九条バトル !! (憲法問題のみならず、人間的なテーマならなんでも大歓迎!!)

憲法論議はいよいよ本番に。自由な掲示板です。憲法問題以外でも、人間的な話題なら何でも大歓迎。是非ひと言 !!!

「よたよたランナーの手記」(145) 「心臓は鍛えられない!」 文科系

2015年12月04日 00時07分57秒 | スポーツ
 先の11月26日、144回に書いた通りのことをやっている。
 時速12キロをいつも入れているとか、効果絶大と分かった外走り1時間とか、25日は90分13キロとか、いろんな走り方をしている。

 砂地面を走るのが気持ちいいので、鶴舞公園まで走って行ってそのグランド外周すぐ内側を10周弱走って帰ってくる。さらに、走りを大きくするためにグランド一周の歩数を600歩ほどから440歩ほどまでへと、その日の周回歩幅をだんだん伸ばしていくよう意識している。すると、蹴り脚、特に足首、膝が強くなると驚くほどに感じられる。

 なお、外走りをやると走行フォームも良くなる。マシンで走ることによって蹴り脚が弱くなると、フォームが乱れるのだろう。僕の場合は今、左の蹴り脚が弱く、その結果右の膝や踵に無理が来ていたようだが、そこがいつも痛くなる悩みまで解消した。おかげで今は、鶴舞公園グランドを10周して家に帰ってきても、50分ちょっとで済むという、大変な進歩だ。6周でも歩幅の大きい走りでかなり疲れたという11月初め頃が嘘のような気がしている。砂地を強く蹴って走りを大きくする努力をしてきて効果はてきめん、筋力が強くなったということだ。ジム走りで、10・5キロ時を1分160歩のピッチでも普通に走れるようになった。

 さて、そんな今日ジムで1時間。4・8の5・3で、計10・1キロだが、この5・3キロの方が僕のこの8年における30分最高タイ記録になる。今年の4月22日に作った記録だが、それに並んだ。これで前半をよくやってきたように5キロ走れば10・3キロと、いつでも1時間の新記録がでるところまで来た。
 ただ、30分で5・3キロと言えば、ほとんどを10・6キロ時で走っているということ。これはかなり心臓に来る。今の僕の場合、心拍155ほど以上でずっと走ることになるからだ。ちょっとフォームを乱したりすると知らぬ間に165まで上がっている時もあり、慌てて深呼吸したりする。165なんてのは、ランナーではない平均的な人でいえば55歳の最高限度ということになる。後で頭がややぼーっとするから、これは身体中で酸素を最も食う脳が少々酸欠ということなんだろう。

「筋力は鍛えられるが、心臓は難しい」
 この言葉を、久しぶりに思い出していた。
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随筆紹介  万葉からだ歌(四) 「肌」 心暖まるところ   文科系 

2015年12月03日 13時27分33秒 | 文芸作品
「肌」心暖まるところ   N.Rさんの作品です

旅衣八重着重ねて寝ぬれども
 なお肌寒し妹にしあらねば
 ──冬の旅は衣を八重に着重ねて寝るけど、なお肌寒い。妹の肌のぬくもりではないからだ──

 万葉集の歌言葉には”肌のおしゃべり”がいかにも多い。餅肌・鳥肌・肌寒い・肌を許す──などと。さらに温度形容詞も、ひややか・ひんやり・なまぬるい・なまあたたかい。また、ぬるぬる・つるつる・すべすべ・かさかさ・しっとり・ざらざら──の触覚までも”肌の声”だという。

 笹が葉のさやぐ霜夜に七重着る
 衣にまさる妹が肌しも
 こうした肌言葉の流れは、やわ肌の熱き血潮──湯あみして泉をいでしやわ肌にふるるはつらき人の世の絹(晶子)と、現代短歌にたどりつく。

