つれづれなるままに心痛むあれこれ

知る事は幸福度を高める

原敬首相が起こした森戸事件と大本教事件から見た彼の実像

2025-01-25 10:12:21 | 宗教

 「平民宰相」といわれ、さも民衆の国民の味方のようなイメージを描くが、実像はまったく正反対で、庶民が政治意識を高め政治参加する事に至極否定的で、政府に対する批判には徹底的な弾圧を行い、神聖天皇主権の国家体制を守ろうとした。そのため、民衆の批判が高まり東京駅で国鉄職員に暗殺された。 

 原敬内閣(1918年9月29日~1921年11月5日)は米騒動の責任を負い総辞職した寺内内閣のあと元老の推薦により成立した。原は立憲政友会総裁であったが、この内閣は政友会が民衆の先頭に立って闘い取ったものではない。神聖天皇主権大日本国帝国政府が、民衆運動の高まりを抑えるために、これまでの閥族超然主義の統治方法が継続不可能となったと判断し、神聖天皇主権政治下での政党政治という統治方法をとったものである。原は民主主義を要求する民衆運動の高まりに対しては、国家体制の危機と捉え「官僚はこの潮流を遮断せんと欲し、余輩は之を激盛せしめずして、相当に疎通して大害を起こさざらん事を欲する」と『原敬日記』に記しているように、右翼団体・大日本国粋会などの結成に尽力し、これら右翼団体と結託して民衆運動を弾圧した(右翼団体の運動を国粋主義から反社会主義運動に変化させ、政党の大衆(世論)操作の一翼を担うようにした。右翼団体と政友会の密着は、民衆運動に対し暴力を用いて対抗しようとしたのである)。植民地朝鮮においては、1919年に起こった3・1独立運動を徹底的に弾圧したが、国内においても森戸事件大本教事件を起こした。

 森戸事件(1920年1月)は、東京帝国大学助教授森戸辰雄が前年末に同大経済学部機関紙「経済学研究」創刊号に掲載した「クロポトキンの社会思想の研究」に対する弾圧であった。1920年1月13日の『原敬日記』には、「共産無政府主義なるクロポトキン主義を執筆したる森戸東京大学助教授起訴の件、閣僚に諮り不得巳起訴の外なしと決定したるに因り、鈴木司法次官を招き起訴の内訓をなしたり。但「経済学研究」と称する雑誌に登載ありしに因り、同雑誌編輯人大内助教授も同時に起訴する事となしたり。近来教授等如何にも無責任にて国家の根本を考えざるが如き行動多きに因り、国家の前途に甚だ憂慮すべしと思う。因て此際断然たる処置を取る事となせり」とある。この事件の火付け役は上杉慎吉指導の東大右翼学生の組織・興国同志会であった。

※下記は2019年11月11日投稿の内容を再投稿したものです。

 大本教事件(1921年2月)は、大本教に対する弾圧であった。大本教は出口直を教祖として日露戦争の頃発展した。出口王仁三郎の指導により第1次世界大戦ととも教勢を増した。原は戦後の不況で悪化した社会情勢と人心の動揺を怖れて、徹底的に弾圧した。信教の自由を圧殺する事により神聖天皇主権国家体制を死守する事を目的として起こした政治的事件である。1920年10月9日の『原敬日記』には、「余は我国宗教の力は殆ど全滅したる結果として大本教の如きものすら蔓延する勢いなれば、耶蘇教の如き近来非常の勢いを以て伝播せり。……而して儒教、仏教皆日本化したるが如く、耶蘇教も日本化する様子なりしも、何分外国宣教師によりて宣伝さるると又欧州大戦の影響として人の動揺を来したる際なるに因り、将来如何なる状況を呈せんも知るべからず、斯くの如き形勢なる独り教育の力を以てのみ人心を指導せんとするは、実に至難の事業なり、併し何とかせざるべからずと考え講究中なりと云い置きたり」と記している。

