五代友厚(1835~85)は辞書によれば以下の如し。
「薩摩藩出身。1857年長崎に遊学、59年上海に渡航して世界貿易への視野を広げ、63年の薩英戦争では寺島宗則とともに捕らわれた。65年藩の留学生を率いて渡欧、フランス人モン・ブランと商社設立の契約を結び、66年帰国後は薩長を軸とした全国市場支配を計画。維新後大阪在駐の『外国官判事』を勤め、69年辞官後は『政商』として大阪中心に活躍。また『北海道開拓使官有物払下げ事件』を起こした。金銀分析所開設・鉱山経営・製藍事業などを行い、76年堂島米商会所、78年には大阪株式取引所・同商法会議所を創立、次いで大阪商業講習所の設立をはじめ、今日の大阪実業界の基礎確立及びその近代化に尽力した。」以上。
イギリスの外交官アーネスト・サトウは「五代は気品のある容貌の非常な好男子」(「維新日本外交秘録」)と評している。性格は勇猛で、死刑人が首を打ち落とされるが早いか、周囲から駆け寄り、その死人の肝臓を捕りあうという凄まじい薩摩藩独特のスパルタ教育である「生き肝とり」では、五代徳助(幼名)は常にチャンピオンだったといわれる。また父直左衛門秀堯が藩主島津斉彬から世界地図の模写を命じられた時、14歳であったが父に代わって直ちに2枚写し、1枚は自分の書斎に欠けて眺めたといわれる。16歳で開国と外国貿易の必要性を斉彬に進言して「才助」の名を得たといわれる。
「大阪堂島米商会所」の米相場は「旗振り通信」で近畿各地へ伝えられた。「旗振り」は江戸時代から堂島米市場独特の通信方法であったが、「大阪堂島米商会所」創立以降活発になった。発信場所は「旗場」と呼ばれ、「米商会所」の周りに立ち並んだ店の屋上に櫓を組んだ。「旗」は「白」と「黒」の2種類があって、「白」は市内用、「黒」は市外用であった。振り下ろすと「発信」の合図で、「右」に振れば「十位」、「左」に振れば「一位」を表し、「円」と「銭」の境目では、一旦区切りをつけたという。「堂島米商会所」は後に「堂島米穀取引所」に発展し、1939年の統制まで繫栄した。「旗振り通信」は電話の開通や高層ビルの増加でそれより前の明治末頃には姿を消したようだ。
(2025年1月23日投稿)