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安倍「戦後70年談話」のあいまいさは歴史修正主義そのもの、人権を保障するための「未来への知恵・教訓」は得られない

2025-02-23 11:22:04 | 安倍政治

 2015年8月14日夜、安倍首相戦後70年談話が発表された。記者会見の冒頭発言や談話の冒頭部分、談話読み上げ後の発言で、何度も強調した言葉に「歴史(の教訓)から未来への知恵を学ばなければならない」とあるが、談話の言葉からは「教訓」も「知恵」も学べない。なぜなら、「学ぶ」という事は、物事を判断しそれに対して何らかの態度を示したり行動をするための糧情報とする事ができなければならないからだ。最初の部分では、明治維新から敗戦までの歴史であるが、いくつかの誰もが割とよく知っている歴史用語が使用されているが、故意に韓国(朝鮮や大韓帝国)や中国(清や中華民国)などアジアの国々との歴史を抜き落としているし、また歴史用語は並べただけなので、具体的に何が問題であったのかが理解できないし、なぜ「力の行使」によって解決する事になったのか、なぜ「国内のシステムはその歯止めたりえなかったのか」を明確にしなければ、未来を誤らないための「教訓」も「知恵」も学びようがない。読み方によっては欧米諸国が日本を戦争へ向かわせたようにも解釈できるし、必然的に侵略戦争ではないという解釈もでき得る。教科書のダイジェスト版にもならないし、誤った歴史認識を広めてしまう。教科書の文章の方がまだマシである。しかし、それが安自公倍政権の狙いであると考えられる事を押さえておかなければならない。

 この談話を出す意味は、時の首相が政府を代表して、現在は安倍首相が政府を代表して、時の日本政府がとった政策に対する認識を、国民に対して、世界に対して表明するという事のはずであるがそのような文章になっていない。今回は明治維新からの内容にしているが、日本政府のアジアへの侵略が「やむを得ないもの」と理解してもらうためなのか、西欧列強も「同じ事をしているではないか」と言いたいためなのか。また、「アジアで最初の立憲政治を打ち立てて独立を守り抜きました」とあるが、「アジアで最初」という事を誇りたいためか。それよりも、神聖天皇主権大日本帝国政府ドイツ風憲法を制定するために、「自由民権運動」を警察軍隊という政府がもつ権力よる弾圧で潰滅粉砕したという経過が存在した事を明確にしなければならない。

 また、「日露戦争は、植民地支配のもとにあった多くのアジアやアフリカの人々を勇気づけた」というのは、「日露戦争に勝利した」と言いたいのと「アジアやアフリカの人々のために良い事をした」と言いたいのであろうか。しかし、それは歴史の真実を捻じ曲げた誤った認識である。日露戦争中には韓国の意思を無視して軍事的威圧のもとに韓国侵略「韓国併合」への準備を着々と進めていく。また、第1次世界大戦中には中国侵略「21カ条の要求」を突きつけていく。

韓国併合への道

 1904年2月8日に仁川・旅順のロシア艦隊を奇襲攻撃、10日に宣戦布告後の23日、韓国の「中立声明」を無視し、「日韓議定書」を押し付けた。第1条には「……東洋平和を確立するため、大韓帝国政府は大日本帝国政府を確信し施設の改善に関しその忠告を容れる事」とあり、国際法上からは「忠告」は「命令」と同じで、これによって韓国は事実上日本に従属する事になった。つまり、韓国が自主権の一部を放棄し、重要な国務に対し干渉する権利を日本に認めるとともに、国防を全面的に日本に依存する事とした。調印の際、韓国の強硬に反対する大臣は辞任させて調印した。同年5月の「対韓施設綱領」では、 ➀防備を全うする事、②外政を監督する事、③財政を監督する事、④交通機関を掌握する事、⑤通信機関を掌握する事、⑥拓殖を図る事、の6項目を打ち出した。この綱領は併合までに実現させた。同年8月には第1次日韓協約を結ばせ、「韓国は日本政府推薦の財政・外交顧問を任用する事。重要な外交案件は事前に日本政府と協議する事、とした。

 05年9月のポーツマス講和条約に先立ち、日本は韓国の植民地化に米英の同意を得るため、米国とは同年7月に桂・タフト協定を結び、米国が日本の韓国における支配権を認めるかわりに、日本は米国のフィリピンへの支配権を認める事を、英国とは同年8月に第2次日英同盟協約で、日本は英国のインド支配の安全を助ける義務を負うかわりに、英国は日本が韓国を保護する事を認める事を確認した。日本は日露戦争をきっかけに、米英の「極東の憲兵」になる事により、韓国の植民地化を実行した。同年11月には伊藤博文が韓国皇帝高宗に「この保護条約の原案は我が方で練りにねったものであるから……御承認のない時は現在よりもっと悪い状態になるであろう」と脅し、ソウル市内には日本軍が駐留し、駐留軍司令官を伴って閣議に出席し、大臣一人一人に締結の賛否を聞くという状況の下で第2次日韓協約(保護条約)を結ばせ(総理大臣大蔵大臣は「絶対に否なり」とこたえ、外務大臣は黙秘したが承諾とされ、ほかの4大臣はしぶしぶ同意した)、韓国の対外関係は日本の外務省が処理(外交権の接収)、ソウルに統監府を設置し初代統監には伊藤博文が就いた。