(2020年8月30日投稿) 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

貞明皇后(大正天皇の正妻))設立「財団法人・らい予防協会」の役割:天皇制には「軍国」と「慈愛」の2つの顔がある。「慈愛」は「軍国」を隠蔽するもので人権尊重に基づく行為ではない

2025-01-25 10:07:48 | ハンセン病

 明治以降の「天皇制」には2つの顔がある。1つは「軍国」の顔であり、もう1つは「慈愛」の顔である。そして、「慈愛」の顔国民を懐柔し統合する事を目的として行われてきたのである。敗戦後の日本国憲法に定められた「国事行為」の中の特に「栄典の授与」や、「生前譲位のお言葉」にある「象徴的行為」(公的行為)がそれに当たる。

 「軍国」の顔は、天皇は陸海軍の最高司令官であり、元首であり、政治と軍事の最高権力者の地位にあった事。また、男性皇族は全員軍人となり、軍国日本の象徴であった事である。もう1つの「慈愛」の顔は女性皇族の「慈愛」の顔で、彼女たちはそれに適った役割を担ってきた事である。「坤徳」という言葉があるが、これは「皇后の恩」という意味であり、皇后及び女性皇族は積極的に社会事業に関わっていった。

 たとえば、大正天皇の貞明皇后は「ハンセン病」に関わり、昭和天皇の香淳皇后は「結核予防」に関わっていた。こうした人たちを「憐れむ」(同情)事、これが「坤徳」である。女性皇族は傷痍軍人の慰問に関わった。

 1931年に「満州事変」を引き起こした神聖天皇主権大日本帝国政府は、兵士として使用するたくさんの健康な国民を必要とした。そのため、「ハンセン病」の感染を防ぐためとして患者の隔離を徹底して行おうとした。隔離を推進するために、内務省からの要望で貞明皇后がお金を出し「財団法人 らい予防協会」を設立(1931年)した。そして、皇后の慈悲深い気持ち(坤徳)により、患者は救済され、患者も喜んで隔離されるのだ、という認識の下で「隔離競争」が行われたのである。

 同年、神聖天皇主権大日本帝国政府は、「らい予防法」を制定し、全患者の強制絶対隔離・生涯隔離をめざした。あわせて「無らい県運動」も推進展開した。

 敗戦後の1951年になると、患者は「全国国立らい療養所患者協議会」を結成し、政府に対して、「らい予防法」の「改正」を訴える運動を起こした。強制隔離の廃止、完治者の退所を認めよ、と患者が立ち上がったのである。

 この動きに対し、「財団法人 らい予防協会」は、どのような対応をしたのかという事が主権者国民にとって重要である。1952年に貞明皇后が死去した。そのため、皇后の遺産を基金にして新たに「財団法人 藤楓協会」がつくられ、この総裁に高松宮がなり、その後には三笠宮の息子がなり、敗戦までと同様に皇族が「慈愛」を与えていく事となったのである。

 この「財団法人 藤楓協会」では、改正を訴える患者に対してどのような対応をしたかというと、「人権を主張すると社会の同情がなくなる。あなたたちは皇族や国民の同情によって生きているのだ。かわいそうだから予算を増やしてやっているのだ」という論法、、つまり「国家政府に刃向かうな、同情をありがたいと思え」という論法で運動を抑え込んでいったのである。つまり、皇室の「慈愛」は、患者が権利を主張し改正を求める運動を「否定」したのであり、そのため運動は抑え込まれたのである。

 そして、1953年、日本国憲法下の政府(現自民党系)は、「改正らい予防法」を強行に制定した。内容は、入所者の反対にもかかわらず「隔離を継続する」事としたのである。

 「財団法人 藤楓協会」は2004年に解散し、「ふれあい福祉協会」と名称変更したが、解散の最後まで、「隔離に加担した」とは一切言わず、「患者のために尽くした」と言い続けたのである。この主張が事実と正反対である事は明白である。

