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甲午農民戦争のブルジョア新聞『毎日』『報知』報道、伊藤内閣がクーデターで始めた日清戦争

2024-11-10 14:34:51 | 朝鮮問題

 甲午農民戦争は1894年2月に朝鮮南部で起こった。「斥倭洋倡義」(排日と減税を要求するの意)のスローガンを掲げた、反封建反侵略の農民軍による閔妃政権と大日本帝国政府の傀儡大院君政権に対する闘いであった。日本軍によって農民軍には3万以上の死者が出た。

 5月末に農民軍が全羅北道全州(道庁所在地)を占領すると、朝鮮閔妃政権は清国に救援を求めた。甲申事変(1884年12月。日本政府日本公使日本知識人が朝鮮親日改革派金玉均らを援助して起こしたクーデター。閔妃の救援要請を受けた清国軍に敗れ失敗)後、日本政府が強引に清国に結ばせた天津条約(1885年4月18日)を理由に第2次伊藤(元勲)内閣も出兵の動きを見せた。

 甲申事変について、日本の一般国民はまったく真相を知らされなかった。メディアも記事は厳しく管制されており清国排斥感情を煽る日本の被害記事のみを伝えたため、世論は反清国感情一色となった。政府系の『報知』『毎日』の論調は、事変の責任は朝鮮にはなく清国にあるとみなし、清国兵の朝鮮撤退、内政不干渉、朝鮮の独立の承認および日本への賠償と謝罪を一致して要求していた。『毎日』が戦争回避論を述べるのに対し、『報知』は強硬で、もし要求が拒絶されるなら、太沽・天津を陥れ、北京城下の盟を結べと武力解決論を主張していた。旧自由党員の動きはさらに過激で、『自由党史』には、高知では板垣・片岡が先頭に立ち、義勇兵を編成して昼夜猛特訓をし、鹿児島・長野・福島・富山・宮城などにも従軍を願い出る者や献金をする者が続出した。大井憲太郎は日本人の手で朝鮮改革を断行し、再び日清両国間に緊張を作り出す事が日本の国内改革に有益であるとし、閔妃派を爆弾で倒し親日派に政権を取らせ、清国からの独立と民主改革をやらせるという計画を立てたが事前に発覚した(大阪事件。1885年1月23日)。甲申事変にも関わった福沢諭吉は同年、「脱亜論」で「西洋の文明国と進退を共にし、その支那朝鮮に接する法も隣国なる故にとて特別の会釈に及ばず」と訴えていた。

 帝国議会においては、1890年第1議会で第3代首相山県有朋が「主権線(国境)」と「利益線(朝鮮)」の防衛のため陸海軍増強が必要であると演説した。93年第4議会では第2次伊藤元勲内閣による「和協の詔勅」(建艦費として宮廷費の節約・文武官の俸給の1割を出すから議会も政府に協力せよ)利用により、対外強硬策が優位となった。第6議会では同内閣が93年6月2日、甲午農民戦争に対し出兵を決定した。清国に宣戦布告後の広島(大本営設置)での第7議会(1894年10月、伊藤内閣)ではそれまで紛糾していた議会は全会一致で戦争関係の予算・法律を可決した。

 話を戻そう。上記のような状況下の農民軍は両国に武力介入の口実を与えないため、閔妃政権に対し、悪質官吏の処罰や身分の平等などを求める弊政改革を条件として全州和約を結び休戦した。そして、執綱所という自治機関を置き農民自身の手で弊政改革を推進し、全羅道一円には二重権力的状況を生み出した。

 これに対する第2次伊藤内閣の動きは、同年6月2日、杉村朝鮮代理公使から閣議中に「朝鮮政府が東学党(農民軍)鎮圧のため清国に出兵を求めた」と電報で伝えてきた。同年6月5日、戦時大本営条例により東京に大本営が開かれ動員令を発令した。6月9日には広島第5師団混成旅団の戦闘部隊が広島県宇品港を出港し、12日に仁川へ上陸した。

 しかし、閔妃政権と農民軍は和約を結んでいたので出兵理由を失っていた。しかし、伊藤内閣と日本軍の狙いはとにかく清国を討つ事であったので、清国が拒否するのを計算ずくで「日清両国による朝鮮内政の改革」を提案した。清国は「それは朝鮮に対する内政干渉」「日清共同撤兵」を主張した。

 伊藤内閣はその後、清国に対しては「将来不測の変が生じても日本政府はその責任はない」と伝え、朝鮮国に対しては「7月22日までに清国の宗主権を認めた条約を破棄せよ」との最後通牒を突きつけ、期限切れを待って実力行使に至った。

 伊藤内閣下の日本軍は1894年7月23日未明にクーデターを起こし、「朝鮮王宮を占領」し、親清派の閔妃から政権を奪い、親日派の大院君を国王にすえ新政府を樹立し、同25日に大院君に「朝鮮は清国の属国ではない。清国は即時退去せよ」と宣言させた。

 そして、日本軍は(イギリスの支持を得て)、大院君から駆逐を依頼されたとして清国軍を奇襲攻撃したのである。1894年7月25日の豊島沖海戦(日清戦争開戦。宣戦布告は8月1日)である。

 この間、政府系ブルジョア新聞は朝鮮国をどのように報道しているだろう。日清戦争が開始される前の報知』94年6月11日は、朝鮮の独立に欠かせない内政改革を助けるのは、「先進国の後進国に対する義務にして、彼の名を独立に籍りてその内政に干渉するものとその撰を異にす」とする文明と独立の援助という名の下に朝鮮に対する内政干渉を正当化していた。『毎日』94年6月15日は、「維新以来日本の国是は暗黒なる朝鮮を開明の一方に導くにあり、軟弱なる朝鮮を助けて独立せしむるにあり」とし、同年7月10日には「日清戦争は文明と蛮風の軋轢」であるとしていた。

 第2次伊藤内閣はクーデターによって閔妃政権を追放し、親日派の大院君政権を成立させ、1894年7月25日、日清戦争に突入したが、全州和約を結んでいた農民軍は、9月以降、改めて日本軍の朝鮮侵略に対する反抗を開始した。その農民軍に対して『毎日』『報知』両紙は、「無頼漢」「烏合の草賊」「山賊、強盗と同じ」「流賊」などの罵声を浴びせ、『毎日』は10月30日には「警察の設備と権力の一致」、『報知』は9月4日、10月2日には「偽称東学党」「偽東学党」と呼び、11月2日には「速やかに之を討滅」など日本軍による弾圧の正当性を報道した。『毎日』11月7日社説では「閔族が韓廷から一掃され、農民の不満の原因は消滅したにもかかわらず、尚且つ紛々蜂起して日韓両国の累を為すは何の心ぞや」「今の東学党はその性質再変して流賊となりしのみ」とした。

 甲午農民戦争の真実の姿はつい最近まで、神聖天皇主権大日本帝国政府による朝鮮侵略が進行する過程で日本政府の暴虐を隠蔽し正当化するために都合良く歪められていたのである。今日の安倍自公政権と同様の「歴史修正主義」にもとづいて。国民は真実を知る権利があり、真実を知る労を惜しんではならず、真実を知る事を阻む者と闘う事から逃げてはならない。

(2019年1月18日投稿)   

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