滅多に行かない美術館でふと見つけて「いらないものは買わなくちゃ」買いした
「名画のネコはなんでも知っている」(井出洋一郎)
←飼ったことはないけど気になる存在
まぁともかく私はてんで絵というものに造詣が深くない、ぶっちゃけ皆無なのでどうかと思いましたが、これ非常におもしろい本でした。猫が含まれている名画を次々76点、時代背景やら絵のモチーフの意味するところなど、猫中心で読み解こうという対談ものなんですけど。
ルネッサンスからロココに至る西洋近世、たとえばですが「最後の晩餐」のように神話ドリブンで描かれた壁画などでは、絵全体をさっと見ると猫の存在には気が付かないようなものが多いのです。猫はひっそりと足元にいて、そのはるか頭上で人間対人間のドラマが展開されているような。
でも、そんな、絵の構図としてはあってもなくても成立するはずの「猫」をわざわざ描きいれたからにはそこに明確な意図があるのですよね。
小さく描かれた猫は、あるときは愛らしく、あるときは凛として、またあるときは何か狙ってたり、不気味だったりと絵によっていろいろですが、考えてみればそのように多彩な表情を見せるのが猫でしょう。犬は猫ほど存在感小さくなりませんし、猫ほど意味(?)が多様でもないような気がします。
この本で紹介されている一点目、「聖ヒエロニムス」では素敵な書斎で読書しているその聖ナントカさんが描かれていますが、その書斎ってのがね。小さくて、机と椅子と書棚が並んでいる程度のシンプルなものなのですが、これがそっくりゆったり広々の聖堂建築の中におさまっているんです。猫は、聖堂から一段上がった書斎の床のすみっこに「ちょん」とうずくまっているのですが、この本の解説によれば「犬では吠えるし、室内犬は構われたいしでうるさいものね。その点猫は仕事の邪魔にならないけれど気分転換にはなる。」とあります。
そうなの? けっこう仕事の邪魔になる話も聞くけど…
「最後の晩餐」バッサーノという人が描いた絵だと、人間たちがずいぶん賑やかでくつろいだ晩餐を繰り広げている中で、すみっこに半身だけ見える猫は耳をピンと立てて警戒の体勢です。ここでの猫は、ユダの裏切りという悪いニュースが来ることを象徴しているのでしょう。一方、いつも人間に忠実な犬は、画面中央下、人々の足元で丸くなって寝ており、危機感のカケラもありません。
タイトルは同じ「最後の晩餐」、ギルランダイオという人が描いた絵だと、長い机の片側に11人の使徒とイエス・キリストが座っていて、ユダだけがキリストと差向いでテーブルのこちら側にいる構図です。つまりすでに被告席というか、のっぴきならない孤独のうちにあると思われるのですが、猫はユダの傍らに、ユダと同じく「しゃきっとして」座っているのです。このときの猫は、ユダの心境を表すものなのでしょう。
もちろん、絵の読み方に正解はなく、この本に書かれている「解釈」以外の捉え方は考えられると思います。でも、こうやって、猫をキーにしていろんな想像をする例を見せてもらうと、絵の楽しみ方も豊かになりそうじゃありませんか。
第二章の、西洋でも20世紀に至る絵となると、猫が描かれるときにはもっと大きな存在で出てくることが多いようです。テーブルの上やソファーの上にいたり、人とじゃれてたりとか、人に抱かれていたり、なんとなく猫の地位に変化があったのかもしれません。
ミレーの「牛乳をかき混ぜる女」では、猫はそのかきまぜる人にごろごろすりすりしています。たぶん、あとで撹拌棒についた濃いぃやつとか舐めさせてもらいたいんですね。
ルノワールの「猫を抱く女性」では、ふくよかな女性に猫が抱き上げられ頬ずりされているのですが、絵をみると明らかに、猫が嫌がっているらしく、目がつりあがって耳も立っています。なんでわざわざこの状態を描いたのか??
