つれづれなるままに心痛むあれこれ

知る事は幸福度を高める

靖国神社第2鳥居右側の「高札」は、天皇の神社である事を国民に明示したものであり憲法違反

2024-09-22 22:06:24 | 宗教

 靖国神社は、その「神門」手前の第2鳥居下の左右に「高札」(掲示板)を設置しているが、主権者国民はその右側の「高札」の内容に関心を持った事があるだろうか。この高札の内容には、敗戦後であるにもかかわらず、昭和天皇が靖国神社に深く関わっていた事を示す文言が明確に示されており、看過してはならないのではないだろうか。また、神社側が今日までこの「高札」を設置し続けているのは、昭和天皇以後の各天皇もこの「高札」内容を否定する意志が無いという意志を表明していると見なして良いだろうし、破棄する意志も持っていないという事を表明していると見なしてよいだろう。 

 高札の内容には、「勅裁如件」の文言があるが、「勅裁」とは「天皇の裁可」を意味しており、昭和天皇が裁可し、それを受けて神社側が敗戦後の1946年10月に設置したものである。ここに問題がある。なぜなら、1946年2月には、神社の権宮司が全職員に対して靖国神社が宗教法人の一つとして新たに発足する事をすでに告示していたからである。また、昭和天皇が裁可した内容は靖国神社の例大祭日の変更についてのものであり、その変更を「天皇の裁可」によるものとして公表しているからである。

 神聖天皇主権大日本帝国政府のアジア太平洋戦争敗戦までの靖国神社の例大祭日露戦争戦勝記念日であり、春季例大祭陸軍青山練兵場における観兵式の日である4月30日秋季例大祭横浜沖における海軍の観艦式の日である10月23日であった。敗戦後、GHQの占領政策である靖国神社の非軍国主義化」により、1946年9月9日に「靖国神社例祭規程」の一部改正をし、旧暦の春分・秋分の日を新暦に換算し、春季例大祭は4月22日秋季例大祭は10月18日に変更する事を決めた。理由は「従来の日露戦争戦勝記念日では、戦争放棄を宣言する新憲法が発布されようとする時に、新発足の途上にある靖国神社において、この両日を例祭日として存続するのはふさわしくない」ためとしている。この変更に昭和天皇の裁可が必要だったという事を「勅裁如件」の文言が証明しているのである。

 昭和天皇は靖国神社に対して、敗戦までの神聖天皇主権大日本帝国政府と同様に政教分離の原則憲法第99条を無視した「祭政一致の原則」(国家神道体制)を敗戦後の日本国憲法下においても維持継続したのであり、彼以後の平成天皇においても現天皇においてもそれを継承している事を意味しているという事なのである。主権者国民はこれを放置看過すべきではない。

※憲法第99条……憲法尊重擁護義務。「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負うふ」

(2020年3月17日投稿) 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

パレスチナ問題(中東戦争)の発端はイギリスとアメリカの無責任外交

2024-09-22 11:05:13 | 米国の世界戦略

 パレスチナ問題の発端は、第1次世界大戦中のイギリスの外交手法にある。イギリスがパレスチナ地方に関し結んだ矛盾した3つの協定にある。

 それは先ず1915年10月、イギリスの駐エジプト高等弁務官マクマホンが、アラブ指導者フセインに対し、戦争に協力する事を条件に、アラブ人居住区の独占独立国家建設を認めると通告した「フセイン=マクマホン協定」である。この協定に基づいて、アラブは対トルコ戦を開始した。

 1916年5月には、イギリス・フランス・ロシアによるトルコ領の分割協定を結んだ事である。パレスチナの国際管理も約束したが、1915年の「フセイン=マクマホン協定」でアラブ人に独立国家建設を約束した事と矛盾し、アラブ人を怒らせた。

 1917年11月には、イギリスの外相バルフォアが、ユダヤ系金融資本の協力を得るため、ユダヤ人にパレスチナでの建国を約束した「バルフォア宣言」を表明した事である。この事は、すでに1915年に「フセイン=マクマホン協定」で、パレスチナでの独立建国を約束されていたアラブ人を怒らせた。

 第1次世界大戦後、パレスチナはイギリスの委任統治領となると、イギリスの保護下にユダヤ人のパレスチナへの移住移民が増加し、アラブ人との衝突が始まった。

 イギリスは、両者の対立を解決できず、困った揚句、アメリカ主導下の国連へ、委任統治の返上を申し出た。国連総会では1947年11月29日に、「パレスチナ分割国連決議」を採択した。その要旨は、

1、イギリスの委任統治を1948年8月1日までに終結する。

1、パレスチナをアラブ国家ユダヤ国家エルサレム特別国債管理地区3つに分割する事とし、1948年10月1日までにこれを実現する。1947年当時、全人口の3ぶんの1以下で、パレスチナ全面積の6%しか所有していなかったにもかかわらず、ユダヤ人国家に割り当てられた面積は、全パレスチナの57%を占めていた。

1、イギリス軍は1948年8月1日までに段階的にパレスチナから撤退する。

という内容であった。この決議は、多数派決議案で、表決はシオニストを支持するアメリカが多数派工作を行った結果、賛成33、反対13、棄権10。ソ連は賛成、イギリスは棄権。アラブ6カ国は全部反対であった。 決議案にはこのほかに「アラブ人とユダヤ人の連邦をつくり、エルサレムを首都とする」というインド・イラン・ユーゴスラビアによる少数派提案があった。

 国連総会の「分割決議採決」から、パレスチナは内戦状態になったが、1948年5月にイスラエルが国家樹立の宣言を行った翌日から、第1次中東戦争(=パレスチナ戦争、1948~49)が始まった。

(2023年10月24日投稿)

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする