西南戦争(1877(明治10)年2月15日~9月24日)田原坂の戦いで、西郷軍はどのような戦い方をしたのか。当時の新聞記事に見てみよう。一言でいえばそれは、太平洋戦争の末期の日本軍の戦争指導者の戦い方とまったく同じであったといえる。
政府軍については、「……前報に田原坂の樹木は一寸間毎に銃丸を打ち込まれざるはなしと記したるが、官兵(政府徴兵軍)の費消する数を聞くに田原、二俣等の戦には、1日概数25万発(スナイドル銃)に下らず、その最も多き日は35万発より40万発に及び、大砲は12門にて1000発以上を打発したり」(郵便報知新聞・1877(明治10)年4月11日)
それに対し西郷軍は、「賊兵は弾薬に乏しきにや、田原坂の戦いに河原の小石を以て銃丸に用いたるよし」(朝野新聞・明治10年4月11日)。また「賊徒の屯集したる田原坂の胸壁中に、馬の骨を数知れぬ程積置きたるを見れば、兵糧欠乏ゆえ馬を屠殺して喰らいしなるべし」(東京曙新聞・明治10年4月5日)
西郷軍は、田原坂の戦いで敗北後、潰乱状態となり、奇襲や斬り込みなどゲリラ的戦い方となり、「玉砕」という言葉を使用するようになった。
「この頃日向の宮崎にて戦死せし賊が死体の懐中に左の通りな廻文が有りしよし、その写しは『諸隊順達』。瓦となって完からんより玉と成って砕けよとは、各自予て知る所、今更又何をかいはん、当軍さきに告示せし如く、既に金城湯池を失い、わずかに日向の一地に拠るのみ、然りと雖も未だ一人当千の勇士に乏しからず、豈おめおめと敵に降り軍門に惨刑せらるるを愧じざらんや、国に報い義を重んずる者、戮力奮戦以て同日同刻に斃れんことを期す」(浪花新聞・明治10年8月26日)と「玉砕」を命じている。
この背景のある西郷軍幹部の当時の意識は、「最早賊徒の兵気は余程衰えたるものと見えて、この頃降伏人の云う所に拠れば、近頃は別府晋介、逸見十郎太らをはじめ賊徒の重立たる者は皆砲塁の後ろに抜刀をして控え、若しや兵士に卑怯の者か或は敵に降らんとする者あれば、直ちにその場において首を刎ね、以て兵気を鼓舞するくらいの勢いなりという」(東京日日新聞・明治10年7月24日)状況となっていた。
この後の西郷軍の様子は、「確乎たる部署もなく亦一定の戦略もなく」「十分の糧食を輸送する事を得ず」「その糧食窮し」「その弾薬乏しく到底戦わずして自ら斃れ」「官軍に抗するものなかりき、この如きが故に賊兵の降伏は昨今最も夥しく、6000名に達したり」「西郷これ無恥の最も甚だしきものなり」(東京日日新聞・明治10年9月5日)と報道されている。
(2018年2月25日投稿)