 敗戦後、天皇制は「軍国」の顔を消す事により、生き残った。そして、皇后や女性皇族のみならず天皇や男性皇族も「慈愛」の顔を持つようになった。昭和天皇の弟たちも「慈愛」の顔をもち、スポーツ・学術・社会事業に関わった。そのため、天皇や皇后、皇太子や皇太子妃、その他の皇族に対するイメージも国民の間では変化した。しかし、この「慈愛」の顔こそ「軍国」の顔をサポートする顔として、「軍国」の顔を巧妙に隠蔽し国民を欺瞞する役割を果たしているのである

 現在においては、国事行為の中の特に「栄典の授与」(叙勲)や恩赦などや、公的行為(象徴的行為・公務)のすべてはこの「慈愛」の顔に当たるものである。この「慈愛」の顔は、国民を「懐柔」する事を目的としており、「懐柔」する事により「思考停止」させ、国民を「統合」する手法としてあらゆる分野で行われているという事である。それは結果的には、時の政権(現在は安倍自公政権)の政治政策に対する国民の不満や怒りをなだめ緩和したり反らせたり、国民を情緒的な判断に流れさせたり、疑問を持たせず反対させずに支持受容させる効果を生み出す事となり、時の政権の政治政策を正当化し補強する役割を果たす事になっているのである。また、天皇皇族がその役割を果たすために膨大な国民の税金が使われているという事も重要視しなければならない。

 「生前譲位のお言葉」では、この「公的行為」(お言葉では「象徴的行為」としているもの)や「国事行為」についての意向を述べているが、「公的行為」については法的に規定されたものではないという事と自ら増やしたものであるという背景を考えれば、この際厳密に法に則り、すべてを廃止すればよいのではないか。

 上記「お言葉」では「天皇の高齢化に伴う対処の仕方が、国事行為や、その象徴としての行為を限りなく縮小していく事には、無理があろうかと思われます」と述べているが、法に則る事こそ重要である。廃止した場合、天皇としては、主権者国民には明らかにしていない何らかの不都合が存在するという事なのだろう。この言葉にはそのような意味も感じられる。例えば、毎年、国民体育大会開催参列に合わせて、敗戦までの国家神道(靖国神社)の支社であり、敗戦後は憲法違反である国家神道の思想を堅持しながら全国都道府県に息をつないで存続する指定護国神社などとの関係を温めてきた(幣せん料などの経済的支援)慣例も継続できなくなるなどのように。この事は靖国神社の存立にも大きく関わっている。

 また、「宮中祭祀(皇室神道)」についても、廃止すべきであろう。「宮中三殿」やその「祭祀」自体が、明治時代になって、明治政府の国家神道樹立の意図に基づいて整備されたものなのだから。つまり、政府がつくった新興宗教なのだから。また、日本国憲法では「国家神道」を否認しているにもかかわらず、「伝統」として「継承」している事自体が本来問題とされるべき事なのであるから。国民が、時代が進むとともに生活も変化するのにあわせて、「冠婚葬祭のしきたり」も変えてきたように、皇室もそのしきたりを変えていかなければ、天皇はもちろん家族(皇族)が実生活上で矛盾を深め苦悩するだけである。

 ちなみに、1907年に法律第11号「らい予防に関する件」が制定されてから90年後の1996年になってやっと「らい予防法」は廃止(第1次橋本龍太郎内閣)された。患者は1998年には「ハンセン病国家賠償請求訴訟」を起こし、2001年には熊本地裁で「過度に人権を制限したらい予防法は違憲」「国が必要のない隔離を続けたのは憲法違反」という判決を得て全面勝訴した。同年6月「ハンセン病補償法」(植民地であった韓国・台湾も含む)の施行も実現させた。2008年には「ハンセン病問題基本法」も成立させ、国連人権理事会において日本政府の提案した「ハンセン病差別撤廃要求」が初決議された。

 天皇制の「慈愛」の顔は「同情、憐れみ」であり、それは日本国憲法が保障する「個人の権利や人権」を否定する「差別」的態度であり、「人権侵害」の姿勢態度そのものである。そして、「軍国」の顔を隠蔽し主権者国民を欺瞞するためのものでしかない。