 保護条約締結後、反対した総理大臣は職を追われ、抗議自殺をする廷臣も出た。

1907年、韓国皇帝高宗は、オランダ・ハーグで開催されていた第2回万国平和会議秘密使節を送り、日本の非道を訴えたが失敗。伊藤は保護条約違反として高宗を退位させ、純宗をたて、第3次日韓協約を結ばせ、内政権を接収韓国軍隊を解散した。09年7月には日本政府は韓国を廃滅する方針を閣議決定。10年8月、日本の全憲兵・警察の厳戒の中で、第3代統監寺内正毅と韓国総理李完用との間で韓国併合条約締結。韓国を朝鮮と改称。朝鮮総督府を置き、寺内正毅が初代総督。総督は天皇に直属し、朝鮮での軍隊をも統率し、立法・司法・行政の一切の権力を握った。この権力で日本政府は朝鮮人民を支配し、すべての権利を奪い、植民地とし、その後のアジア大陸侵略の拠点とした。条約の前文には「相互の幸福を増進し、東洋の平和を永久に確保せん事を欲し……」とあり、第1条には、「韓国皇帝は……譲与す」。第2条には「……譲与を受諾す」とあり、韓国皇帝からの要望であるような表現であるが、これは日本政府の強要である事を隠蔽するものである。併合について日本国内では8月29日、官報で国民に発表。諸新聞は一斉に併合を祝した。東京市内は軒並みに日の丸が掲げられ、祝杯をあげた人々が記念の花電車に喜々として乗り込む姿があちこちで見られた。

21カ条の要求

 第1次世界大戦の勃発は大日本帝国政府にとって「大正新時代の天佑」といわれた。元老井上馨は、大隈重信首相に手紙で「今回欧州の大戦争は、日本の国運を発展させる大正の新時代の天佑なので、日本国は直ちに挙国一致の団結によって、この天の助けを利用しなければならない」と伝えた。1914年8月7日、英国は日本に対して、東シナ海で英国商船を攻撃するドイツ武装商船の捜索撃破を要請。大日本帝国政府閣議を開き、加藤高明外相が「日本は日英同盟の義務によって参戦せねばならぬ立場にはない(東亜及びインドにおける領土権又は特殊権益が直接侵害されない限り、日本は参戦の義務を負うものではなかった)。ただ一つは英国からの依頼に基づく同盟の情誼と、一つは大日本帝国がこの機会にドイツの根拠地を東洋から一掃して、国際上に一段と地位を高める利益と、この二点から参戦するのが良策」と説明し全面参戦決定。欧米列強の隙を衝いて、中国を大日本帝国政府の独占的な支配下に置く事が目的。英国は依頼を取り消したが大日本帝国政府は受け入れず、23日ドイツに宣戦布告

 中国は「中立宣言」をしていた。開戦と同時に神聖天皇主権大日本帝国政府は、満蒙問題の一挙解決と、中国本土における利権獲得の準備に着手。同年1月18日、21カ条の要求袁世凱大総統に突き付けた。第1号要求では「偏に極東における全局の平和を維持し且両国の間に存する友好善隣の関係を益々強固にする事を希望し」とある。大日本帝国政府は外国の干渉を恐れて秘密保持一括交渉を要求したが公然化。大日本帝国政府の軍事力での威圧に対して袁世凱主権侵害の条項(第5号要求は交渉に応じられないと抵抗したため、大日本帝国政府は5月7日、第5号要求を保留としてその他の受諾を要求する最後通牒を突き付けた(回答期限9日午後6時)。大日本帝国政府は海軍艦隊を増派してアモイ、ウースン、タークーに終結させ、山東半島や南満州には陸軍部隊を増派して回答を待った。5月9日、袁政府はやむなく受諾、同月25日、諸条約・交換公文に調印。中国人民は5月7日と9日を「国恥記念日」とし抗議運動を展開。

 ※第5号要求

「中国政府の政府・財政・軍事顧問として日本人を置く事、……中国警察を日華合弁にするか、日本人顧問をおく事、中国軍隊の一定量の兵器を日本から輸入するか、日華合弁兵器廠からの供給を仰ぐ事、など中国全体にわたる諸要求……」

 そのほかにも台湾出兵(侵略)日清戦争による台湾の割譲江華島事件に始まる朝鮮への侵略など多くの東アジア諸国に対する侵略行為が行われた事についての言及がないというのは、その事については大日本帝国政府は「正当な事」と解釈しているという事なのであろうか。「談話」は安倍首相の歴史認識を示しているという事であろう。つまり歴史修正主義という考えの持ち主で、狙いはこれまでの歴史的事実を自分に都合良く解釈しなおしてつなぎ合わせ、日本国民の歴史認識を又歴史教科書を作り変えてしまおうとしているという事なのだろう。安倍氏のお友達の「つくる会」系の育鵬社出版の教科書が今年大阪市でも採択されたが、さらに全国的に普及させるために採択増加運動をしているようだ。この採択ルールには非常に不信感を抱いているがここでは触れない。

