2019年1月も伊勢神宮に参拝した。そして参拝後に年頭会見し、「戦後日本外交の総決算を行う」と宣言した。
メディアは、2018年1月4日安倍自民党首相が、伊勢神宮を参拝した後、年頭の記者会見をし、「改憲原案提示に意欲」を示した事を伝え、自民党内の昨年末からの論点整理を加速させ条文案をまとめたうえで各党との協議に入りたい考えがある事や、改正(改悪)に対する考え方などを伝えていた。
しかし、ここで思うのだが、このような事も国民にとって大事な情報ではあるが、もっと大事な見過ごしてはならない事について指摘批判すべきではないのか。それは、敗戦後、国家神道(神社境内地は国有地であった)が解体された翌2月3日(1946年)、国家神道時代の天皇中心の国体の教義と神社の中央集権的編成を存続させる事を目的に設立された宗教団体神社本庁が、庁規の第61条に「伊勢神宮は神社の本宗とし本庁之を輔翼す」(伊勢神宮を頂点として神社本庁が全国約8万の神社を統率する)と定めた「伊勢神宮」に安倍首相が参拝した事についてである。伊勢神宮は「古事記」「日本書紀」の建国神話にある「天照大神」を祀る場所であり、この神は天皇家においてはその祖先とされ、国家神道の中核となっていた皇室神道(宮中祭祀)の最高神(天皇が最高祭祀者)であり、安倍首相の参拝はその神に参拝する事であるからである。この行為は、つまり、伊勢神宮参拝行為は「憲法違反」そのものであり、それも確信犯であり批判すべき行為である。
敗戦後の現行日本国憲法は主権者国民の精神の自由を守るために、その弊害となっていた神聖天皇主権大日本帝国政府とその支配原則「政教一致の原則」を廃し、戦後の政府に対し「政教分離の原則」を明確に定めたのである。安倍首相の参拝行為はこのような歴史的経過を傲慢に無視したマニアックな戦前回帰を目論む狂信的行為である。また安倍首相は、「天皇」を「きどった」行為をする事に、自己満足をしているのではないだろうか。
そしてその参拝目的は、「憲法改正(改悪)実現の祈願」と考えてよいであろう。つまり、安倍政権による政治は、「神頼み」の政治・「政教一致」の政治と化しているのである。
神聖天皇主権大日本帝国下においては、その帝国成立時の「五か条の御誓文」(維新政権の基本方針)の発布は、明治天皇が公家・大名・百官を率いて「天地神明に誓う」という形式で行われた。
また、大日本帝国憲法の発布は、明治天皇が、天照大神の霊を祭る宮中の賢所で、天皇家の祖先に皇祖皇宗の統治の大法を時代の進歩の中で明らかにするために、皇室典範と憲法を制定した事を告文で報告した。これは欽定憲法の最初の儀式であった。その後、大臣以下高官が列席する正殿において、天皇より臣下に憲法を与える事を象徴する憲法発布の式典が行われた。まず天皇の不磨の大典宣布の宣言があり、伊藤博文枢密院議長の奉呈する憲法を、天皇自ら黒田清隆内閣総理大臣に授与して式は終了した。天皇の正殿への入退場時には君が代が流れた。
安倍自公政権が行っている事はすべて、「自民党憲法改正草案」の中身の既成事実化なのである。この手法は麻生副総理の言葉「ナチスのやり方を……」に示されている。
安倍自公政権にはもちろんであるが、メディアの情報操作にも騙されてはいけない。情報操作の手法には色々あるが、「問題として取り上げない」という事もその一つであるから。
ついでながら、最近、若者たちが(大人たちもかな?)、メディアによって、音楽やダンスなど芸能界からの包囲攻撃を受けており、冷静に客観的に政治や社会や人間関係や自分自身について、どうあるべきかを考える事ができなくされているように思われる。この状態も、安倍自公政権の国民統治(支配)の政治的策略によって生み出されている事を見抜いた対応をすべきだと思うがどうだろう。この政策は昔からの権力者・為政者が支配下においている者に行う常套政策であるが、ヒトラーの政策からもそれがうかがえるのでを紹介しておこう。
ヒトラー(ナチス・ドイツ総統)の1942年の東方植民地政策についての談話によると、
「被征服民族に対して学校教育を強制してもいけない。ロシア人・ウクライナ人・キルギス人などが読み書きできる事は、我々の害になるばかりだ。読み書きができると、頭の良い者が歴史的知識を獲得し、政治的思考を我がものにして、ついにはドイツに反逆する恐れがあるからだ。従って、彼らに教育を与えるよりも、ラジオ拡声器(現代ならスマホ?)を各村落に備えてニュース(情報操作した為政者にとり都合良く情報操作した内容や方法で)を流したり、娯楽(現代ではスポーツの奨励も?)を提供した方が良い。……ラジオではむしろ音楽だけを放送すべきであり、軽快な音楽によって労働意欲を増進させるべきである」という政策の実施を命じている。
(2018年1月4日投稿)