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韓国併合は既定の事実であった(『明石元二郎(1928年)』より)

2024-09-08 18:49:45 | 朝鮮問題

 金沢の連隊長であった明石元二郎は、1907年10月14日、陸軍少将となり、韓国駐箚憲兵隊長となった。1909年8月には韓国駐箚軍の参謀長となり、1910年6月に再び韓国駐箚憲兵隊長となった。韓国併合はどのようになされたのか?小森徳治著『明石元二郎』(台湾日日新報社)には以下のように記されている。

「韓国の併合は、これを全半島に渉りたる警備の上から察するに、寺内統監の着任以前、否、統監に親任以前から既に着々として其準備に着手しつつあり、何れにしても九月迄に併合の断行は、既定の計画であったようである。其証拠には、当局者たる吉田源次郎騎兵大尉の執筆に成る『日韓併合始末』に、既に『五月二四日(明治四十三年)、軍司令部により在羅南騎兵第二聯隊本部並一中隊を竜山に招致すべき内命に接し、同日同隊に出発準備をなさしむ』とあり、次に『五月二八日騎兵聯隊に関する軍命令を受領し直に同聯隊は竜山に来るべきことを命ず』とありて、更に之を説明して、『抑も騎兵聯隊を竜山に招致せられたる所以のものは、併合の為威力を要することを予期せるが為なるや明かなり』云々とあり、更に歩兵を招致するに就て、合計十五箇中隊を集むることに決し、『歩兵第三十九聯隊の一大隊七月九日午後10時』として、其次行に『歩兵第二十九聯隊の討伐隊は坡州の東南約一里に在る橋梁流失のため一日遅れて到着せり』、『此を以て合併準備の為にする軍隊の集中全部結了せり』とあるに見れば、新統監の胸中には、着任前に既に大事決行の日取等も、略々決定し居たことが推察される」

 寺内正毅統監は、軍隊に、「現在の守備隊は其全力を尽くして事前の予防及び警戒を厳重にせよ」と訓示するとともに、「人民をして政治的変動の前提の如き感を起こさしむるの行動を行ってはならない」と戒めた。地方から招致した部隊は、ゲリラ部隊の討伐という名目で竜山に集め、しかも各部隊の到着日はずらし、到着時刻は真夜中とし、大道を通らぬよう命じた。8月13日の警備会議では、松永師団長が15日までに極秘で準備を整えるよう命じた。又8月以降、韓国民を刺激しないために、兵士の夕食後の外出を禁止し、ソウル各城門、要衝、各王宮、統監府、司令部邸、閣員邸などの厳重警備を命じた。

 8月22日のソウルは、憲兵が巡回警戒し、寺内正毅韓国統監は李完用大韓帝国総理大臣との間で、クーデターと言うべき状況下で韓国併合条約の調印締結を行った。併合条約に依り韓国(1897年より大韓帝国)を廃止し「朝鮮」と改称し、統監府(1905年11月第2次日韓協約に基づき設置。初代統監は伊藤博文)を「朝鮮総督府」とし、寺内が初代総督となった。

(2024年9月8日投稿)

 

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