 いうまでもなく、いずれも肌感覚でする語で、皮感覚から出た表記でない。肌のまがりかど、お肌の手当、肌が合う人が、ともするとスキンケアなどと今の人はいう。スキンは皮のこと、皮の手入れだろうか。
 万葉表記の肌は、人肌、心のぬくもり、人間同士のふれ合いの深さで詠まれている。この点、皮は、からだの一番外にあるもので、外界と他者、つねに心を遮断するものであったようだ。だから夫婦、親子、恋人語に皮感覚は入れようがなかったにちがいない。

 性愛文学の中の肌も、死語になりつつある。心を許し合う意味の”肌を許す”や”素肌の恥”などの表記はすっかり消えて”する”、”した”の行動だけの描写になってしまった。”素足”を”生足”などという時代だから、肌感覚語の復活はあきらめるしかない。
 人形師の辻村ジュサブローさんは「私の人形作りは、チリメン布を生かして肌ざわりのよい素肌作りからはじめる」と語る。「酒も、湯たんぽのぬくもりだって、人肌だからね……」とも。

 なお肌感覚のさいたるものは、いじ悪く遠まわしに人を非難する”皮肉”かな。
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琉球新報より  らくせき 愛知・自民を落とそう

2015年12月03日 09時41分52秒 | Weblog
米軍普天間飛行場の返還・移設問題で「県外移設」を模索する方針を示していた民主党政権に対し、外務省官僚が米政府に「妥協すべきでない」などと、助言していたことが4日、分かった。内部告発サイト「ウィキリークス」が公開した米公電によると、2006年春に日米両政府が合意した米軍再編ロードマップ(行程表)で示された在沖海兵隊8千人と家族9千人のグアム移転について、政治的成果をアピールするため、実態より膨らませた数字を挙げていたことも明らかになった。

 在沖海兵隊のグアム移転費について、米政府が、関連費用を水増しして日本側の負担を見かけ上減らし、日本政府も08年に追認したことも判明した。建設費約10億ドルの軍用道路を再編費用に盛り込んだことについて「総体のコストの見積もりを増やし、日本側が負担するコストの比率を減らすため」と言及。92億ドルだった総額を10億ドル増やすことで、3分の2だった日本側の負担比率が60%を切るよう操作していた。
 民主党政権への交代後、官僚が再編行程表を維持するよう米側に言及したケースとして、2009年10月12日、高見沢将林・防衛政策局長が、来日したキャンベル国務次官補らとの非公式の昼食の席で、「米側が早期に柔軟さを見せるべきではない」と助言。日本政府の政務担当の参事官らが、在日大使館政務担当者へ同様の発言をしたことが電文で報告されており、官僚が鳩山政権の県外模索を阻む動きをしていたことが示された。
 米軍再編を通し、日本政府は在沖海兵隊を「定数1万8千人」とし、グアム移転で約1万人が残るとの認識を示していた。公電は、実際に移る海兵隊員は8千人に達することはないとの見通しを示し、家族の9千人は最も大きく見積もった場合の数字としている。
 在沖海兵隊が06年時点で「1万3千人水準」とし、移転の実数が8千人を大幅に下回ることが確実だ。
 当時の鳩山由紀夫首相が移設先決定を先送りした直後の09年12月21日、藪中三十二外務事務次官(当時)の発言として「政府による見直し作業で辺野古移設に代わる実行可能な案が見つからなければ、06年の再編合意に立ち返る、と鳩山氏は確認した」と、早い時点で辺野古回帰が念頭に大きくあったことも電文で示されている。

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随筆紹介  万葉からだ歌(三) 「腰」、肝心腰    文科系

2015年12月02日 11時05分26秒 | 文芸作品
万葉からだ歌(三)「腰」 肝心腰   N.Rさんの作品
   
降る雪を腰になづけて参り来し
 験もあるかも年の初めに
 (雪が深く腰までまとわりつく。でもやって来てよかった。新年の趣向はとても心地よく、招待してくれた方の気持ちがうれしい)

 ひた土に足踏みぬき夏草を腰になづみいかなるや通はすも妹
 (足にけがをするのもかまわずに、夏草にからまれるのも気にしないで、せっせっと通って行くのは、美しい娘が目当てなのだよ)

