日本の植民地支配下での朝鮮人の労働動員に関する韓国での訴訟で、ソウル高裁などが日本の機械メーカー・不二越に対し、韓国人の元女子勤労挺身隊員らへの賠償を命じる判決を出していたが、その判決をめぐり蔚山地裁が同社の韓国内資産の差し押さえを認めた事を原告側支援団体が2019年3月26日に公表した。上記の訴訟で資産を差し押さえられた不二越は、新日鉄住金、三菱重工業につづいて3社目であった。
以下に、不二越へ強制連行された被害者・金正珠さんの2011年10月29日の石川県教育会館での証言内容を紹介したい。
「彼女は1931年生まれ。1945年3月、担任の先生に、母のように慕っていた姉(名古屋三菱工場に強制連行)に会えると騙され不二越へ強制連行された。強制労働で足を痛めた。帰国後は夫に軍「慰安婦」と思われ離婚された。『日本は何も補償せずに私たちが死ぬのを待っているとしか思えない』と訴訟を決意した。太平洋戦争末期、韓国から1090名もの少女たちが富山の軍需工場・不二越へ強制連行され強制労働させられていた。彼女たちは当時、小学校を卒業するかしないかの12~15歳。日本人教師に「不二越に行けば女学校に行ける」「習い事もできる」などと騙された。日本の植民地下で徹底的な皇国臣民化教育を受けさせられていた彼女たちにとって、日本人教師の言葉は絶対で、進学は夢のような事だった。しかし、不二越では厳重な監視下に置かれ、毎日旋盤などの重労働を強いられた。粗末な食事で、空腹を抱えながら仕事をした。あまりの空腹で草を食べてお腹をこわしたり、栄養不足で腸チフスやジフテリア、皮膚病を患った。昼夜2交替勤務で、ケガも多発した。亡くなった人や耐えかねて逃亡し行方が分からなくなった人もいた。原告は社員手帳を持っている。不二越に行った事で心身に傷を負い、戦後ずっと沈黙を強いられてきた彼女たちは現在80歳になった。不二越は強制連行の事実すら認めていない。被害者たちの闘いは、韓国人強制連行訴訟としては現在唯一係争中で、最後になる。原告団は、「判決では決して終わらない」と、不二越に対して、謝罪と補償を求め、不二越の門前に何度も立ち続けている。」
当時、彼女たちが故郷を思い、涙して歌った歌
富山くるとき嬉しかった 一夜過ごせば悲しさよ
いつかこの工場去るでしょうか ああ、ああ、陰で泣く涙は
(2019年12月25日投稿)
2024年1月韓国大法院で被害者側が勝利した。しかし、韓国政府及び日本自公政府は政治的圧力をかけ、不二越は被害者に対する賠償をしていない。