【九州最大の暴力団・工藤会】:「安倍元首相も被害者に」手榴弾が投げ込まれ、ロケット砲まで…縄張りで起きた“戦場レベル”の衝撃事件
『漂流する日本の羅針盤を目指して』:【九州最大の暴力団・工藤会】:「安倍元首相も被害者に」手榴弾が投げ込まれ、ロケット砲まで…縄張りで起きた“戦場レベル”の衝撃事件
「日本最凶」と恐れられていた九州最大の暴力団、工藤会。2014年9月に4代目会長・野村悟が逮捕されてからは衰退の一途を辿っているものの、工藤会最盛期の北九州市は「修羅の国」と揶揄されるほど治安が悪化。一般市民さえも対象にした数々の襲撃事件を起こし、地域社会を恐怖で支配していた。
ここでは、西日本新聞取材班が福岡県警による「工藤会壊滅作戦」の全貌を捉えた『 落日の工藤会 』(KADOKAWA)より一部を抜粋。戦場レベルの危険と隣り合わせだった、当時の北九州市周辺の状況を紹介する。(全2回の1回目/ 続き を読む)
◆◆◆
◆高級クラブに投げ込まれた手榴弾
溝下(編注:溝下秀男。3代目工藤会会長)の時代から北九州市や周辺では、暴力団の関与が疑われる市民襲撃事件が相次いでいたが、野村が実質トップに就任した2000年以降は残虐性が際立ってきた。
なかでも衝撃が大きかったのが、2003年8月18日の夜に起きた「俱楽部ぼおるど」への手榴弾投げ込み事件だ。
ぼおるどは、小倉でも指折りの高級クラブであり、その経営者は、地域の暴追リーダーとして知られていた。地元飲食店などでつくる「鍛冶町・堺町を明るくする会」の役員でもあり、組員の入店を決然と拒否していたのだ。
この事件前にもぼおるどは、工藤会系の組員による嫌がらせを受けていた。前年には店の入り口付近に糞尿を撒かれた事件もあったほどだ。
事件直前には「暴力団追放宣言の店」のステッカーを掲示していた周辺のスナックなど約40店舗のドアのカギ穴に瞬間接着剤が流し込まれる被害も続発していた。
近くの飲食店オーナーは「こんなことばかり続いては小倉が怖いところというイメージが広がってしまう」と深刻な顔で話していたものだ。
そんな中にあり、店への脅しに“戦場兵器”が使われたのだからショッキングだった。
このとき、ホールでは20人ほどのホステスが待機していた。そこに突然、現れた男が手榴弾を投げつけてきたのだ。
手榴弾は一人のホステスの頭に当たってから壁に跳ね返って爆発したのだという。
彼女たちからすれば、何が起きたかもわからなかったはずだ。
すさまじい爆音に、彼女たちの悲鳴が重なった。
手榴弾の保管状態が悪かったのか、不完全爆発だったと、のちに判明している。そうでなかったなら大惨事になっていたにちがいない。
爆発は彼女たちの間近で起きたのである。このときは死者こそ出なかったが、多くのホステスがひどい火傷やケガを負っている。
すぐ近くのビルにいた男性は爆発のすさまじさを次のように表現した。
「ドーンと重機が突っ込むような音だった。地震のようにビルが揺れていました」
◆繁華街の惨劇
手榴弾を投げつけた男はすぐに店から逃走を図っており、通りがかりの男性がその現場を見ていた。
男は店員たちに押さえつけられて、まもなく死亡した。
死因は窒息だった。
店員たちが数人がかりで押さえつけた際に胸部が圧迫されたことによる。
店員たちにすれば、なんとしても逃すことはできないという意識しかなかったはずだ。
この実行犯は、工藤会系の組員(30代)であることが判明している。
防犯カメラの映像からは、この実行犯は一度、店内に入りかけながらもいったん店を出て、また踵を返して店内に戻って犯行に及んだことがわかっている。どうしてそういう行動をとったのかを確かめることはできないが、ホステスたちのいる場所に手榴弾を投げ込むのがためらわれたからではないかという見方もされている。
そのように逡巡したとしても、結果的には実行しないわけにはいかない。そういうところからも工藤会という組織の厳しさが推し量られる。
爆発音に驚いて近くの店の従業員も飛び出してきただけでなく、通行人たちも集まってきていた。繁華街での大騒動なのだから当然である。
救急車も駆けつけ、店の中からは女性たちが次々と担架で運び出された。手足にひどい傷を負い、おびただしい出血をしている女性もいた。爆発で飛び散った破片などが刺さったのか、両足に無数の傷があり、出血していた。
事件当時、県警北九州地区暴力団犯罪対策室の副室長として工藤会捜査の先頭に立っていた藪正孝氏は、連絡を受けて駆けつけた現場の状況について、定年退職後にまとめた『県警VS暴力団』(文春新書)の中で次のように詳述している。
「私が到着すると、すでに負傷者は救急隊が病院に搬送し、店の関係者らは小倉北署で事情聴取中だった。私は応急的に現場を検分した。手榴弾の破片が飛び散り、付近を破壊しているはずだが、そのような痕跡はない。だが、ソファがひっくり返り、爆発現場の壁板が割れていた。壁板を隔ててトイレがあったが、小便器が粉々になっていた。店内のガラス窓は上から壁紙が張られており、壁にしか見えないようになっていたが、爆発現場付近の窓は全て内側から外にガラスが砕け散っていた。つまり強烈な爆風が生じたのは間違いない」
このとき使われた手榴弾は米軍製のもので、爆風の威力が強い攻撃型手榴弾だったのだという。不完全爆発でなかったならどうなっていたのかと、あらためてぞっとする。
ぼおるど襲撃事件の背景として、暴力団の資金源の変化をあげる関係者は少なくない。
1992年に暴力団対策法が施行されて以来、暴力団の資金源は細る一方になっていた。
暴力追放運動が広まり、小倉の繁華街でも「みかじめ料を要求されたらすぐ警察に電話する」という飲食店経営者は増えていた。
暴追運動に携わる弁護士は「暴対法施行で旧来型の集金構図が崩れるなか、恐怖で支配するという彼らの行動原理は尖鋭化しつつあったのかもしれない」と指摘する。
そうした背景もあり、2000年以降は北九州市を中心に市民襲撃事件が相次いだ。
そのうちのいくつかを挙げておきたい。
いまなお取り上げられることが多いのは安倍晋三元首相宅への放火事件だろう。
2000年の事件なので、安倍氏は内閣総理大臣になる前で、内閣官房副長官という地位にあった。
下関市長選挙に絡んで、安倍陣営から対立候補への選挙妨害を依頼されたという男が安倍元首相の地元秘書に対して成功報酬を要求したことが事件の端緒になっている。
妨害依頼が実際にあったのかどうかは後年まで取り沙汰されることになるが、真実はわからない。このときは安倍陣営から被害届が出されて、男は恐喝容疑に問われた。そこでこの男は工藤会系の組長に報復を依頼したのだ。
このときには安倍元首相の自宅の倉庫や後援会事務所などに火炎瓶が投擲(とうてき)された。自宅の倉庫は全焼し、乗用車3台が全半焼する被害が出ている。
この組長は、結果として何の報酬も得られていないが、金目的でこの犯行に及んだものと見られている。
暴力団追放運動に取り組んでいた人物に対する報復事件も多かった。
安倍晋三元首相宅への放火事件と同じ2000年には、工藤会幹部のプレーを拒否した北九州市小倉南区のゴルフ場支配人の自宅に工藤会系組員が侵入して、左胸を刃物で刺して逃走した事件があった。
支配人は、このとき受けた傷が原因となり翌年亡くなっている。
ゴルフ場では、グリーンが破壊されてしまう事件なども起きていた。
少し時間を飛ばせば、2010年には暴追運動に取り組んでいた北九州市小倉南区の自治総連合会長宅への発砲事件があった。
翌2011年には建設会社役員(当時72歳)が射殺されている。
