2017年2月1日、吉村大阪市長(おおさか維新の会)が「就学前」「英語力」「国際理解教育」に重点を置くとする教育計画案をまとめたという。
なかでも「国際理解教育」にも重点を置くとしているが、松井一郎や橋下徹、そして現市長によって進められてきた教育政策を振り返れば、その「国際理解教育」なるものが彼らのこれまでの政策とはまったく正反対であるため、いかに欺瞞に満ちたものであるか明らかにし、真の「国際理解教育」とはどういうものかを伝えたい。
真の国際理解教育とは、地域や社会の構成員として共に生きるため、異なる文化や価値観もつ異民族や隣人を、さらにその一人一人を唯一の個性を持ち人権を保障されるべき存在であると認識し、対等の立場で尊重し、理解し、学ぶ事を意味する。つまり、個性を尊重する事であり、人権を保障する教育である。また、日常の身近な生活空間の中で関わる人々・男女についても、それぞれ異なる価値観を有している事を認識し、対等の人権を保障され共に生きる存在として理解・尊重する姿勢・精神を培う教育である。一言でいえば、「国際理解教育」とは、民主主義を大切に思い、守り、培う教育である。
これに照らして大阪市の国際理解教育はどのようなものといえるだろうか。まず、「国際理解教育」という言葉は、日本では今から30年ほど前に広まった言葉であるが、その当時、教育機関などを中心に、生徒募集などで受験者の目を引くアピールポイントとして使用されてきた言葉と言ってよいが、しかし、その中身はおおむね、根本のところでひじょうに誤った「定義」や「意味付け」に基づいた教育内容でしかないものとして始められ、今日に至ってもさほど変わっていないといえる。それは何かというと、「英語の理解力」や「英会話能力」を向上させる事を「国際理解教育」であると認識している点なのである。そのため、すでに「国際理解教育」を受けてきたはずの今日の多くの日本国民の間でも、「真の国際理解」は身につかないままなのである。この度の大阪市の「国際理解教育」の場合も、「中学校卒業時に英検3級以上の英語力を5割の生徒が身につける」「中高一貫の公設民営学校を設置し、国際理解教育の拠点とする」としている事をみると、その考え方は、これまでの「定義」と同じような考え方で、特に変わっていないと思えるため、「国際理解」という言葉を欺瞞的に使用するものであり、真の「国際理解」は身につかないであろうと予測できる。
まず、大阪市は、「国際理解教育」と称しているが、その内容は、なぜ英語だけを取り上げるのか、という点ですでに偏向した認識であり問題とすべきであるが、「英語の理解力」や「英会話能力」の向上を主な目的としているだけで、それは単に語学力や会話力が向上するだけに終わる可能性が高いという事だけでなく、文化理解においても教科書的で画一的な、また、内面の精神には触れないだけでなく、うわべだけの実態と乖離した欧米文化について、「知識」として「学習」するもので、欧米文化の模倣同化に終わる可能性が高いという事なのである。つまり、「英語コース」と換言しても差し支えのない中身にしかならないのではなかろうか。これは、明治維新における大日本帝国政府による「文明開化」政策(欧米文化の模倣同化)やそれをきっかけとした国民間に普及した欧米文化の外面的な模倣同化と同じで、その現代版ともいえる。
「国際化」「国際的」という場合、即座に欧米諸国・欧米人との交流を頭に浮かべる人が多い。換言すれば、英語を話せる事や欧米文化についての表面的外面的「知識」を持っている事が「国際化」「国際的」であるとみる感覚があるが、これは「国際化」「国際的」という言葉を正しく理解したものではなく、「欧米化」「欧米的」を「国際化」「国際的」と混同誤解したものである。これは明治維新以来の欧米コンプレックスが大きな原因となっているが、文頭に示したような理解に達してこそ、真の「国際化」「国際的」を身につける事ができる。
また、英語の理解力がなければ、又英会話能力がなければ「国際理解」「国際感覚」が身についていない、身につけられない、培えないと見なす事も誤りである。この事は英語以外の言語についても同様であるが、「国際理解」「国際感覚」を培うという事は、語学ができるという事が第一義ではなく、異民族・異文化や隣人の異なる価値観に対する姿勢や「理解能力・感覚」の問題であるからである。異民族・異文化や異なる価値観を有する人と対等に地域や社会を構成し共に生きるための姿勢や精神だからである。
「国際理解」「国際感覚」を培う場合、語学能力は必要条件であっても十分条件ではないという事である。このように考えると、中高一貫校を設置しそこを拠点として「国際理解教育」を実施するという考えは誤りであり、あらゆる生徒たちに培うべきものであり、培うことが可能なものであると理解できるだろう。
特に大阪には、多くの中国人や韓国人朝鮮人を含む異民族が身近に生活している。彼らと関わり、彼らの歴史・文化・価値観を、彼らを人権保障される存在と認識したうえで、対等の立場に立って尊重・理解し、彼らとの共生関係を築く事が重要で、その姿勢・能力を培う教育は極めて重要である。
ところが、大阪維新の会のこれまでの政策はそれを発展させるのではなく、それを認めず抑圧破壊するものであった。たとえば、大阪朝鮮学園に対する補助金に関して、在日韓国朝鮮人はあらゆる税金を日本人と同様に納め、当時、橋下府知事と松井市長の提示した「補助金交付の条件」も満たしたにもかかわらず、2012年3月、当時、松井府知事と橋本市長は、政治的な事柄を理由として11年度分を不交付とし、今日に至ってもそのままである。(「大阪府在日外国人施策に関する指針」では、「在日外国人学校の児童・生徒への嫌がらせや暴言・暴行などの事象を防がなければならない」としているにもかかわらず)。