 安倍自公政権は、2020年3月13日に、天皇の即位にあたり、天皇が社会福祉事業に合計1億円以内の寄付(寄付先は天皇の威光を踏まえて選定、発表されるという)を行う事を可能とする議決案を国会に提出する事を閣議決定した。

 この決議案は、安倍自公政権が、上記のような神聖天皇主権大日本帝国時代の政治手法をテキストにしたもので、天皇皇室を政権維持強化のために政治的に利用する企て以外の何ものでもない。寄付金は天皇の私費(内廷費)を充てるとの事であるが、その金は自分で稼いだという意味の「私費」ではなく、国民の税金である。天皇は年間3億2400万円(内廷費)もの国民の税金で生活が出来ている(実際にはその他を含め約300億円位?)にもかかわらず、自分の「カネ」であるがごとくに寄付行為に充てる事は許される事ではないのは当然であろう。

 これは国会議員などが政党助成金を国民への寄付行為として使用する事が認められないのと同じような事である。また、これは天皇の寄付先が社会福祉事業に対してであろうと認められないのは同様である。寄付をする意志があるのであれば、内廷費減額返金する意志表示こそすべきであろう。上皇が生前譲位の意志表示をしたほどであるから、その気があれば天皇もそれ位できるだろう。それをしないのはそのような考えがないからであり、その意志がないからであろう。安倍自公政権も天皇皇室もどちらも、改めて言うが、「同じ穴の狢」だという事である。主権者国民はもう気づいてもよさそうなものだが、現実はそうはならず、「ずる賢い為政者」=安倍自公政権が圧倒的多数の「お人好し」な主権者国民を欺き続けるのだろう。

(2023年10月25日投稿)

 

 

  

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

朝日新聞記事「御養蚕始の儀」:朝日自身の価値観を憲法に照らして記事を書け

2025-01-25 09:52:19 | 皇室

 朝日新聞は、雅子皇后が2020年5月11日、皇居内の紅葉山御養蚕所で「御養蚕始の儀」を初めて行った事を伝えた。そして、この「」の意味については、「明治以降、歴代の皇后が引き継いできた伝統行事である」とする極めて粗雑な説明で済ませている。これでは「フェイク記事」と言われても仕方がないだろう。また、読者はこの記事により、誤った歴史を植え付けられてしまうだろう。

 なぜ、このような雑な説明しか行わないのだろうか。理由を考えてみた。それは、皇室の慣例の儀礼行事の一つであるから実施する事は「当たり前」で、それを主権者国民に伝えているだけだと単純に考えているのだろうか。しかし、それではあまりに浅薄な認識で記事を書いているという事になる。まさかそんなはずはないだろう。それならばなぜだろう?考えられる事は「意図的に」このような記事を書いたのではないかという事である。それは多分、主権者国民に皇后や天皇・皇族に対する親近感とさらには敬意を育ませる事を目的としているためなのではないかという事である。

 「御養蚕始の儀」は「明治以降の皇后」が引き継いできた、と説明しているが、主権者国民に対して、もう少し丁寧な説明をすべきであろう。「明治以降」としているがそれは何故かを詳しく説明すべきである。この「儀礼」は神聖天皇主権大日本帝国政府が、国民の精神的支柱とするべく生み出した新興宗教「国家神道(天皇教)」に基づき、皇后の役割として「創出」したものであり、当時の輸出基幹産業であった「生糸産業の発展」を皇祖皇宗(天照大神に始まる歴代天皇)に祈るためのものであったのである。このような背景があるにもかかわらず、説明しない書かない手法は、読者(主権者国民)に「欺瞞」「洗脳」効果を期待する手法と言って良く、まるまる「ウソ」を書く手法と同類である。朝日新聞はこの「儀」が、帝国政府により極めて政治的な意図をもって創られた「儀礼」である事を主権者国民に伝えるべきなのである。