 「歴史から学ぶ」という事は、誰が(誰と)いつどこで誰と(誰に対して、誰から)何をどのようにした(された)のかという点について真実を知り、そこから知り得た事実を、現在を生きより良い未来を築くための「教訓」「知恵」として生かす事なのである。

 安倍首相のいう「歴史から学ぶ」の意味がこの談話の内容かと思うとやはり、首相の地位に立つ資格はないと言わざるを得ない。また、国民に向かって物申す資格もないと言わざるを得ない。早く退陣してもらいたい。国民や世界の人々は、戦争によって人生を家族を生活を社会を歪められ壊され苦難を強いられてきた、「もっと解決救済が急がれる切実で具体的な事実」に対し、政権の認識を明確に表明する事を望んでいた。発表に至るまでに国民はもちろん世界の人々の気持ちを振り回してきたのだから。

 満州事変は1931年9月18日、奉天(瀋陽)郊外の柳条湖付近で、関東軍板垣征四郎大佐、石原莞爾中佐らが立案・実行)が満鉄の線路を爆破し、中国軍の仕業であるとして軍事行動を起こした事に始まる。(1932年1月8日、昭和天皇は関東軍の軍事行動を讃える勅語を発表)。第2次若槻内閣不拡大方針を声明したが、関東軍は戦線を拡大。次の犬養内閣は、中国との直接交渉を目指し、軍部の独走や欧米との摩擦を最小限に抑えようとしたが、32年3月1日には軍部は「満州国」建国を宣言。承認を渋っていた犬養首相は海軍将校右翼グループによるテロにより32年5月15日射殺された(5・15事件)。その時のメディアはすべて関東軍の行動を称賛した。そして、犬養射殺から1ヶ月後、衆議院満場一致満州国承認を可決した。32年2月、中国の訴えを受けていた国際連盟の「リットン調査団」が来日したが、報告書が出る前の32年9月には「日満議定書」を交わし、大日本帝国政府は満州国を承認。33年5月31日には関東軍代表と中国国民政府軍代表とが「塘沽停戦協定」を締結し、中国に満州侵略の既成事実を認めさせ、満州国を中国本土から事実上分離、34年3月1日には清国最後の皇帝であった溥儀皇帝とする満州帝国を成立させた。

 ※関東州の租借権、南満州鉄道(長春~旅順)とそれに付属する権利は、日露戦後のポーツマス条約で、清国(中国)政府の承認が必要とされていたが、日本政府は清国の抵抗を押し切り「満州に関する日清条約」(北京条約)を締結し強奪した。

 ※昭和天皇の関東軍の軍事行動を讃える勅語

「先に満州において事変の勃発するや自衛の必要上関東軍の将兵は果断神速寡よく衆を制し速やかにこれを芟討、爾来艱苦をしのぎ祁寒に堪え各地に蜂起せる匪賊を掃蕩しよく警備の任をまっとうし或は嫩江チチハル地方に或は遼西錦州地方に氷雪を衝き勇戦力闘以てその禍根を抜きて皇軍の威武を中外に宣揚せり深くその忠烈を嘉す、汝将兵ますます堅忍自重以て東洋平和の基礎を確立しが信倚に応えん事を期せよ」(関東軍よ、よくやった、即刻の判断に基づいてためらう事もなく敵をやっつけて、わが皇軍の強さを世界中に見せつけたのも喜ばしい事だ)

 ※メディアの関東軍に対する称賛 『東京日日新聞1931年10月27日』

「満州・蒙古(モンゴル)における日本の特殊権益は“日本民族の血と汗の結晶”」と擁護・宣伝し、戦争熱を煽り、軍事行動を支持した。」

 ※リットン報告書(1932年10月1日に日中両国に通達された。)

「日本軍の武力行使は自衛のためでなく侵略行為であり、不戦条約に違反し、中国の主権を侵している。満州国が住民の自発的な運動によるものとは認められない。日本軍が賊と称している者も、大部分が祖国防衛のための行動である」と認定。「単なる現状回復ではなく日中間に新しい条約を締結させ、満州における日本の本来の権益を確保させる事や、満州には中国の主権の範囲内で広範な自治を認める自治政府をつくり、その政府に日本人を含む外国人顧問を任命する方向で解決を図るべきだ」と報告。

 ※日本の国際連盟脱退

「連盟は1932年11月21日から報告書の審議に入り解決策の試案を作成したが、その審議中に関東軍は満州国の領土をさらに拡大するために熱河省に侵略した。33年2月の臨時総会で、日本の満州国承認の撤回や日本軍の満鉄付属地内への撤兵などの勧告案を42対1の賛成多数で採択した(反対は日本、タイは棄権)。日本全権松岡洋祐はこれを拒否し、会場から退場。1933年3月27日に連盟脱退を通告(1935年5月発効)。同日、天皇は脱退に関する詔書を発布した。36年のワシントン・ロンドン両海軍軍縮条約失効で、日本の国際的孤立は決定的となった。」