その間、2013年2月には安倍内閣も、子どもの教育を受ける権利を経済的負担を軽減する面で保障する事が目的である「高校無償化法」(2010年制定)から全国の朝鮮高級学校を「無償化」の対象外とする省令改悪をした。この事は安倍政府の民族差別宣言といえる。そのため、大阪朝鮮学園は2012年9月には大阪府市の決定に対して大阪地裁に提訴。2013年1月には政府に対して「無償化の適用」を求めて提訴した。
2014年9月には、国連人種差別撤廃委員会が安倍政府に「朝鮮学校に対して高等学校等就学支援金制度による利益が適切に享受される事を認め、地方自治体に朝鮮学校に対する補助金の提供の再開あるいは維持を要請する事を奨励する」とする最終見解を提示勧告した。(「子どもの権利条約」第30条には「民族的・宗教的・言語的マイノリティーの子どもたちが自己のルーツを確かめ、自らの文化や信仰や言語を守る権利を否定されてはならない」とある)。
しかし、2016年3月、馳文科相は、都道府県の知事あてに、各自治体が交付する朝鮮学校への補助金に対して、「留保」するよう異例の通達を出した。また、大阪地裁は2017年1月、大阪府市の補助金不交付決定について、「府の裁量の範囲内」として朝鮮学園の請求をすべて棄却した。
話を「国際理解教育」に戻そう。これまで、異民族・異文化や隣人という言葉を出し、「在日中国人」「在日韓国人朝鮮人」について触れてきたが、「国際理解」は、日本人を構成する、アイヌ民族(文化)や琉球民族(文化)などに対しても、同様に考えるべきである。しかし、
沖縄に関した発言をみれば、当時大阪市長・橋下徹氏(大阪維新の会)は2013年5月、「慰安婦制度は必要だった」と発言したり、沖縄米軍司令官に「もっと風俗業の活用を」と発言した事は、人権尊重の精神からは否定的な評価をすべきである事を思えば、彼の意識は、真の「国際理解」からは程遠いものである。また、2016年、松井府知事(大阪維新の会)が府警の機動隊員の「ボケ、土人が」発言に対して「出張ご苦労様」とねぎらいの言葉をかけた事も同様な評価をすべきであろう。
さらに、当時大阪市長・橋本氏(おおさか維新の会)が2016年度から使用する中学校教科書採択で、教科書採択制度を強引に改悪し、「歴史」「公民」教科書に、初めて「育鵬社」版(日本会議、八木秀次・麗澤大学教授らが編集)を採択した事も「国際理解」の欠如を示している。採択はそれまでにない「異常さ」に満ちた経過の中で実施された。それは、①採択地区の全市1地区への改悪、②選定委員の人選に市長が介入できる根拠の制度化、③教科書の調査研究の観点(調査の観点)の改悪……橋本氏が作った「大阪市教育行政基本条例」「大阪市教育振興基本計画」に示された「愛国心」が重視され、「人間尊重の精神に基づいて作成されているか」という項目は削除した。④学校調査会の有名無実化、⑤ILO・ユネスコ勧告の黙殺、⑥選定委員会「答申」尊重の軽視否定、⑦教育委員会の恣意的な独断採択化、⑧教育委員会の市長翼賛体制化、などである。この点でも、橋下氏(大阪維新の会)には「人権尊重」つまり「国際理解」についての認識が欠如している事は明らかである。
また、人権意識啓発を目的とした「博物館」に対する対応にも同様の姿勢を見せている。たとえば、「大阪人権博物館(リバティーおおさか)」について、2008年当時、橋本(大阪維新の会)大阪府知事は、「差別や人種などネガティブな部分が多い」と見直しを指示し、2012年には、松井(大阪維新の会)府知事と橋下(大阪維新の会)市長は運営補助金を全額廃止した。「ピースおおさか」については、2011年当時、橋下(おおさか維新の会)府知事は「偏向した展示物が多く不適切、廃館も考える」と圧力を加え、15年4月改装で、従来の加害の展示はすべて撤去に追い込まれた。おまけに、15年5月末には、大阪市は教育委員会など関係部局に、学校教育や研修で「リバティーおおさか」の使用を控えるよう通知を出した(のち通知撤回)。この事からも「大阪維新の会」の人権無視の姿勢体質は明らかである。学校教育においては、生徒を指導する立場にある教師はもちろん教育行政に関わる者が真の「国際理解」=民主主義精神を身につけていなければ「国際理解」を語る資格はないし、市行政は教師が真の「国際理解教育」を身につけるための努力を積極的に支援する事にこそ尽力すべきであって、市行政が教師や生徒に対して平均的人格を要求したり、同質化・画一化を強制したり、それに抗するものを排除する事は、真の「国際理解」とは相容れない正反対の考え方である。
しかし、当時橋下(おおさか維新の会)大阪府知事は2011年に、またのち、市長就任の橋下氏(おおさか維新の会)は12年に、公立校の教職員に君が代の起立斉唱を義務づける「君が代条例」を制定し、違反者は処分の対象とした。また同年4月、松井(おおさか維新の会)府知事は「職員基本条例」を制定し「同じ職務命令に3回違反すれば原則免職」とした。そして、12年春の市立小中学校卒業式では職務命令違反という事で2名を戒告処分とし、府立高の卒業式では29人を戒告処分した。橋下氏・松井氏らは、教職員の個性や人権(思想信条の自由)を抑圧し画一化の統制をする事によって、生徒には直接手を下さない手法で、生徒の個性や人権をも統制したのである。
(2017年2月15日投稿)