パレスチナ問題の発端は、第1次世界大戦中のイギリスの外交手法にある。イギリスがパレスチナ地方に関し結んだ矛盾した3つの協定にある。
それは先ず1915年10月、イギリスの駐エジプト高等弁務官マクマホンが、アラブ指導者フセインに対し、戦争に協力する事を条件に、アラブ人居住区の独占と独立国家建設を認めると通告した「フセイン=マクマホン協定」である。この協定に基づいて、アラブは対トルコ戦を開始した。
1916年5月には、イギリス・フランス・ロシアによるトルコ領の分割協定を結んだ事である。パレスチナの国際管理も約束したが、1915年の「フセイン=マクマホン協定」でアラブ人に独立国家建設を約束した事と矛盾し、アラブ人を怒らせた。
1917年11月には、イギリスの外相バルフォアが、ユダヤ系金融資本の協力を得るため、ユダヤ人にパレスチナでの建国を約束した「バルフォア宣言」を表明した事である。この事は、すでに1915年に「フセイン=マクマホン協定」で、パレスチナでの独立と建国を約束されていたアラブ人を怒らせた。
第1次世界大戦後、パレスチナはイギリスの委任統治領となると、イギリスの保護下にユダヤ人のパレスチナへの移住移民が増加し、アラブ人との衝突が始まった。
イギリスは、両者の対立を解決できず、困った揚句、アメリカ主導下の国連へ、委任統治の返上を申し出た。国連総会では1947年11月29日に、「パレスチナ分割国連決議」を採択した。その要旨は、
1、イギリスの委任統治を1948年8月1日までに終結する。
1、パレスチナをアラブ国家、ユダヤ国家、エルサレム特別国債管理地区の3つに分割する事とし、1948年10月1日までにこれを実現する。1947年当時、全人口の3ぶんの1以下で、パレスチナ全面積の6%しか所有していなかったにもかかわらず、ユダヤ人国家に割り当てられた面積は、全パレスチナの57%を占めていた。
1、イギリス軍は1948年8月1日までに段階的にパレスチナから撤退する。
という内容であった。この決議は、多数派決議案で、表決はシオニストを支持するアメリカが多数派工作を行った結果、賛成33、反対13、棄権10。ソ連は賛成、イギリスは棄権。アラブ6カ国は全部反対であった。 決議案にはこのほかに「アラブ人とユダヤ人の連邦をつくり、エルサレムを首都とする」というインド・イラン・ユーゴスラビアによる少数派提案があった。
国連総会の「分割決議採決」から、パレスチナは内戦状態になったが、1948年5月にイスラエルが国家樹立の宣言を行った翌日から、第1次中東戦争(=パレスチナ戦争、1948~49)が始まった。
(2023年10月24日投稿)