 安倍首相談話の中段の部分では、その主語が「我が国は」、「私たちは」となっているが、先にも述べたが、首相談話としてはおかしいし、間違っている。彼は無理矢理に国民を自分と同じ立場に抱き込むために故意に使用していると考えられるが、不愉快である。我々は、国民と安倍政権とは別の物である事を明確にしておかなければならない。侵略戦争は神聖天皇主権大日本帝国政府が加害者として行った事であり、国民は被害者でありながら加害者にされてしまったのである。政府(政権)と国民の責任の程度と内容は異なる。彼の論法は敗戦処理内閣である東久邇宮内閣の「一億総ざんげ」論法をとっている。国民はその論法を認める事はできない。

 米国、豪州、欧州諸国に対し、「支援」と「善意」と「寛容」という言葉を何度も使用しているが、これは、意図的に「へりくだり」、上記の国々人々を持ち上げていい気分にさせる話法であるが、狙いは、言いたい事も言いにくくさせる効果を狙ったものであり、国内外の批判を封じ、彼と同じ立場へ抱き込む論法である。これは偽善者、詐欺師常套手段である。そして、その国々へのお返しとして、「積極的平和主義」なる考えで行動することなのだと自己の政策をアピールしているのである。しかし、中国・韓国に対しては暗に批判し孤立させて、日本に歩み寄らせようとするとともに、安倍政権に批判的な日本国民の政権批判を弱めさせる効果を狙っているのである。捕虜問題の和解と植民地支配の和解とはまったく異なったものであるにもかかわらず同じように扱おうとしており、加害者としてとるべき誠意ある対応を放擲している。

しかし、自由も平等も人権も民主主義も保障されていないうえに、何もできていない(原爆被害補償、空襲被害補償、従軍慰安婦問題、核兵器廃絶など)のに、また、まったく矛盾した事をしている(国旗国歌の強制、靖国神社への参拝、米国の核の傘の抑止力、原発再稼働、安保法制改訂、集団的自衛権行使、教育基本法改訂、教科書検定基準改訂、憲法改訂など)のに、耳触りのよい言葉でアピールするのは、狡猾な偽善者、欺瞞的で非情な人間の手法である。それも国民を自分勝手に仲間に抱き込んだ表現で。

 自分自身の「お詫び」「侵略」「反省」の言葉がないのは、冒頭の植民地支配についての認識にうかがえる「他の国もやっていたのに日本だけが悪いのか」という歴史修正主義の認識であるから、必要ないと考え意図的に使用しないのだと思う。戦後生まれの者は謝罪をする必要がないと若者にアピールしているけれど、若者に謝罪の意識を持たれると軍事行動である「集団的自衛権」は行使できないからである。しかし、戦後を生きる日本人は多かれ少なかれ、戦中に得た富の分配を受け継承にあずかっているのです。逆にアジアの国々は日本の侵略戦争によって多くの富を失い順調に発展できなかったのです。敗戦後、日本は損害賠償を放棄してもらったから。

 国内の戦後補償軍人軍属(戦犯も含む)には手厚い(ご褒美の意味である)が、それ以外の国民には受忍論を押し付けている。戦争に反対した平和を主張した人々、その事によって命を奪われた人々にはまったく目もくれません。名誉回復も行われていません。この事は安倍政権のアジア太平洋戦争に対する認識を示している。戦争を侵略と認めず正当化(聖戦、自衛戦)しているという事である。また、政府として国民には補償はもちろん謝罪さえしていない。国民は天皇に対する当然の奉公であるから。

沖縄米軍(米国)の支配下に譲り渡した事、現在も辺野古新基地建設問題については、どこで歴史認識を明らかにするのか。

 最後に、日本国憲法という言葉がまったく出てこないですね。これも安倍政権が成立をめざす「自民党憲法改正草案」とはまったく別物ですから、当然です。出す気はさらさらなかったという事です。

安倍政権は政権を担当する資格はない。世界をリードする資格もない。

(2015年8月15日投稿)

 

 

 

 

 

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潜伏キリシタン遺産の世界遺産登録は経済効果のためか、国民は学び継承すべき教訓に目覚めよ

2025-02-21 16:50:50 | 世界遺産

 潜伏キリシタン遺跡世界遺産に登録された事を多くのメディア(テレビ各局など)が取り上げている。その取り上げ方は不思議な事に一律で共通しており、登録された事に大喜びをしている事と、その喜びの理由を「経済効果がある」という言葉ひと言で言い表している点に大きな特徴がある。そこには世界遺産に登録されるという事に対するメディアの価値観が端的に現れていると言って良い。これまでの、特に文化遺産に関して言えば、文化遺産を物として外見的な捉え方をするだけであり、それを通してそれを生み出した人々がどのように生きたのか(それはその人たちに対し権力者がいかに対応したのかという事も含むが)やその人々の価値観や思想を理解し、現在の私たちや未来を生きる子孫にとって貴重な教訓にしようとする姿勢態度はかけらも感じさせないものである。それは世界遺産についてお世辞にも真の意味を理解しているとはいえないものである。これは日本国民の最大の欠陥である。

 以下に、神聖天皇主権大日本帝国政府が、長崎浦上村の「潜伏キリシタン」に対してどのような姿勢態度で臨んだのかという事について、農民・高木仙右衛門について紹介するのでそこから教訓を得てほしい。