 万葉集人は、ことのほか「腰」を大切にし、日々の暮らしの中で、その腰に多くのことを語らせてきた。腰の初漢字は「要」。腰骨の象形で、女の骨盤が子を育て生む重要な部分、要点の意にしてきた。
 現代とおなじように「腰をかける」「逃げ腰になる」「話の腰を折る」。「腰をすえてかまえる」「腰抜け者」などの意を込めた言の葉の歌はたくさんある。そうそう「腰が低い人」「腰のすわった人」も登場してくる。

 後年、お能、狂言が腰の美を観せるもので、歌舞伎の”六方を踏む”強く美しい芸も腰の訓練から。いずれも腰こそが肝心要なものと心してきた。今、街のあちらこちらで地面にペタンと座り込んでいる制服の女学生は「腰の抜けた人」というしかない。

 こうした腰にかかわる文化も、今昔で少し変化してきたことはたしか。かっては、全体的に肉付きがよく豊かな腰回りの女性を多産安産のあかしと、尊んできた。肥満、太っているという言葉はなく、豊満であった。日本人が美の原型とした仏様の姿だって、ふくよかな腰回りである。七福神も、女は弁天様一人だが、全員が豊かな体型。万葉集人、大伴家持をはじめ秀歌を持つ歌人たちは、男女を問わず豊かで太って描かれている。小さい細いは貧弱、病弱の意だった。
 だからである。さかんにダイエットをし、拒食病で頬がそげおち、すんなり腰になっては、豊かな頬笑みも失ってしまう。子どもの一番のやすらぎは、母の太めの腰で、すがり、まとわりつくのも自然なこと。柳腰の細さではカエルだってずっこけおちる。
 英語のウェストと日本人の腰とでは、かなり意味が違うものでは・・・・。

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随筆紹介  万葉からだ歌(二) 「肩」もの言いたげに   文科系

2015年12月01日 14時02分32秒 | 文芸作品
ー万葉からだ歌ー(二) 「肩」もの言いたげに   N・Rさんの作品です

 今年行く 新島守が 麻衣
 肩のまよいは 誰か取り見む
(七ー一二六五)

──召された防人は妻から遠くに行き、これからは、肩のほつれを誰がつくろう ──

 からだ意識は、時代、性差、年齢によって変化する。今の子どもたちに「どこが一番大切か」と聞くと、「顔、頭、胸」と答えるだろうか。もの言いたげな、表情ゆたかな肩は、あまり見ていないから大切なものに入っていない。

 大人は「肩書き」と言うかもしれない。昔の肩で風切る権力の裃なのだろう。生活の重荷がのしかかるのが肩。「肩入れをする」「肩をおとして」「肩すかしをくう」「肩をかす」「肩がこる」など。
 だが、この「肩がこる」は江戸時代には「肩がはる」だった。「こる」とは言わなかった。文学の世界で「肩がこる」を初めて使ったのは夏目漱石の作品『門』あたり。樋口一葉は、まだ江戸を引きずって「肩がはる」と書いている。彼女の日記文も「はる」表記。

 ”文章の神様”といわれた志賀直哉は、漱石の「肩へ来て人なつかしや赤とんぼ」の一句に心ひかれて、作品の中でも、それまでの「はる」を「こる」とした。代表作品『暗夜行路』の名場面は、貞淑な妻が、肩こりが病の従兄の肩をもむことで不貞に走る──となっている。明治以降の緊張型社会のなかで、ますます肩をこらす人が多くなったらしい。
 人気シンガーソングライターの中島みゆきの「夜曲」の歌詞でも「肩に降る雨」「肩に冷たい夜の風──」と、やたらに肩を連発している。

 今、知人、友人の間で唯一触れていいのが肩。「肩を組む」「たたいて励ます」「肩を並べて」と。これが「頭をたたいて」は大げんか。胸、尻だったら、それこそセクハラになる。
 万葉集の”愛は夫の肩先から”とうたう妻の一首もそれ。雪も雨も肩に降り、まずぬれるのは頭や顔ではなく肩なのだ──。
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