「平民宰相」といわれ、さも民衆の国民の味方のようなイメージを描くが、実像はまったく正反対で、庶民が政治意識を高め政治参加する事に至極否定的で、政府に対する批判には徹底的な弾圧を行い、神聖天皇主権の国家体制を守ろうとした。そのため、民衆の批判が高まり東京駅で国鉄職員に暗殺された。
原敬内閣(1918年9月29日~1921年11月5日)は米騒動の責任を負い総辞職した寺内内閣のあと元老の推薦により成立した。原は立憲政友会総裁であったが、この内閣は政友会が民衆の先頭に立って闘い取ったものではない。神聖天皇主権大日本国帝国政府が、民衆運動の高まりを抑えるために、これまでの閥族超然主義の統治方法が継続不可能となったと判断し、神聖天皇主権政治下での政党政治という統治方法をとったものである。原は民主主義を要求する民衆運動の高まりに対しては、国家体制の危機と捉え「官僚はこの潮流を遮断せんと欲し、余輩は之を激盛せしめずして、相当に疎通して大害を起こさざらん事を欲する」と『原敬日記』に記しているように、右翼団体・大日本国粋会などの結成に尽力し、これら右翼団体と結託して民衆運動を弾圧した(右翼団体の運動を国粋主義から反社会主義運動に変化させ、政党の大衆(世論)操作の一翼を担うようにした。右翼団体と政友会の密着は、民衆運動に対し暴力を用いて対抗しようとしたのである)。植民地朝鮮においては、1919年に起こった3・1独立運動を徹底的に弾圧したが、国内においても森戸事件や大本教事件を起こした。
森戸事件(1920年1月)は、東京帝国大学助教授森戸辰雄が前年末に同大経済学部機関紙「経済学研究」創刊号に掲載した「クロポトキンの社会思想の研究」に対する弾圧であった。1920年1月13日の『原敬日記』には、「共産無政府主義なるクロポトキン主義を執筆したる森戸東京大学助教授起訴の件、閣僚に諮り不得巳起訴の外なしと決定したるに因り、鈴木司法次官を招き起訴の内訓をなしたり。但「経済学研究」と称する雑誌に登載ありしに因り、同雑誌編輯人大内助教授も同時に起訴する事となしたり。近来教授等如何にも無責任にて国家の根本を考えざるが如き行動多きに因り、国家の前途に甚だ憂慮すべしと思う。因て此際断然たる処置を取る事となせり」とある。この事件の火付け役は上杉慎吉指導の東大右翼学生の組織・興国同志会であった。
※下記は2019年11月11日投稿の内容を再投稿したものです。
大本教事件(1921年2月)は、大本教に対する弾圧であった。大本教は出口直を教祖として日露戦争の頃発展した。出口王仁三郎の指導により第1次世界大戦ととも教勢を増した。原は戦後の不況で悪化した社会情勢と人心の動揺を怖れて、徹底的に弾圧した。信教の自由を圧殺する事により神聖天皇主権国家体制を死守する事を目的として起こした政治的事件である。1920年10月9日の『原敬日記』には、「余は我国宗教の力は殆ど全滅したる結果として大本教の如きものすら蔓延する勢いなれば、耶蘇教の如き近来非常の勢いを以て伝播せり。……而して儒教、仏教皆日本化したるが如く、耶蘇教も日本化する様子なりしも、何分外国宣教師によりて宣伝さるると又欧州大戦の影響として人の動揺を来したる際なるに因り、将来如何なる状況を呈せんも知るべからず、斯くの如き形勢なる独り教育の力を以てのみ人心を指導せんとするは、実に至難の事業なり、併し何とかせざるべからずと考え講究中なりと云い置きたり」と記している。
(2020年8月30日投稿)