 「潜伏キリシタン」が国際的問題に発展したきっかけは、1864年12月29日にフランスの力で落成した大浦天主堂(フランス寺)で、65年3月17日に浦上村信徒が名乗り出た事に始まる。当時まだ政権を握っていた幕府は67年7月15日浦上村の信徒約70名を逮捕したが、幕府は政治面でも軍事面でもフランス公使ロッシュに頼っていたため徹底的な弾圧はできなかった。それを示す史料として、その時逮捕された浦上村農民である高木仙右衛門『覚書』がある。それによると幕府長崎奉行・河津伊豆守が仙右衛門に対し改宗を説諭したのに対し、「信教の自由」を訴え「改宗」を拒否したため改宗させられないまま結局「村預け」として釈放している。しかし、帝国政府はそうではなかった。

 帝国政府の「潜伏キリシタン」に対する政策は幕府とは異なり過酷を極めた。1868年3月7日、外国事務係、長崎裁判所(長崎奉行所の後身)参謀に着任した井上馨は「物情騒然たる維新の際、浦上一村をあげてキリシタンである事を騒乱分子として危険視」した。そのため、3月15日、「五榜の掲示」により「キリシタン」を禁じた。そのためそれ以後、外国公使団から「キリシタン禁制高札」の廃止を申し入れられ、「切支丹」と「邪宗門」を書き分ける小手先の改訂をするが、浦上村「潜伏キリシタン」に対しては徹底した弾圧を推進した。

 1868年5月17日には大阪行在所(西本願寺)での御前会議で、浦上村「潜伏キリシタン」の処分を、「一村総流罪」(キリシタンを残さず分散して諸藩に預け改宗させる)と決定した。68年6月7日には太政官布達で浦上村「潜伏キリシタン」の流罪処分が発せられ、7月11日から中心人物114名を津和野藩(28名で高木仙右衛門を含む)、長州藩萩(66名)、福山藩(20名)へ移送し投獄した。70年1月始めには残った村民全員(流罪総人数約3380名)を富山以南の西国21藩に移送し投獄した。

 このような帝国政府の姿勢に対し、各国公使団は直ちに帝国政府に対し警告を発した。71年1月には英国代理公使ウイリアム・アダムズが、右大臣三条実美に対し浦上村「潜伏キリシタン」の待遇改善を申し入れた。それに対し帝国政府は3月にはその要求を受け入れた。さらに、71年12月23日から「岩倉遣欧使節団」が出発したが、訪ねる先の国々で抗議を受けた。72年3月4日には米国大統領グラントから信仰や良心の自由、キリシタン禁制を解く事の必要を勧告された。同年11月27日には英国外相グランウィルからヴィクトリア女王の言葉としてキリシタンの弾圧政策を指摘された。また、仏国外相レミュサやベルギー国蔵相モローや米国国務相フィシュからも抗議を受けた。

 このような事から帝国政府(三条実美)は73年2月24日、キリシタン禁制の高札を撤去するに至る。同年3月14日には太政官布達で「長崎県下異宗徒帰還」を命令し、浦上「潜伏キリシタン」も釈放した。高木仙右衛門はこの間弾圧を耐え忍び、7月9日に帰村できた。しかし、帝国政府はキリスト教を許可したのではなく黙認する事にしただけであった(この事は後の内村鑑三不敬事件でも明確である)。

 津和野藩で高木仙右衛門はどのように扱われどのように抗したのかについては、長崎市本原町お告げのマリア修道会墓地に存する「高木仙右衛門碑文」(1941(昭和16)年建立)に詳しい。そこには「……津和野の冬は寒気稟烈骨を刺す程なるに、翁(仙右衛門)等は単衣の儘にてその冬を過ごし、一枚の布団すら給せられず、一日僅か一合四勺の麥(麦)粥にその飢えを凌ぎ三日或は五日に一度は必ず白州に引き出されて説得を加えられても飽くまで屈せざりければ、三尺牢に閉じ込められて、具に辛酸をなむ、明治二年霜月二十六日の朝の如きは病臥中なりしにも拘らず素裸にされ、氷の張り詰めたる池の中に突っ込まれ、長柄の杓にて容赦もなく、冷水を浴びせられ次第に顔色は蒼黒く舌の根は硬ばり、言葉も自由ならずさすがの翁も今は是までなりと覚悟を定め、天を仰ぎ両手を合わせて一心に祈る、役人等もそれと気遣い命じて池より引き上げしむ、翁は牢内にありても毎日熱心に祈り金曜日毎に断食を行い身をも心をも天主にささげて拷問に堪えるべき力を懇請し、かくして六年の久しきに亘りてよく難萬苦に堪え以て終わりを全うする事を得たり、明治六(1873)年四月放免の恩典に浴し、無事浦上に帰還す、……」とある。

 神聖天皇主権大日本帝国政府は、天皇を神格化し神社信仰・神道を国教として、日本国民の思想的・宗教的統一を確立するために、仏教とキリスト教を弾圧したのである。

 そのような権力者に対して、浦上村の農民・高木仙右衛門は自己の信仰(思想の自由・信教の自由)を守るために命を賭けて抵抗したのである。

 大仏次郎は高木仙右衛門の事を『天皇の世紀』に、「政治権力に対する浦上切支丹の根強い抵抗は、目的のない『ええじゃないか踊り』や、花火のように散発的だった各所の百姓一揆と違って、生命を賭して政府の圧力に屈しない性格が、当時としては出色のものであった。政治に発言を一切許されなかった庶民の抵抗として過去になかった新しい時代を作る仕事に、地下のエネルギーとして参加したものである。新政府も公卿も志士たちも新しい時代を作るためにした事は破壊以外何もして居なかった。浦上の四番崩れは、明治新政府の外交問題となった点で有名となったが、それ以上に、権力の前に庶民が強力に自己を主張した点で、封建世界の卑屈な心理から抜け出て、新しい時代の扉を開く先駆となった事件である。社会的にもまた市民の『我』の歴史の上にも、どこでも不徹底に終わった百姓一揆などよりも、力強い航跡を残した。文字のない浦上村本原郷の仙右衛門は自信を以て反抗した農民たちの象徴的な存在であった。維新史の上では無名の彼は、実は日本人として新鮮な性格で、精神の一時代を創設する礎石の一個となった。それとは自分も知らず、その上間もなく歴史の砂礫の下に埋もれて、宗教史以外の歴史家も無視して顧みない存在と成って、いつか元の土中に隠れた。明治の元勲と尊敬された人々よりも、真実新しい時代の門に手を掛けた者だったともいえるのである」と評している。

 日本国民は、浦上村「潜伏キリシタン」から何を教訓として学ぶべきなのか。

(2018年7月投稿)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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戦時中、大日本帝国政府は日本全国で敵国人を抑留。米国政府は日系人強制収容で謝罪補償。

2025-02-21 10:55:11 | アジア・太平洋戦争

 アジア太平洋戦争中、神聖天皇主権大日本帝国政府は、「敵国人」を日本全国約60カ所抑留(強制収容)した。実態を調べてきた横浜市の元高校教師である小宮まゆみさんによると、日本全国で連合国側の米・英・加・蘭国籍など約1200人抑留(うち50人死亡)したという。これまで実態が明らかにされて来なかった事である。

 米国では、米国市民を含む12万人日系人を内陸の10か所の収容所抑留したが、1988年8月10日、「1988年市民的自由法」を成立させ、米国政府(レーガン大統領)は日系人に対し謝罪するとともに、一人2万ドル補償を行った。ちなみに、「市民的自由法」を成立させ、「謝罪と補償」を実現した「日系人強制収容補償運動」は、収容を体験した世代よりも、その経験のない三世たちによって突き動かされてきた。そして、その源流には1960年代の黒人たちの「公民権運動」と、それによって目覚めた新しい「アジア系米国人」の運動があった。

 「戦時市民転住収容の関する委員会」(1980年7月米国議会に設置可決)の人々をはじめ、日系人補償を主張・支持した一般の米国人たちは、このような過ちを今後二度と繰り返さないためにこそ過去を罰する事が必要だと考えたのである。つまり、自らの民主主義の確立・維持のためにこそ、その原則からの逸脱に十分な懲罰を与える事が必要であると考えたのである。上記委員会報告は下記のように述べている。

「我々に困難な時でも民主主義的価値を守る力があるとすれば、それは、自由と正当な手続きをうたう憲法を蔑ろにしたあの悪夢を我々すべてが忘れない事でしか実現しない。不正義を忘れ、無視する国民は再びそれを簡単に繰り返してしまう」

市民的自由法

議会は、戦時市民転住収容に関する委員会が述べた通り、第二次大戦中における市民の退去、転住、収容により、日系の市民及び永住外国人の双方に対して、重大な不正が行われた事を確認する。同委員会が認定した通り、こうした措置は、十分な安全保障上の理由もなく、同委員会が認定するいかなるスパイ活動、利敵妨害活動もないのに行われ、多くの場合、人種的偏見、戦時ヒステリア、及び政治的指導の失敗によって動機づけられていた。退去させられた日系人は有形無形の甚大な被害に苦しみ、教育、職業訓練の計算尽せない喪失が起こり、これら全ては膨大な人間的苦悩をもたらしたが、適切な補償は行われなかった。これら日系人の基本的な市民的自由と憲法上の権利の根底からの侵害に対し、議会は国を代表して謝罪する」

(2021年12月18日投稿)

 

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斎藤隆夫の「反軍演説」と衆議院議員の動向

2025-02-20 10:58:03 | 斎藤隆夫

 1940年2月2日、第75帝国議会の2日目。斎藤隆夫は衆議院で、泥沼化していた日中戦争について、民政党から代表質問(反軍演説)をした。この演説に対して、米内首相は適当な答弁でかわし、畑陸相は沈黙した。ところが、会議後、軍務局長の武藤章らが、演説を「聖戦の目的を侮辱し、10万の英霊を冒涜する非国民的演説だ」として問題視し、斎藤の除名を主張した。

 斎藤演説の要点三つである(草柳大蔵『斎藤隆夫かく戦えり』)。

①「日中事変(日中全面戦争)が始まって2年半、10万の英霊という犠牲を払っても解決していない。戦いはいつまで続くか、処理はどうするのか。それを国民に示せ。

②「事変」に対する日本の態度を表明した第2次近衛声明(日満華三国連帯による東亜新秩序建設)のなかに「聖戦」「八紘一宇」とあるが、戦争の本質は歴史の示す通り弱肉強食であり、そのような考えでは事変は解決しない。

第1次近衛声明「蒋介石を相手にせず」とあり、汪兆銘の政権(大日本帝国政府の傀儡政権)に望みをかけているらしいが、それで事変の処理が可能か。蒋・汪両政権の関係はどうなるか。

である。

 軍部は、斎藤除名に同調する他の議員もいた事から、懲罰委員会にかけさせ、1940年3月7日、衆議院は除名を可決した(反対は7名)。そして、議長は演説の5分の3を官報速記録から削除した。その内容は、

「現在世界の歴史から戦争を取り除いたならば残る何物があるか。一たび戦争が起こりましたならば、最早問題は正邪曲直の争いではない。是非善悪の争いではない。徹頭徹尾力の争いであります。強弱の争いである。強者が弱者を征服する、これが戦争である。正義が不正義を膺懲する、これが戦争という意味ではない。……この現実を無視して、唯いたずらに聖戦の美名に隠れて、国民的犠牲を閑却し、いわく国際正義、いわく道義外交、いわく共存共栄、いわく世界平和、かくのごとき雲を掴むような文字をならべ立てて、千載一遇の機会を逸し、国家百年の大計を誤るような事があれば、現在の政治家は死してもその罪を滅ぼす事はできないのであります。……」というものである。

 2日後の3月9日には、社会大衆党がこの除名に反対した片山哲ら7議員を除名した。

驚くべき事は、その同じ日、衆議院は「聖戦貫徹決議案」を可決し、3月25日には各派の衆議院議員100名余りが「聖戦貫徹議員連盟」を結成し、全政党の解散一大強力新党の樹立を提唱た。この動きは近衛文麿を中心とする1940年6月からの新体制運動に発展し、さらに政党の解散、政党政治の崩壊を経てその年10月には大政翼賛会の発足へと進み日本のファシズム体制が整備完成されていったのである。

そして、大日本帝国政府は1940年11月には「紀元(皇紀)2600年式典」を実施した。当時「紀元(皇紀)2600年」をどう受け止めていたのだろうか(大日本雄弁会講談社『雄弁』の巻頭言「輝く新春」)。

聖戦ここに2年有半(1937年7月7日の盧溝橋事件にあたる)、国威いよいよ揚り、興亜新秩序建設の途上に於いて、輝ける皇紀2600年の新春を迎える事は、何という意義深い事であろうか。改めて、神武肇国の偉業を仰ぎ、国恩の有難さに感銘を新たにしつつ、将来への方途に深き省察の機縁を与えられた事は、まさに神意の恩寵であらねばならない。日本民族は、肇国の当初、既に八紘一宇の皇謨を授け賜ったのである。われらの行動一切は、肇国の神勅から一歩も逸脱せず、また逸脱する事を許されない。さればこそ、日本の大陸経綸は、侵略にもあらず、征服にもあらず、皇道に基づける仁愛と正義の弘布である。それ故に、満州事変も、支那事変も、聖業といい聖戦と言い得る。またこの清純な理想あるが為に、東亜の新秩序は必成の可能性を持つのである。われらは、この皇紀2600年を祝うのに、決してお祭り騒ぎを要しない。唯決意を新たにして聖業達成に驀進すればよい。それが尊き国恩に報いる最上の道である。……」というものに表れていると思う。

※参議院議員選挙や東京都知事選挙には、主権を持つ国民の一人ひとりが自分のため子孫のために、「国家百年の大計を誤るという罪」を犯さぬように「立憲主義」「人権」の尊重を第一に考える議員を選ぶ事が今ほど大切な時はありません。安倍自公政権(日本会議)はこれとは真逆の政治勢力です。

(2019年5月28日投稿)

 

 

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満州事変、5・15事件、2・26事件に見られる朝日新聞の論調

2025-02-20 10:44:12 | メディア

 1931(昭和6)年9月18日に満州事変は起こった。その概要は、

関東軍が満州(現中国東北部)奉天(現瀋陽)の柳条湖南満州鉄道(日本の半官半民の国策会社)線路を爆破、それを「中国軍」の仕業とし(謀略)、「自衛」と称して軍事行動を開始。立憲民政党第2次若槻礼次郎内閣(1931年4月~31年12月)は不拡大方針を表明したが、閣内不一致で総辞職。関東軍は不拡大方針を無視し、32年1月までに満州全域を占領、3月には満州国を建国した。立憲政友会犬養毅首相(1931年12月~32年5月)は満州国の建国と承認に反対したが5.15事件で暗殺され、海軍大将斎藤実内閣(1932年5月~34年7月)が32年9月満州国を承認(日満議定書)した。

 満州事変直前の論調はどのようなものであったか。朝日新聞は「大阪朝日新聞」と「東京朝日新聞」に分れており、特に「大阪朝日」は軍備縮小や軍部批判の論調が強かった。同年4月19日の社説「内閣の決心を示せ 軍備整理の実現につき」では「軍部の一手に軍制改革の大事業を任せて置く事はわが国策のうえに多大の不安が伴生するおそれがある。この上は内閣の方針として軍備整理及びこれに伴う経費節減額を決定し内閣において断然これが実行の決心を示すべきである」と軍縮断行を強く要求