もともと暴力団との付き合いはあった人物だが、業界として暴力団排除が徹底されるようになっていくと、暴力団関係者とは距離を置いて暴排運動に取り組むようになっていた。
そうした状況に対する報復であり、見せしめだったと考えられている。
この役員は、奥さんとともに車で帰宅したところだった。自宅前まで着いたときに後ろから追ってきていたのだろうバイクがその前に止まった。
役員が助手席から降りると、バイクの後部座席に乗っていた男に銃で撃たれたのだ。
銃弾は2発。
首からの失血がひどくて1時間後に亡くなった。
大相撲九州場所を観戦したあとのことだったという。奥さんの目の前で繰り広げられた残忍すぎる犯行だった。
立件には至っていなくても、警察が工藤会の関与を視野に入れて捜査している事件も多数ある。
2010年3月には、暴力団追放を前面に掲げる北九州市の北橋健治市長宛ての脅迫文が市役所に届いた。市長と周辺に危害を加えることをほのめかす内容だった。
2011年3月5日未明には九州経済界を代表する企業である九州電力と西部ガスの幹部宅に、相次いで手榴弾が投げ込まれている。西部ガス社長宅の手榴弾は不発だったものの、九州電力会長宅では爆発し、車庫などが破壊された。
この事件は現在でも容疑者逮捕に至っていないが、福岡県警は当初から工藤会の関与を視野に入れて捜査を進めていた。
事件から6日後の3月11日には、福岡県知事、福岡市長、北九州市長、福岡県警本部長、福岡県公安委員長が緊急トップ会談を開催し、工藤会との対決姿勢を鮮明にしている。
この時期、福岡県内に拠点を置く道仁会と九州誠道会(のちに浪川睦会、浪川会に改称)が抗争状態にあり、こちらでもやはり手榴弾が使われる事件が起きていた。
2011年は、福岡県内で手榴弾が使われる事件が全国最多の6件起きる不名誉な事態となった。
そこで福岡県警は、2012年4月から全国初の「手榴弾110番」制度を導入した。
通報にもとづいて手榴弾がみつかり、容疑者が検挙されれば、手榴弾1個につき10万円を目安に報奨金を支払うというものだ。
市民に対して戦場兵器の情報提供を呼びかけなければならなかったのだから異常事態というしかない。警察にとっても苦渋の決断だった。
2012年6月にも驚くべき事件があった。
福岡県警の家宅捜索により、北九州市戸と畑ばた区の住宅街にある木造2階建ての倉庫からロケット砲がみつかったのだ。
1発で小さなビルを壊すほどの破壊力があるものだというから絶句する。
軍事評論家は「きわめて危険な兵器。軍隊以外に出回っているとしたら衝撃だ」と驚き、県警幹部は「まさに戦場状態」と危機感をあらわにした。
私たち記者も、暴力団関係者に対して「いまの日本でロケット砲にどんな使い道があるのか?」と尋ねているが、「さっぱりわからない」という回答しか得られなかった。
福岡県警はこの倉庫に出入りしていた男を逮捕して、公判で検察は「工藤会の元構成員」と指摘した。
男は無罪を主張したが、実刑判決が言い渡されている。何のためにロケット砲を入手したのかはわからないままになっている。
こうした異常事態が続いていたことから北九州市はいよいよ“暴力の街”“修羅の国”というイメージが強くなっていたのだ。
ゼネコンなどは北九州進出に二の足を踏み、もともと深刻だった人口減少にも拍車がかかった。行政や市民はこうした負のイメージに悩まされ続けていくことになる。
「入れ墨に比べたら痛くないでしょ」暴力団トップを治療した後、路上で何者かに刺され…“工藤会壊滅”を後押しした女性看護師(45)と会長のトラブル へ続く
(西日本新聞取材班/Webオリジナル(外部転載))
元稿:文藝春秋社 主要出版物 週刊文春 【文春オンライン・担当:西日本新聞取材班 によるストーリー 】 2023年06月07日 07:00:00 これは参考資料です。 転載等は各自で判断下さい。