天皇制の存続は、国民に奴隷根性を培い、国民自ら愚民化を深める。
生前譲位の「お言葉」のなかに、「象徴的行為としての全国に及ぶ旅は、どこにおいても、その地域を愛し、その共同体を地道に支える市井の人々のある事を私に認識させ、この認識をもって、天皇として大切な、国民を思い、国民のために祈るという務めを、人々への深い信頼と敬愛をもってなし得た」という文言がある。
まず、おさえておかなければならない事は、「全国に及ぶ旅」を「象徴的行為」として行ってきたのは、天皇の意思によってであるという事。そして、それは「国事行為」に規定されたものではなく、憲法に定められていないものであり、「政治的行為」であるという事であり、厳密に考えれば「憲法違反」の行為である。これまで国会で問題となった事であるがそれを無視して行ってきたという事である。
さて本題に入りますが、上記文言の中に「地域を愛し、その共同体を支える人々がいる事を認識した」とあるが、この文言は庶民には違和感を感じさせた。このような表現は今日ほとんど耳にしない目にしない文言であるからだ。非常に特殊な意味を持っていると考えられる。
そして、到達した結論は、敗戦までの大日本帝国の「国体」であり、大日本帝国憲法や教育勅語に具体化された国教であった「国家神道」の思想に基づく国民観だという事なのである。現行天皇にはここにも「国家神道」を脈々と継承し息づいている事がわかるのである。そして、その「国家神道」に基づく国民観を継承する国民が全国津々浦々に存在するという事を言っているのである。
なぜ、そのように考えられるか。
国家神道の祭祀は、宗教儀礼の一種であったが、それは民族宗教の儀礼が持つ機能を意図的に復活したという特徴を持っていた。
宗教儀礼は一般的に、祭司などの儀礼執行者を中心として、参加者全員により、一定の形式に従って営まれる。その形式は、儀礼の意味と目的を様式化して示したもので、その動作を通して、参加した者全員は共通する一つの意志を表明し、この意志を互いに確認し合う事になるのである。
定型化された宗教儀礼は、国民にとって結合の再確認と意志統一の場としての政治的機能を持つ事になるのである。民族宗教での儀礼では、この結合と統一がそのまま社会集団全体の日常生活における結合と統一を意味した。
国家神道の祭祀は、このような民族宗教の儀礼の機能を、近代社会において再現したものであった。そして、その目的は、天皇の政治上宗教上の絶対的な権威を主張する国体の教義を、定型化された行動で示し、この儀礼に全国民を強制的に参加させる事によって国体の教義に基づく「共同体」的な結合と統一を確保する事にあったのである。
そして、現行天皇は、国内のどこにおいても、そのような「共同体」が存在している事を認識し、その「結合と統一」を認識したと言ってるのである。しかし、その認識は極めて手前勝手な自分本位の自己に都合のよい偏ったものといえる。なぜなら、それは「思い込み」や「決めつけ」と「国家神道」復活を待望する人々との関わりだけで得た認識でしかないからである。
しかし、現行天皇は、このような「国家神道」に基づいた思想で、「その地域を愛し、その共同体を地道に支える市井の人々のあることを私に認識させ、私がこの認識をもって、天皇として大切な、国民を思い、国民のために祈るという務めを、人々への深い信頼と敬愛をもってなし得たことは、幸せなことでした」と言っているのである。これが現行天皇や皇室の本質なのである。
そして、彼らは、傲慢にも規定にない「生前譲位」や「天皇制の永久化」など、極めて「私利私欲に基づいた欲望」を国民に認めさせようとしているのである。つまり、彼ら天皇家の「地位と名誉と財産」を守る事だけを目的としているとしか思えないのである。
天皇や皇室がこの思想状況に執着する姿勢は、「民主主義」や「人権尊重」の思想を大切にしたい国民とは正反対の側に立つ事を意味するのであり、天皇制の存続は日本国民の思想的混乱を深化させ、社会的混乱を広げ、国民を愚民化し続けるだけで、それを食い止めるためには天皇制廃止は仕方がない事であろう。
(2016年8月20日投稿)