同年8月8日の社説では「軍部が政治や外交に嘴を容れ、これを動かさんとするは、まるで征夷大将軍の勢力を今日において得んとするものではないか。危険これより甚だしきはない。国民はどうしてこれを黙視できようぞ」と主張。

同年9月17日の社説では「故に吾人は若槻首相に望む。昨今満蒙問題の論議、漸く激化せる折柄、軍部の興奮を善導して意外の脱線行為をなからしめ、これを支柱として対支外交に清鮮味を加えてその基礎の上に国際正義に基づく近代的外交の殿堂を築き上げんことを。これが何人かの手に成し遂げられなければ、徒に退嬰の結果による衰退か、または猪突主義による転落か、日本の運命は二者その一つを出でないであろうことを確信する」と中国と外交による解決を要望

そして、1931年9月18日、満州事変起こる。

同年9月20日の社説「日支兵の衝突 事態極めて重大」では、「中国軍の仕業」と断定し、「わが守備隊が直ちにこれが排撃手段に出たことは当然の緊急処置といわねばならぬ」と自衛のための武力行使は当然と主張。

同年10月1日の社説「満蒙の独立 成功せば極東平和の新保障」では「満州に独立国の生まれ出ることについては歓迎こそすれ反対すべき理由はないと信ずるものである」と中国からの満州独立を喜んで認めた

 事変を境に論調が変わった。その原因は何か。後藤孝夫著『辛亥革命から満州事変へ 大阪朝日新聞と近代中国』によると、直接の原因は軍部と密接な関係にあった右翼の内田良平からの圧力だという。それ以前から社長や役員に対する襲撃事件や社屋への乱入事件など、右翼がテロの標的としていた。また、在郷軍人軍部右翼などが、朝日新聞に対する不買運動を展開した。このような嫌がらせ妨害を受けてきた上での内田の圧力によるものといわれる。

大阪朝日新聞は、同年10月12日には重役会議を開き、軍部批判を中止し軍部を支持する事、東京朝日にも同調させる事を決定(満州事変に対する社論を統一)したといわれる。

朝日新聞は満州事変後、事変の報道を強化して読者を煽り、喜び夢中になるような紙面作りをした。そのため発売部数は拡大し、利益も増大した。報道の特徴はどのようであったか。①軍の発表を受け、事態の変化を追認、②衝撃的な話や写真を好んで掲載、③勧善懲悪型で日本軍を善、中国軍を悪とする、④戦場を誇張銃後の美談を報道

政府や軍部などの言論統制だけでなく、自ら進んで戦争を肯定し、敵国への憎悪をかきたて国民を戦争へ駆り立てた。満州事変に関する講演会や映画上映も頻繁に実施した。

1931年10月16日には社告「満州に駐屯の我が軍将士を慰問、本社より壱万円、慰問袋二万個を調製して贈る」を載せ、朝日新聞が費用を負担して満州の前線将兵に日用品など様々な品物を詰めた慰問袋を送り直接軍を支援した。同時に読者に対して「慰問金募集」も呼びかけ、巨額の慰問金を集めた。

 1932年の5・15事件に対する大阪朝日新聞の論調はどうか。東京朝日新聞や読売新聞など他紙が事件参加者に同情的で、政治の無策を批判したのに反して、同年5月16日の大阪朝日新聞社説「帝都大不穏事件 憂うべき現下の世相」では「陸海軍の軍服を着したるものの暴行(警視庁発表)なりというに至りては、言語道断、その乱暴狂態は、わが固有の道徳律に照らしても、立憲治下における極重悪行為と断じなければならぬ」「今回の団体的暴挙は、例えその動機に如何様のもの含まるるも国憲擁護の上からその行為はこれを厳罰に処し、またと再びかくのごとき事の繰り返さざるよう国民一般に戒慎しなければならぬ」と主張。

同5月17日の社説でも「テロ」や「ファシズム」を排撃した。しかし、5・15事件に関連した大阪朝日新聞の軍部批判はこの2回で終わる。

1936年の2・26事件に対する論調はどうか。この事件では東京朝日新聞の社屋なども襲撃されたが、同年2月29日の東京朝日新聞社説「一億臣民一致の義務」では「二十六日早暁、帝都に起こりし大不祥事は、国の内外の驚きであり、今更いう言葉を知らぬのであるが、これを機会に国体を一層安泰にし、政治の刷新にまい進することが、国民全体の負担する第一の義務であると信ずるのである」と主張。同年3月1日の東京朝日新聞社説では、軍部首脳の責任を追及するのでなく、反乱を鎮圧した軍当局に「敬意を表する」というものであった。

朝日新聞は、2・26事件を期して、政府や軍部に対する姿勢を転換し、同調・迎合し、日本の侵略を全面的に支持し、読者や国民に対し戦争への協力を訴え戦意高揚を図る論調を強める。

このような動向は、他紙も大同小異であった。読売新聞社の正力松太郎氏は、満州事変に際して、「戦争は新聞の販売上絶好の機会」と語り、夕刊発行に成功したという。

今日、マス・メディアに携わる者は、この歴史から何を教訓として学んでいるであろうか。

(2015年12月20日投稿)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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