真田邸の西隣 共通券3つ目の「文武学校」へ
真田氏が上田より松代に移藩してから
廃藩までの10代250年間
殖産を興し文武を進めていたが
特に8代幸貫が藩主を継ぐと
より一層 文武を奨励し 佐久間象山らの意見を入れ
蘭学・西洋砲術などを 積極的に取り入れ
水戸の弘道館にならった 文武学校の建設をすすめた。
その後 9代・幸教が 幸貫の志を引継ぎ
藩士の子弟が学問と武道を学ぶ場として
1855(安政2)年に 開校している。
教室にあたる文学所 武術を学ぶ剣術所 柔術所
弓術所 槍術所などが配置されている。
当時の時間割には 東洋・西洋の医学 小笠原流礼法
西洋の軍学なども 組み込まれており
先進的な教育が行われていた。
250の藩校の多くが 幕府の学問所にならって
敷地内に孔子廟を設け 儒教を重んじる風習があったが
文武学校には設けていないことからも
近代的な学校の先駆けでもあった。
明治に入って兵制士官学校を併設し
1871(明4)年の廃藩にて
閉鎖となるまで多くの人材を輩出し
近代日本の発展に大きく寄与している。
建物は 創建時の姿を現在に伝わる貴重な遺構で、
1953(昭28)年に国の史跡に指定されている。
入館当日は 真夏のような陽気で暑かったが
天井が高く 涼しさを感じた。
このような施設から映画や時代劇の
ロケにもしばしば利用されている。
文学所
槍術所