらざらんか、然れども茲に一言を禁じ能わざるは彼等をして〇〇本邦の真精神を誤解せしむる根本原因奈何に在り、余は今其の答弁を試むべく極めて不適当なる地位に在りと雖も、若し忌憚なく卑見を言わしめば、本邦国民の韓民に対する愛隣の熱度未だ十分ならざるものあるに因らざるか、語に曰く、至誠天を動かすと業に点を動かす、豈に又た人を動かし得ざるの理あらんや、吾れ若し溢るるが如き愛情と熱誠とを以て彼れに臨むあらば、彼れ如何んぞ我が赤誠を感激せざるの理あらんや、故に将来の治韓策は唯だ一の熱誠あるのみ、兄たり先輩たるの天分に顧み誠意赤心を以て誘掖、指導是れ努むるに在るのみ、夫の漫りに強者たり優者たるの地位を濫用して彼等の感情を損じ其の立場に安んぜしめざるが如きは余の断じて取ざる所なり、若し夫れ具体的の施設、方法に至りては当局既に成竹(計画)あり、局外者たる余の贅〇を容るるの余地なけん」

(2023年3月12日投稿)

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終戦(敗戦)直後の皇族の宗教(国家神道)儀式に見る価値観は今も継承され、これからも

2024-09-05 20:46:13 | 皇室

 昭和天皇は、アジア太平洋戦争中には、国家神道が祀る神々に「戦勝祈願」の「祈り」を皇居の三殿(宮中三殿)において捧げ続けていた事は周知の事実である。

 その昭和天皇は終戦(敗戦)直後の11月12日には、国家神道の神々を祀る伊勢神宮、神武天皇陵、明治天皇陵にそれぞれ「終戦(敗戦)奉告」のために参拝していた。

 また、12月3日には、皇族男子を呼び、「歴代天皇に親しく自分がお参りして終戦(敗戦)のご奉告をしたいのであるが、今の状態ではできない。みなで自分の代わりに御陵に参拝(敗戦のご奉告)してほしい」と命じた。それにより、12月初旬には、7人の皇族が手分けして全陵(治定は明治期伊藤博文の命により実施されたものでほとんどは信憑性はない)を参拝(敗戦のご奉告)したという。たとえば、高松宮は京都・月輪陵など40数陵、閑院宮は奈良・聖武天皇陵など15陵、朝香宮は大阪・応神天皇陵など16陵というようにである。

 なぜ、昭和天皇や皇族がこのような動きをしたのだろうか。その答えは「終戦(敗戦)の詔勅」のなかに明確に述べられていた。昭和天皇が国民に命じた事は、「忍び難きを忍」んで降伏し「国体(天皇制国家体制)を護持し得」た事を喜び、今後いよいよ「誓って国体の精華を発揚」する事、であったからである。

 この事はまた、国民の犠牲の苦痛も、日本の侵略が与えた隣国の苦難も、天皇制維持(護持)の一点以外のすべては問題とされていなかったという事でもあった。そして、平成の天皇も、新たな天皇も、その皇嗣子も、この昭和天皇の「終戦(敗戦)の詔勅」に込めた意志を実現する事を使命としていると考えてよいのである。

 彼らが、国民に対して、昭和天皇の「終戦(敗戦)の詔勅」を「撤回する」との意志表明をした事がないし、自己の考えを論理的に表明した事がないからである。

(2019年12月10日投稿)

 

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韓国併合条約についての明治天皇の詔書に見える政治姿勢

2024-09-05 20:40:38 | 皇室

 1910(明治43)年8月30日付東京日日新聞政府系御用新聞。毎日新聞の前身)は、韓国併合条約に関する明治天皇詔書を掲載した。内容は天皇の価値観を表しており、以下に紹介しよう。

「 韓国併合条約

   詔 書

朕東洋の平和を永遠に維持し帝国の安全を将来に保障するの必要なるを念い、又常に韓国が禍乱の淵源たるに顧み〇に朕の政府をして韓国政府と協定せしめ韓国を帝国の保護の下に置き、以て禍源を杜絶し平和を確保せむことを期せり、爾来時を経ること四年有余、その間朕の政府は鋭意韓国施政の改善に努め其の成績亦見るべきものありと雖、韓国の現制は尚未だ治安の保持を完するに足らず、疑懼の念毎に国内に充溢し民其の堵に安ぜず、公共の安寧を維持し民衆の福利を増進せむが為には革新を現制に加うるの避く可らざること瞭然たるに至れり、朕は韓国皇帝陛下と與に此の事態に鑑み、韓国を挙て日本帝国に併合し、以て時勢の要求に応ずるの已むを得ざるものあるを念い、茲に永久に韓国を帝国に併合することとなせり、韓国皇帝陛下及其の皇室各員は併合の後と雖相当の優遇を受くべく、民衆は直接朕が綏撫の下に立ちて其の康福を増進すべく、産業及貿易は治平の下に顕著なる発達を見るに至るべし、而して東洋の平和は之に依りて愈々其の基礎を鞏固にすべきは朕の信じて疑わざる所なり、朕は特に朝鮮総督を置き、之をして朕の命を承けて陸海軍を統率し、諸般の政務を総轄せしむ、百官有司克く朕の意を體して事に従い、施設の緩急其の宜きを得、以て衆庶をして永く治平の慶に頼らしむることを期せよ

 御名 御璽 

  明治四十三年八月二十九日

       各大臣副署                             」

(2023年3月13日投稿)

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伊勢神宮その他への「韓国併合」奉告勅使を伝える東京日日新聞(毎日新聞の前身)

2024-09-05 20:35:58 | 皇室

 東京日日新聞毎日新聞の前身)は1910(明治43)年8月30日版に「韓国併合条約」締結に関する記事を特集し掲載した。神道国教と定め国民に強制した神聖天皇主権大日本帝国政府がどのような体質を有していたのかを知る事ができる、伊勢神宮などへの「奉告勅使」の記事を紹介しよう。

併韓奉告祭

 韓国併合発表に付き来る九月一日宮中賢所大前に於て奉告祭を行わせらるることとなり岩倉掌典長以下各掌典は式典準備に多忙を極めつつあるが、更に伊勢神宮並びに大和神武天皇御陵、京都先帝御陵奉告の為め勅使として掌典次長公爵九条道實氏を差遣わさるべき旨二十九日御沙汰あらせられたり、右に付き九条公爵は三十日出発、先ず伊勢山田に赴き、一日午前豊受大神宮、午後皇大神宮奉告し、翌二日大和に赴き、三日神武天皇御陵奉告、畢て同日京都に参向、四日先帝御陵奉告の都合也と。」

(2024年9月5日投稿)

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