 ちなみに、明治以降の神聖天皇主権の「天皇制」には2つの顔がある。1つは「軍国」の顔であり、もう1つは「慈愛」の顔である。そして、「慈愛」の顔は、臣民(国民)を懐柔し統合する事を目的として見せてきた「顔」である。敗戦後の日本国憲法に定められた「国事行為」の中の特に「栄典の授与」や、「生前譲位のお言葉」にある「象徴的行為(公的行為)」がそれに当たる。また、「慈愛」の顔は女性皇族の「慈愛」の顔で、彼女たちはそれに適った役割を担ってきた。「坤徳」という言葉があるが、これは「皇后の恩」という意味であり、皇后及び女性皇族は積極的に社会事業に関わってきた「顔」である。

 「軍国」の顔は、天皇陸海軍の最高司令官であり、元首であり、政治と軍事の最高権力者の地位にあった事。また、男性皇族は全員軍人となり、軍国日本の象徴であった事である。 

 敗戦により、神聖天皇主権大日本帝国政府が崩壊したあと、新憲法の下に、国民主権の新しい日本国が樹立され、天皇・皇族も、憲法を「尊重擁護」しなければならない立場に立つ事となった。という事は、天皇・皇族は、政府の1機関と考えるべきであるから、憲法第20条3項に定められた「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない」という事や、第89条に定められた「公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため、又は公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない」という事を「尊重擁護」しなければならないという事である。

 そのように考えると、朝日新聞は、皇后が上記の「御養蚕始の儀」を手前勝手に「伝統」として継承してきた事自体を憲法違反の行為として問題とすべきであり、また、軽率に「伝統」という言葉を使用して説明をするべきではなく、皇后(天皇家)に対して直ちに廃止するよう要求する事を目的として記事を書くべきなのではないのだろうかと考えるのだが。

 皇后や天皇・皇族も「御養蚕始の儀」を行う事などが今日まったく無意味である事を理解すべきである。また、そのために、主権者国民の税金がいかに無駄に費やされているかを理解すべきである。

憲法第88条「すべて皇室財産は、国に属する。すべて皇室の費用は、予算に計上して国会の議決を経なければならない」

(2020年6月19日投稿)

※2022年6月12日朝日新聞は「皇室の伝統行事「養蚕」は明治以降、歴代皇后が継承し、約150年続いてきた。皇后さまは2020年から取り組んでいる。今年は5月11日に「御養蚕始の儀」に臨み、同月19日には天皇陛下とともに蚕に桑の葉を与える「御給桑」を、今月1日には長女愛子様も加わってご一家で、御給桑と、繭造り用の器具である蔟に蚕を移す「上蔟」も行った」と載せた。

※2022年7月13日朝日新聞は「皇后さまが、皇居内の紅葉山御養蚕所で『御養蚕納の儀』に臨んだ。宮内庁によると、皇后さまは、純国産種の「小石丸」と、白繭、黄繭の生糸の束を供えた神前に拝礼した。同庁は同日、生糸の写真を公開した。同庁によると、皇后さまはコロナ禍に伴う様々な制約などがある中、無事に御養蚕納の儀を迎えられ、関係者に感謝の気持ちを示していたという。美しくつややかな生糸を見た皇后さまは、歴代皇后が大切に引き継いできた養蚕を今年も無事に終えられた事を、感謝の気持ちとともに、感慨深く思っている様子だったという。」と載せた(2022年7月13日)。

※2024年6月5日朝日新聞は「皇后さまは4日、皇居内にある紅葉山御養蚕所で、カイコに桑の葉を与える『御給桑』に臨んだ。今年は純国産種『小石丸』約5万頭などを飼育しており、この日は小石丸のカイコ400頭に桑の葉を一枚一枚丁寧に与えていた。カイコがすぐに葉の上に登ってくる様子を見て『もう(葉の上に)上がってきている』などと目を細めつつ、作業にあたっていた。養蚕は明治時代から皇后に受け継がれている伝統行事。」と載せた(2024年6月5日)。

 

 

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする