【中東・砂の迷宮から】:二つの戦争、重なる思い 日本人が忘れていること
『漂流する日本の羅針盤を目指して』:【中東・砂の迷宮から】:二つの戦争、重なる思い 日本人が忘れていること
「その携帯電話の中にあなたにとって大事な写真はありますか?」
シリア難民をインタビューした際、何人かにこんな質問をしてみた。2020年12月、トルコ南部の都市ガジアンテップでのことだ。シリアで11年から続く内戦によって故郷を去らざるを得なくなった彼らが、何を大切に思っているのか知りたかったからだ。
いま、世界中の多くの人にとって携帯電話は生活に必須の道具となっている。それは難民であっても例外ではない。その中には、きっと大切な記憶につながる写真が保存されているはずだ。私はそう考えた。
シリア北西部アレッポ県出身の男性ハッサン・マルヤミーニーさん(38)が「これです」と自分のスマートフォンを示す。そこに映っていたのは何気ない住宅街だ。中央に延びる舗装道路は雨にぬれ、道路右側は黄土色の塀、左側にはコンクリート造りの家の一部が見える。道には青い旧式の自動車が止まっているだけで人影はない。
「私の家の前を写した1枚です。故郷の町タルラファトは今、アサド政権とクルド人勢力の支配下にあり、危険で戻ることができません。もし戻れば、彼らは私を拘束することもなく殺すでしょう」。反政権活動を続けてきたマルヤミーニーさんは静かな口調で語る。
一緒にインタビューした同郷出身の男性マフムードさん(42)も、やはり自分の家の写真を示した。窓ガラスが割れ、室内に破片が散らばっている。「私にとってこの家が一番大事なものです。夢は子供たちをあそこで育てること。すっかり破壊されているでしょうが、再建するつもりです」。きっぱりと言って画面を見つめた。
2人は共にトルコ南部のシリア国境手前の町キリスで家族と暮らして数年になる。故郷の町まではまっすぐ南下すれば約30キロしかない。
ガジアンテップ在住の男性ヒシャーム・エスカフさん(43)はインタビュー中、故郷の城下町アレッポを思って不意に目に涙を浮かべた。アレッポは紀元前から続くシリア北西部の歴史都市だ。追われるようにトルコへ避難して4年近くが過ぎた。「私の夢は家族を連れてアレッポに戻り、城の前でコーヒーを飲むこと。けれど、殺害される危険があるので行くことができないのです」
帰りたいのに帰れない。紛争で故郷を追われた人たちの話を聞くうちに、私の脳裏に数年前のある記憶がよみがえった。それについては後段で述べたい。
◆アラブの春とシリア内戦
「アラブの春」から10年がたった。10年12月にチュニジアで始まった市民のデモを皮切りに、エジプト、リビア、シリアなど中東各国へ広がった民主化要求運動である。当時、各国の長期独裁政権に大勢の人々が「ノー」の声を突きつけ、チュニジアやエジプトでは独裁者が退陣に追い込まれた。リビアとイエメンでも独裁者は排除されたが、泥沼の内戦に陥って今も終わりは見えない。シリアでは独裁政権は倒れなかった。
父子2代にわたってシリアを支配するアサド政権は、国内で11年3月に始まったデモを苛烈に弾圧する手段に出た。反体制側も武器を手に取り、内戦が始まる。アサド政権軍、反体制派、イスラム過激派などが入り乱れて争う構図となった。その混乱を突いて過激派組織「イスラム国」(IS)はシリアとイラクにまたがる領域を一時占拠した。
トルコやサウジアラビアが支援する反体制派やイスラム過激派、ISの伸長で劣勢に追い込まれていたアサド政権は、やがて息を吹き返す。戦況を決定づけたのはアサド政権を支援するロシアの軍事介入だ。15年9月、ロシア軍のシリア空爆が始まり、地上では連携するイランの革命防衛隊や民兵が攻勢に出た。アサド政権の支配エリアは見る見るうちに回復していった。
◆ロシアが絡む二つの紛争
ロシアのプーチン政権がシリア介入に踏み切ったそのころ、私は特派員としてモスクワ支局に勤務していた。当時ロシアにおける最大の懸案は14年春に始まったウクライナ紛争だった。14年2月に首都キエフでロシア寄りのヤヌコビッチ政権がデモの激化で倒れた後、ロシアはウクライナへ侵攻した。プーチン政権は旧ソ連の隣国を自国の勢力圏とみなし、親欧米の新政権誕生を重大な脅威と考えたためだ。
ロシア系住民が多いウクライナ南部クリミア半島は2月にロシア軍の覆面部隊に無血制圧され、恣意(しい)的な住民投票によって不法にロシア領へ編入された。同様にロシア系の割合が多い東部ドネツク、ルガンスク両州では4月ごろから親露派勢力による政府庁舎の占拠が始まり、やがてウクライナ政府軍との紛争に発展する。親露派勢力の裏にはロシアがいた。プーチン政権はこの年の夏には秘密裏にロシア軍をウクライナ東部2州へ侵攻させて戦況を覆し、親露派支配地域を固定化させた。親露派は一方的にウクライナからの独立を宣言し、現地には「ドネツク人民共和国」「ルガンスク人民共和国」というロシア影響下の疑似国家が二つ存在している。
こうして振り返ると、ウクライナとシリアのいずれの紛争においてもロシアは当事国であり、状況を決定づけた。ウクライナにおいてはクリミアと東部2州の一部が政府の統治下から外れ、国家分裂状態に陥っている。シリアでは、アサド政権が国土の大部分への支配を回復させたが、やはり国家分裂状態だ。トルコが支える反体制派は最後の拠点となった北西部イドリブ県に陣取り、米国が支えるクルド人勢力は北東部一帯を支配する。
ロシアの息が掛かったエリアとそれ以外のエリアとの割合が、ウクライナとシリアでは逆転の構図にある。ウクライナでは国土の大部分はロシアと敵対するウクライナ政府の統治下にあるが、シリアではロシアが支えるアサド政権の支配エリアが最も広くなっている。プーチン政権の側から見ると、隣国ウクライナでヤヌコビッチ政権を倒されたが、シリアでは米欧が望んだアサド政権の崩壊を阻止し、リベンジを果たしたとも言える。
故郷を失った人々
トルコ南部での取材に話を戻そう。20年12月にシリア難民たちから望郷の強い思いを聞いた私は、ガジアンテップの城下町を歩きながらふと気づいた。同じように望郷の思いを抱える人々を知っている。話を聞いたことがある。それは、ロシア支配下となったクリミアやウクライナ東部の親露派支配地域を追われた人、逃れた人たちの声だ。私は14~17年にウクライナ各地を訪ね、故郷を失った人々からやるせない心境を打ち明けられていた。
「クリミアではどこもかしこもが私の好きな場所です。旧都バフチサライを歩けば、昔の人々のことが頭に浮かぶ」。クリミア半島の先住民族であるクリミア・タタール人の政治家、ムスタファ・ジェミレフさん(77)はキエフの事務所で14年当時、こう語った。ロシアによる編入強行に反対したためロシア政府から危険人物扱いされ、故郷へ帰れなくなった。クリミア・タタール人はソ連のスターリン時代に“敵性民族”とのぬれぎぬを着せられ、中央アジアへ民族まるごと強制移住させられた。帰郷できたのはソ連末期のことだ。若い頃から民族復権運動を率いてきたジェミレフさんにとってロシアのクリミア占領は2度目の故郷喪失だ。苦い思いを語るインタビューが続き、卓上の灰皿にタバコの吸い殻がたまっていく。「ロシアによる占領の継続は私たちにとって痛みの日々に他ならないのです」と力を込めた。
東部ドネツク州出身の芸術家セルゲイ・ザハロフさんは、自らの意思で故郷を逃れた一人だ。ドネツクで親露派戦闘員を風刺する路上アートをひそかに展示して見つかり、拷問を受けた経験を持つ。拘束を解かれた後にキエフへ脱出した。「あのドネツクで黙って暮らし続けるなんて人生じゃない」と親露派支配への憤りを私に語った。その彼はキエフでの現代アート展に風変わりな作品を出していた。金属棒の構造物にマクドナルドのハンバーガーや紙コップ、サッカーの応援グッズが取り付けてある。硬い表情で過去を振り返っていた彼がほほ笑みながら言った。「マクドナルドもサッカーもドネツク市民にとって日常でした。これらが街に戻るとき、私たちも家に帰る」
同じドネツクから一家でキエフに逃れたオメリチェンコ夫妻は「自動小銃が支配する疑似国家で暮らし続けるのは無理です。子供の安全を考えて避難を決めました」と明かした。ロシアが強行編入したクリミアからは数万人が逃れ、東部2州からは約160万人が域外へ避難した。その全員が故郷での平穏な暮らしを奪われたといえる。戦闘による死者は約1万4000人に上る。
◆シリア難民、執念の記録ノート
人口4399万人のウクライナに対し、シリアは1707万人と半分以下である。だが、紛争の被害者はシリアが桁違いに多い。シリア内戦での死者は約40万人、国を脱出した難民は約560万人とされる。国内避難民も数多い。戦闘が東部の一部のみにとどまるウクライナと違って、シリアは全土で激しい戦いが続いたためだ。また、ウクライナへはロシアのみが侵攻したが、シリア内戦にはロシア以外にもイラン、トルコなど多くの国、さらにはレバノンのイスラム教シーア派組織ヒズボラなどの非国家主体が軍事介入している。米欧の有志国連合もISがイラクまで支配地域を広げた14年夏、「IS掃滅」を掲げてシリア空爆に踏み切った。
「このノートを見てください」。シリア北部ラッカ県タブカ出身のシリア難民、アフメド・シェイブリーさん(40)はトルコでのインタビュー中、私に数冊の分厚いノートを示した。アラビア語でびっしりと名前が書かれている。「私はラッカ市とその周辺においてロシア軍、アサド政権軍、シリア民主軍(クルド人主体の民兵組織)、有志国連合、ISに殺害された人たちの名前を記録しています。約5000人分を書きましたが、全体の数は7000人に上るでしょう」
シェイブリーさんは誰に頼まれたのでもなく、たった一人でこの作業を続けてきた。はじめのうちは地元の友人や知人を通じて死者の情報を集め、遺族に確認を取っていったという。そのうち記録活動が知られるようになり、遺族から直接連絡が来るようにもなった。「例えば17年3月31日には有志国連合が市場を攻撃し、市民約200人が殺されました。避難民でいっぱいの学校も有志国連合に空爆された」とノートをめくりながら早口に話す。ラッカ周辺に関しては有志国連合が最も多くの死者を出したとシェイブリーさんは断じる。
重い肝臓病に苦しむ娘など9人の子供を抱えるシェイブリーさんはトルコで定職を得られず、生計のやりくりに苦心している。それでも死者の記録を続ける執念には、戦争への深い怒りを感じさせた。
◆皮膚感覚から遠く離れても
ウクライナとシリア、二つの紛争の取材を重ねて気づいたのは至極シンプルなことだ。21世紀の現代においても、強権国家の横暴や大国の思惑が市井の人々の生命や身体、財産、故郷を奪い、人生を狂わせている――。今の日本では遠くの出来事すぎて、皮膚感覚では理解しがたいかもしれない。少なくとも、特派員として紛争取材に携わるまでの私はそうだった。
70年以上前、第二次世界大戦では日本を含む「大国の思惑」によってアジアの人々、日本人の多くが今のシリア難民と同様の辛酸をなめた。続く1950年勃発の朝鮮戦争は日本人にとってほとんど目の前での出来事だった。60~70年代のベトナム戦争では米軍が日本の駐留基地からも戦地へ赴き、日本国内で反戦運動が盛り上がった。その後、日本は1万人ものインドシナ難民を受け入れている。戦後の日本人が皮膚感覚で捉え得た紛争はこのベトナム戦争が最後ではなかっただろうか。
その後の多くの紛争は日本から遠い地で起きた。大きなものではイラン・イラク戦争(80~88年)や湾岸戦争(91年)、ユーゴスラビア内戦(91~95年)、アフガニスタン戦争(01年~現在)、イラク戦争(03~11年)などがある。いずれの紛争も、日本では我が身に迫るような痛切な出来事とは受け取られなかったのではないだろうか。それでも、世界のどこかで戦争は続いてきた。
冒頭に紹介した男性、マルヤミーニーさんは取材の最後、真っすぐに私を見つめて言った。「あなたがた日本人もかつて、私たちシリア人のように戦争の痛みを感じていたことでしょう。いつか、私たちも日本人のように戦争状態から脱し、祖国を再建できることを願っています」
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元稿:毎日新聞社 東京朝刊 主要ニュース 政治 【政治プレミアム・「中東・砂の迷宮から」・担当:真野森作・カイロ特派員】 2021年02月14日 07:00:00 これは参考資料です。 転載等は各自で判断下さい。