そんな具合で、想像してるときりがなく、明確に「読み始める、読み終わる」というのがない本です。また手にとってはパッと開いたページをまじまじと見てしまう…そんな本です。リビングに一冊いかが(^^)
#あ、やっぱり猫は仕事の邪魔になるという気が
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「はじめての中学受験 第一志望合格のためにやってよかった5つのこと~アンダンテのだんだんと中受日記完結編」ダイヤモンド社 ←またろうがイラストを描いた本(^^)
「発達障害グレーゾーン まったり息子の成長日記」ダイヤモンド社
(今回もイラストはまたろう)
「名画のネコはなんでも知っている」(井出洋一郎)
←飼ったことはないけど気になる存在
まぁともかく私はてんで絵というものに造詣が深くない、ぶっちゃけ皆無なのでどうかと思いましたが、これ非常におもしろい本でした。猫が含まれている名画を次々76点、時代背景やら絵のモチーフの意味するところなど、猫中心で読み解こうという対談ものなんですけど。
ルネッサンスからロココに至る西洋近世、たとえばですが「最後の晩餐」のように神話ドリブンで描かれた壁画などでは、絵全体をさっと見ると猫の存在には気が付かないようなものが多いのです。猫はひっそりと足元にいて、そのはるか頭上で人間対人間のドラマが展開されているような。
でも、そんな、絵の構図としてはあってもなくても成立するはずの「猫」をわざわざ描きいれたからにはそこに明確な意図があるのですよね。
小さく描かれた猫は、あるときは愛らしく、あるときは凛として、またあるときは何か狙ってたり、不気味だったりと絵によっていろいろですが、考えてみればそのように多彩な表情を見せるのが猫でしょう。犬は猫ほど存在感小さくなりませんし、猫ほど意味(?)が多様でもないような気がします。
この本で紹介されている一点目、「聖ヒエロニムス」では素敵な書斎で読書しているその聖ナントカさんが描かれていますが、その書斎ってのがね。小さくて、机と椅子と書棚が並んでいる程度のシンプルなものなのですが、これがそっくりゆったり広々の聖堂建築の中におさまっているんです。猫は、聖堂から一段上がった書斎の床のすみっこに「ちょん」とうずくまっているのですが、この本の解説によれば「犬では吠えるし、室内犬は構われたいしでうるさいものね。その点猫は仕事の邪魔にならないけれど気分転換にはなる。」とあります。
そうなの? けっこう仕事の邪魔になる話も聞くけど…
「最後の晩餐」バッサーノという人が描いた絵だと、人間たちがずいぶん賑やかでくつろいだ晩餐を繰り広げている中で、すみっこに半身だけ見える猫は耳をピンと立てて警戒の体勢です。ここでの猫は、ユダの裏切りという悪いニュースが来ることを象徴しているのでしょう。一方、いつも人間に忠実な犬は、画面中央下、人々の足元で丸くなって寝ており、危機感のカケラもありません。
タイトルは同じ「最後の晩餐」、ギルランダイオという人が描いた絵だと、長い机の片側に11人の使徒とイエス・キリストが座っていて、ユダだけがキリストと差向いでテーブルのこちら側にいる構図です。つまりすでに被告席というか、のっぴきならない孤独のうちにあると思われるのですが、猫はユダの傍らに、ユダと同じく「しゃきっとして」座っているのです。このときの猫は、ユダの心境を表すものなのでしょう。
もちろん、絵の読み方に正解はなく、この本に書かれている「解釈」以外の捉え方は考えられると思います。でも、こうやって、猫をキーにしていろんな想像をする例を見せてもらうと、絵の楽しみ方も豊かになりそうじゃありませんか。
第二章の、西洋でも20世紀に至る絵となると、猫が描かれるときにはもっと大きな存在で出てくることが多いようです。テーブルの上やソファーの上にいたり、人とじゃれてたりとか、人に抱かれていたり、なんとなく猫の地位に変化があったのかもしれません。
ミレーの「牛乳をかき混ぜる女」では、猫はそのかきまぜる人にごろごろすりすりしています。たぶん、あとで撹拌棒についた濃いぃやつとか舐めさせてもらいたいんですね。
ルノワールの「猫を抱く女性」では、ふくよかな女性に猫が抱き上げられ頬ずりされているのですが、絵をみると明らかに、猫が嫌がっているらしく、目がつりあがって耳も立っています。なんでわざわざこの状態を描いたのか??
そんな具合で、想像してるときりがなく、明確に「読み始める、読み終わる」というのがない本です。また手にとってはパッと開いたページをまじまじと見てしまう…そんな本です。リビングに一冊いかが(^^)
#あ、やっぱり猫は仕事の邪魔になるという気が
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「はじめての中学受験 第一志望合格のためにやってよかった5つのこと~アンダンテのだんだんと中受日記完結編」ダイヤモンド社 ←またろうがイラストを描いた本(^^)
「発達障害グレーゾーン まったり息子の成長日記」ダイヤモンド社
(今回もイラストはまたろう)