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釜ヶ崎の発祥と大阪府の労働者支援施設「あいりん総合センター」強制退去執行

2024-12-02 13:51:35 | おおさか維新の会

 2024年12月1日、大阪府市職員府警機動隊ら総勢500人以上が、大阪市西成区釜ヶ崎の労働者支援施設「あいりん総合センター」から、野宿者たちを強制退去を執行した。「センター」は、1961年の第1次西成暴動を受け、路上で労働者を募る青空労働市場を監督するため、政府大阪府市が1970年に建設した。「センター」には、日雇い仕事を求めて労働者が集まる「寄せ場」や無料・低額で診療する病院施設などがあり、労働者が交流する「拠り所」でもあったが耐震性の問題で、大阪府市が2016年に現地での建て替えを決定し、2019年に閉鎖していたがその後も野宿者が寝泊まりしていた。今後、解体・建て替えを予定している。なぜ今強制退去を執行したのかを考えると、「大阪万博開催を来年に控えて、野宿者が生活する地域の環境を一掃し一変させたい」とのおおさか維新の会による大阪府市行政の目論見であろう事は明らかであろう。

 さて、「釜ヶ崎」という地域の発祥の歴史について紹介したい。

釜ヶ崎」は1901(明治34)年に「梅田新道」と同時に生まれた。きっかけは、1903年5月16日の勅令で「第5回内国勧業博覧会を、1903年3月1日より7月31日まで、大阪市南区天王寺今宮に開設す」と決定した事にある。内国勧業博覧会は、大久保利通内務卿が1877(明治10)年、「国内の産業を奨励し、輸出貿易を伸ばそう」と提唱した事に始まるが、1899年11月の第14回帝国議会で第5回の開催地が議題となった。日清戦勝景気の反動で1896年から不況のどん底で、暗澹たる金融恐慌に襲われていた大阪は「勧業博景気直しを……」と誘致合戦を行い、東京、名古屋を蹴落として決定した。

 会場予定地は「天王寺今宮」と「堺水族館用地」の2つであった。天王寺村会場は、阪堺線恵美須町駅~同霞町~阿倍野橋交差点~四天王寺西門交差点を結ぶ。茶臼山から海が見える景観と、大阪鉄道(現JR関西線)天王寺駅に近い便利さが買われた。

 開催決定と同時につくられた協賛会の住友吉左衛門会長らは、梅田すてん所(現JR大阪駅)~船場・島之内~会場への幹線道路建設を計画したが、島之内から南の郊外へ通じる道は堺筋(堺に通じる旧紀州街道)1本だけ。これを拡張するしか方法はなかった。その会場予定地までの途中に、江戸時代から木賃宿を中心に発生した、いわゆる「スラム街」の「長町」(名護町とも言った)があった。堺筋・日本橋1丁目から南の地域。松坂屋跡近くでは東は松屋町筋、西は南海本線あたりまで広がっていた。紙屑拾い、乞食、人夫、行商人など約3000戸に約1万人が住んでいた。

 1901年に道路拡張工事を開始した。「この道を天皇が通る」とここの住民を強制立ち退きさせた(強制退去執行)。住民たちはその南側を走っていた大阪鉄道を渡ったところの野菜畑に移住した。畑の中に掘っ建て小屋を建て、畑がスラム化し、そこが「釜ヶ崎」となったのである。

 そして、淀屋橋から梅田すてん所へ(梅田新道)は、大江橋~蜆橋~お初天神へと通じていたが、曲折が多かったので、ここでも「この道は天皇が通る」と住民を強制的に立ち退かせ(強制退去執行)、新道をつくった。

この度の、「釜ヶ崎」における「あいりん総合センター」の「解体・建て替え」と「野宿者」の「強制退去執行」には感慨深いものがある。

(2024年12月2日投稿)

 

 

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