この坂木の地でも「和算」が
盛んであったようで その展示もあった。
日本の数学は 飛鳥・奈良時代の頃
中国から数学書や計算の道具である
「算木」(短い棒を縦・横に並べて数を表す)が
伝来し少しずつ発達した。
室町時代には中国から流入した「そろばん」は
江戸時代に入り産業や経済の発達を背景に武士や商人 職人
さらには農民までが使用し
「そろばん塾」や「寺子屋」で学ばれた。
特に吉田光由が著した「塵劫記」(じんこうき)は
そろばんを使った計算法や実用的な問題を解く方法を
わかりやすく紹介されたことから
江戸時代のベストセラーになった。
17世紀後半、「算聖」こと関孝和が登場すると
中国から伝来した高度な計算法である天元術を
さらに進歩させた方法=点鼠術(てんざんじゅつ・筆算式代数学)を考案し
日本独自の数学を築き上げた。
関孝和に始まる「関流」をはじめ
和算はいくつもの流派(最上流、宅間流、宮城流など)を生み
江戸、京、大阪を中心に全国へと広がった。
和算は 土木工事から天体観測
商業など実用的な面を持ちながらも、
俳句、和歌と同じような趣味感覚で
難解な問題を発見し解くことを楽しむ
世界でもまれな文化として成長し、
そのレベルは 西洋数学の最高水準に 匹敵するものもあった。
(説明文等から)
「算額」とは 数学の問題が解けたことを神仏に感謝するとともに
その成果を効率よく民衆に知らしめるため
人に集まる神社仏閣を発表の場として奉納した数学の“絵馬”で
江戸時代中期ごろから始まった風習といわれる。
さらに難問や問題だけを書いて
解答を付けないで奉納するものも現われ
その問題を見て解答を算額にして
また奉納するといったことも行われた。
このような “算額奉納” の習慣は世界にはなく
日本独自の文化であった。
しかし 明治時代に入ると 西洋数学が導入され
日本の教育現場から消えていった。
現在、算額は全国に約820面が現存していて
ここ長野県には66面があるそうだ。
関孝和(1642‐1708年)の墓は
浄輪寺(東京都新宿区弁天町)にある。
江戸時代中期の和算家で 幕府に使え
勘定吟味役や御納戸組頭を勤めた。
従来の算木法から筆算になおして
解く「帰源整法」を発見した。
さらに「行列式論」「正多角形理論」などの
分野を開拓し和算の発展に貢献し
多くの弟子を持ち「関流算法の祖」と呼ばれる。
「和算の侍」(新潮文庫)
天才算術家 関孝和に師事し
理を究めた高弟 建部賢弘(かたひろ)はじめ
江戸の天才数学者たちの数奇な
人生模様を描く物語も読んでみた。