岩波の雑誌「世界」12月号に「異端者の政治 安倍政権試論」という論考があった。論者は朝日新聞政治部記者・二階堂友紀。僕がこのブログに書いてきた政治家安倍像と同類のモチーフで興味は深かったのだが、もっと明確に描き出せるはずと不満だった。二階堂はその異端ぶりを「情念の政治」という点に観ているのだが、その情念の中身、規定にもっと踏み込めるはずだという不満である。二階堂が立場上できなかったのかも知れないその踏み込みを、以下に試みてみよう。安倍晋三氏が、自民党最大派閥の会長に納まったこの時に当たって。
二階堂は、どこからかこんなうまい表現を拾ってきて、書いている。
『「ドン・キホーテのような面がなければ歴史は動かない」「政治指導者には『狂』の要素が必要だ」「『使命』のある政治家と、そうでない政治家には絶対的な違いがある」。安倍氏の側近はよく、そんな宰相論を口にした』
この「狂」、「使命」を二階堂は描き切っていないのだが、安倍晋三は近代政治理念を何も理解できていない1人の狂信者政治家にすぎないのである。近代政治理念が無視できてきたからこそ、狂信を温めてきた政治家と言っても良い。本気かどうかさえ疑わしいのだが、彼が持ち上げてきた日本会議のこんな文章を信じ、奉ってきた政治家なのだ。
『 125代という悠久の歴史を重ねられる連綿とした皇室のご存在は、世界に類例をみないわが国の誇るべき宝というべきでしょう。私たち日本人は、皇室を中心に同じ民族としての一体感をいだき国づくりにいそしんできました。
しかし、戦後のわが国では、こうした美しい伝統を軽視する風潮が長くつづいたため、特に若い世代になればなるほど、その価値が認識されなくなっています。私たちは、皇室を中心に、同じ歴史、文化、伝統を共有しているという歴史認識こそが、「同じ日本人だ」という同胞感を育み、社会の安定を導き、ひいては国の力を大きくする原動力になると信じています』(「日本会議がめざすもの」から)
この文章の中に、安倍の「狂」「使命」が全部入っている。この「歴史認識」「同胞感」こそ、「社会の安定を導き、国の力を大きくする原動力」だと言うのだから。この実現が政治家としての彼の使命と解すれば、「ドンキホーテ」も「狂」も初めて分かるというものだろう。
・彼は主権者の一部を「反日」と呼んでやまない。首相という公僕が、日本国の主権者を反日と呼べるわけなどないはずなのだが、そんなことも分からないのは、「天皇・日本主義」という「同胞感」にだけこの国を託しようという素朴極まる全体主義者だと解すれば、容易に理解できるはずだ。ただ、政治家としてのこんな態度、考え方は、狂っていると言うしかない。
・日本国権の最高機関・国会で嘘を連発してきたし、「関係していたら議員も辞めます」という国会答弁も簡単に投げ捨ててきた。野党の質問にはまともに答えず、関係ないことを長々と演説して答弁時間を潰してきた。民主政治の金言、「私は貴方の意見には反対である。が、貴方の発言権は命を賭けても守りたい」と正反対の態度だが、これも素朴極まる「同胞感」全体主義者の態度なのだ。大学では政治学を学んだそうだが、彼は全体主義というものが国民を巻き込んだ場合の行きつく先の怖さは学ばなかったのだろう。
ただし、安倍晋三氏ご自身が、本当にこういう同胞感を持たれ、この力を信じているのか。これ自身も、僕には疑わしいのである。真にこれがあるならば、拉致問題も北方領土問題ももうちょっと早く解決できていたと、そんな気がする。それとも、この「同胞感」でさえも「ヤッテル振り」なのか。反対者に対する平然たる嘘八百やごまかしなどのあの「人を人とも思わぬやり方」には、普通のヒューマニズムが持っているはずのシリアスさが毫も感じられないからである。