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「唯生論 シベリア抑留の恩讐を乗り越えた音楽人生」に思う

2023-01-03 22:32:12 | アジア・太平洋戦争

 著者の田中唯介さん(95)は、日本の敗戦後の4年間、カザフスタンとシベリア抑留体験をした。凍傷、重労働、栄養失調などなど。死と隣り合わせの日々を送った。

 抑留中に、捕虜の中にいたベルリン・フィルの元団員からアコーディオンを習い、今日も現役のアコーディオン奏者である。そして、抑留体験を伝える歌を作詞作曲し、弾き語りを続け、体験した戦争、抑留、引き揚げを「哀切と歓喜」と表現している。

 ところで、シベリア抑留者60万人以上と言われている。そして、そのうち6万人が死亡したと言われているが、このような事態が起きた背景にはどのような事があったのだろうか?

 神聖天皇主権大日本帝国政府関東軍の軍人がシベリアに連行され強制労働をさせられているという情報をつかんだのは1945年11月頃である。そして、1946年12月にやっと米国を通じてソ連との交渉を開始している。それによって抑留者の帰国に関する米ソ協定が成立し、同年12月8日に引き揚げが開始されているのである。

 つまり、関東軍の軍人がシベリアに抑留された背景には、神聖天皇主権大日本帝国政府の戦後処理が大きく関係していたのである。戦後処理をきちんと行わず放置した事がシベリア抑留を引き起こす大きな要因の一つであったと言えるのである。

 アジア太平洋戦争は1945年8月14日に連合国のポツダム宣言を受諾する旨を通達しただけで自動的に終了するものではなく、どのように降伏条件を実行するかについての交渉が必要であった。そのため大日本帝国政府は、連合国軍総司令官マッカーサーの本部所在地であったフィリピンのマニラへ停戦協定作成ために川辺虎四郎中将らを全権委員として派遣し、45年8月20日降伏文書を受領している。そしてその時、総司令部から「ソ連軍に関しては、連合国軍の指揮下にはない」との通告を受けているのである。それにもかかわらず大日本帝国政府は、対ソ連交渉を現地の関東軍に委ね、ソ連極東軍総司令官マリノフスキー将軍のもとへ全権代表を送らなかったのである。そのため、関東軍を大日本帝国政府の公式の代表と認めないソ連軍の軍事行動は、満州では8月20日、樺太では8月26日、千島では9月5日まで戦闘を継続し、死傷者はもちろん抑留者の増大を引き起こしたといえるのである。

 しかし先に書いたように、1946年12月に入って米ソ協定が成立し、46年12月8日にナホトカからの引き揚げ第1陣である「大久丸」「恵山丸」(合計5000人)が舞鶴港に帰着できたのである。そして、1956年12月26日には最後の引き揚げ船「興安丸」が舞鶴港に帰着し、受刑者(関東軍の高級将校、特務機関員、731部隊関係者など)を含む抑留者のほとんどが帰国できたのである。

(2021年4月25日投稿)

 

 


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