「脱亜論」は、1885年3月16日の『時事新報』に発表した社説である。神聖天皇主権大日本帝国政府は、日清戦争(1894年7月25日~95年4月17日)後にアジア諸国民を、日露戦争(1904年2月8日~05年9月5日)後には世界諸国民を差別蔑視するようになったと言われるが、日清戦争の10年前にはすでに、福沢諭吉自身がアジア諸国民に対し独善的な優越意識を増強させ、彼らを差別蔑視していた。以下に「脱亜論」の全文を紹介しよう。
「 世界の交通の道、便にして、西洋文明の風、東に漸し、至る所、草も木もこの風になびかざるは無し。けだし、西洋の人物、古今に大いに異なるに非ずといえども、その挙動の古に遅鈍にして今に活発なるは、唯交通の利器を利用して勢いに乗ずるが故のみ。故に、今東洋に国する者のために謀るに、この文明の東漸の勢いに抵抗してこれを防ぎおわり得るの覚悟あれば即ち可なりといえども、いやしくも世界中の現状を視察して事実上不可能ならんを知る者は、共に文明の海に浮沈し、共に文明の波を掲げて共に文明の苦楽を分ち合うの外あるべからざるなり。文明は猶麻疹の流行の如し。目下東京の麻疹は西国長崎の地方より東漸して、春暖と共に次第に蔓延する者の如し。この時に当たりこの流行病の害を防がんとするも、果たしてその手段あるべきや。我輩断じてその術なきを証す。有害一遍の流行病にても尚且つその勢いには抵抗すべからず。いわんや利害相伴って常に利益多き文明においておや。まさにこれを防がざるのみならず、務めてその蔓延を助け、国民をして早くその気風に浴せしむるは知者の事なるべし。
西洋近時の文明が我が日本に入りたるは嘉永の開国を発端として、国民漸くその採るべきを知り、漸次に活発の気風催したれども、進歩の道に横たわるに古風老大の政府なるものがありて、これを如何ともすべからず。政府を保存せんか、文明は決して入るべからず。如何となれば近時の文明は日本の旧体制と両立すべからずして、旧体制を脱すれば同時に政府も亦廃滅すべければなり。然らば即ち文明を防ぎてその侵入を止めんか、日本国は独立すべからず。如何ともなれば世界文明の喧嘩繁劇は東洋孤島の独睡を許さざればなり。是に於いてか我が日本の士人は国を重しとし政府を軽しとする大義に基づき、また幸いに帝室の神聖尊厳に依頼して、断じて旧政府を倒して新政府を立て、国中朝野の別なく一切万事西洋近時の文明を採り、独り日本の旧体制を脱したるのみならず、亜細亜全州の中に在りて新たに一機軸を出し、主義とするところは唯脱亜の二字にあるのみなり。
わが日本の国土は亜細亜の東辺にありといえども、その国民の精神は既に亜細亜の固陋を脱して西洋の文明に移りたり。然るにここに不幸なるは近隣に国あり、一を支那と言い、一を朝鮮と言う。この二国の人民も古来亜細亜流の政教風俗に養わるること、我日本に異ならずといえども、その人種の由来を異にするか、ただしは同様の政教風俗中に居ながらも教育の旨に同じからざるあるか、日支韓三国相対し、支と韓の相似るの状は支韓の日に於けるよりも近くして、この二国の者共は一身に就き又一国に関して改進の道知らず。交通至便の世の中に文明の事物を聞見せざるに非ざれども、耳目の聞見は以って心を動かすに足らずして、その古風旧慣に恋々するの情は百千年の古に異ならず、この文明日に新たの活劇場に教育の事を論ずれば儒教主義と言い、学校の教旨は仁義礼智と称し、一より十二至るまで外見の虚飾のみを事として、その実際に於ては真理原則の知見なきのみか、道徳さえ地を払って残酷不廉恥を極め、尚傲然として自省の念なき者の如し。
我輩を以ってこの二国を視れば今の文明東漸の風潮に際し、とても独立を維持するの道あるべからず。幸いにしてその国中に志士の出現して、先ず国事開進の手始めとして、大いにその政府を改革すること我維新の如き大挙を企て、先ず政治を改めて共に人心を一新するが如き活動あらば格別なれども、もしも然らざるに於ては、今より数年を出でずして亡国となり、その国土は世界文明諸国の分割に帰すべきこと一点の疑いあることなし。如何となれば麻疹に等しき文明開化の流行に遭いながら、支韓両国はその伝統の天然に背き、無理にこれを避けんとして一室内に閉居し、空気の流通を絶って逼塞するものなればなり。
輔車唇歯とは隣国相助くるの例えなれども、今の支那朝鮮は我日本のために髪の毛一本の援助とならざるのみならず、西洋文明人の目を以ってすれば、三国の地理相接するがために、時に或はこれを同一視し、支韓を評価するのと同じ水準で我日本に命ずるの意味なきにあらず。例えば支那朝鮮の政府が古風の専制にして法律の頼るべきものあらざれば、西洋の人は日本もまた無法律の国かと疑い、支那朝鮮の士人が惑溺深くして科学の何ものたるを知らざれば、西洋の学者は日本もまた陰陽五行の国かと思い、支那人が卑屈にして恥を知らざれば、日本人の義侠もこれがために覆われ、朝鮮国に人を刑するの残酷なるあれば、日本人もまた共に無情なるかと推量せらるるが如き、これらの例を計れば、枚挙にいとまあらず。
これを例えば近隣軒を並べたる一村一町内の者共が、愚かにして無法にして然も残忍無情なる時は、まれにその町村内の一家人が正当の人事に注意するも、他の醜に覆われて煙没するものに異ならず。その影響の事実に現れて、間接に我外交上の故障を成すことは実に少なからず我日本国の一大不幸というべし。されば、今日の謀を為すに、我国は隣国の開明を待って共に亜細亜を興すの猶予あるべからず。むしろ、その伍を脱して西洋の文明国と進退を共にし、支那朝鮮に接するの法も、隣国なるが故にとて特別の会釈に及ばず、正に西洋人が之に接するの風に従って処分すべきのみ。悪友を親しむ者は共に悪名を免るべからず。我は心に於いて亜細亜東方の悪友を謝絶するものなり。」
(2024年10月4日投稿)