ピアノ再開後、最初の発表会では大崩壊(頭まっしろ事件)しています。そういう人はけっこういるかも…
←過去の自分を見て「下手だなぁ」と思えないならそれはそれでちとまずい
子どものころの発表会では、だいたいふだんの練習より本番のほうがいいというのが相場で、それは緊張のマイナスより真剣度でトータルプラスになっているからでしょう。小学校三年生のときの「エリーゼのために」の録音を聞きますと、てきぱきと何の停滞もなく(そして面白みもまったくなく)達者に弾いてます。暗譜です。
そこからン十年経っても、なんか発表会では暗譜で弾くものという固定観念があったので(そして先生もそれを止めたりはしなかったので)暗譜で弾いたんです。曲はメンデルスゾーンの無言歌から「さすらい人」。
詳細はあまり記憶にありませんが、練習のときにはいちおう暗譜で弾けてるつもりになってたと思うんです。つまり、楽譜を置かずに、音を並べているという現象は確かに存在した、はず。
ただしそれは手指の運動によるなんとなくの記憶であり、それががちがちの緊張により手の運動性能が通常と異なってしまった場合、曲の進行を支えるものがなくなってしまったようです。手がこわばると、「このくらい」の感覚(間隔)がふだんと違ってしまい、予定の位置(音)に当たらない。記憶と違う音が鳴るわけですから、よけいパニックになって、緊張のポジティブフィードバックがかかります(→頭まっしろ)。
私の暗譜ギライ、断固拒否はこのときのトラウマが大きいかなぁ…もちろん、現実問題、覚えるほど練習できないってのがありますがね…
そこで二回目の発表会では、まず楽譜は置くということ、それと手の運動をあてにせず音を聞くことによる把握を重視するということかな(いや、当たり前ですねそもそも)。それと、発表会直前に先生が数人での弾き合い会を企画してくださって、それも緊張緩和によかったと思います。
昨日、古いDVDを引っ張り出して、このときのラフマニノフ「エレジー」を聞いてみたのですが…
ほんとに、思ったよりずっとしっかりした演奏でした。
めっさ幅広いアルペジオの上に骨太なメロディーがのっかって、荒涼たる大地に寒々しい風が吹いているようなロシアっぽい曲ですが、ちゃんとフレーズの形もあり、メリハリもあり、なかなか落ち着いて演奏しています。
全体の流れというか構成もよいと思いますが、音を探すがごとき(ってたぶん、ほんとに音を探してるんですが)間が随所にあって、違和感というか停滞感をよんでいます。この欠点は連綿と今につながっているのではあるんですが、今よりもっと顕著です。
今との一番の違い(と私が思ったもの)は、音色です。かなりの叩き弾きでうるさい感じです。
でも曲の表現というか「フレーズの形」は思ってたよりずっとできていて、つまらない演奏ではありません。ある意味、意外なのですが(わりと何も考えないで弾いてたはずなので!!)。
どうやらこのころは、先生がわりと「こう弾く」というのを具体的に、表現のレベルまで教えてくれていたようなのです。先生に言われたように、弾く。少なくともカタチの上では。
私はこの先生に八年間習っていたのですが、おそらく最初のうちは「こう弾く」ということを相当丁寧に先生がとりあえず決めて具体的に指示してくれていたのだと思います。それを、六年目…七年目となるあたりで、どう表現したいかを自分で考えさせようと先生が移行を図ったところでうまくかみ合わなくなり、「どう弾きたいかがわかりません」と頓挫してしまったように思います。
私がエレジーを聞いていたら、よしぞうもいっしょに聞いていて、それで「弾き方が今とずいぶん違うね」と言いました。それで(今の)音色のことをホメてくれてるのかな、と思ったらよしぞうの口から出た言葉は別のことでした。
「今何が違うかといったら曲への『愛』だね」
エレジーのときの演奏は全体に「曲が好き」オーラがあまりないといいます。自分としてはもちろん、好きな曲を選んではいたんですけど、でも確かに、昨日の記事に書いたように「うまく聞こえる曲は?」という視点で選んでいる点が違うかもしれません。あと、うまくいえないのですが…曲が、というかもっとミクロにここの響きが好きということでもいいんですが、「愛」が演奏を通して聞いてる人に伝わるものだという「信頼」をこのころは持っていなかったと思います。
それが一番の違いかな。
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(今回もイラストはまたろう)
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子どものころの発表会では、だいたいふだんの練習より本番のほうがいいというのが相場で、それは緊張のマイナスより真剣度でトータルプラスになっているからでしょう。小学校三年生のときの「エリーゼのために」の録音を聞きますと、てきぱきと何の停滞もなく(そして面白みもまったくなく)達者に弾いてます。暗譜です。
そこからン十年経っても、なんか発表会では暗譜で弾くものという固定観念があったので(そして先生もそれを止めたりはしなかったので)暗譜で弾いたんです。曲はメンデルスゾーンの無言歌から「さすらい人」。
詳細はあまり記憶にありませんが、練習のときにはいちおう暗譜で弾けてるつもりになってたと思うんです。つまり、楽譜を置かずに、音を並べているという現象は確かに存在した、はず。
ただしそれは手指の運動によるなんとなくの記憶であり、それががちがちの緊張により手の運動性能が通常と異なってしまった場合、曲の進行を支えるものがなくなってしまったようです。手がこわばると、「このくらい」の感覚(間隔)がふだんと違ってしまい、予定の位置(音)に当たらない。記憶と違う音が鳴るわけですから、よけいパニックになって、緊張のポジティブフィードバックがかかります(→頭まっしろ)。
私の暗譜ギライ、断固拒否はこのときのトラウマが大きいかなぁ…もちろん、現実問題、覚えるほど練習できないってのがありますがね…
そこで二回目の発表会では、まず楽譜は置くということ、それと手の運動をあてにせず音を聞くことによる把握を重視するということかな(いや、当たり前ですねそもそも)。それと、発表会直前に先生が数人での弾き合い会を企画してくださって、それも緊張緩和によかったと思います。
昨日、古いDVDを引っ張り出して、このときのラフマニノフ「エレジー」を聞いてみたのですが…
ほんとに、思ったよりずっとしっかりした演奏でした。
めっさ幅広いアルペジオの上に骨太なメロディーがのっかって、荒涼たる大地に寒々しい風が吹いているようなロシアっぽい曲ですが、ちゃんとフレーズの形もあり、メリハリもあり、なかなか落ち着いて演奏しています。
全体の流れというか構成もよいと思いますが、音を探すがごとき(ってたぶん、ほんとに音を探してるんですが)間が随所にあって、違和感というか停滞感をよんでいます。この欠点は連綿と今につながっているのではあるんですが、今よりもっと顕著です。
今との一番の違い(と私が思ったもの)は、音色です。かなりの叩き弾きでうるさい感じです。
でも曲の表現というか「フレーズの形」は思ってたよりずっとできていて、つまらない演奏ではありません。ある意味、意外なのですが(わりと何も考えないで弾いてたはずなので!!)。
どうやらこのころは、先生がわりと「こう弾く」というのを具体的に、表現のレベルまで教えてくれていたようなのです。先生に言われたように、弾く。少なくともカタチの上では。
私はこの先生に八年間習っていたのですが、おそらく最初のうちは「こう弾く」ということを相当丁寧に先生がとりあえず決めて具体的に指示してくれていたのだと思います。それを、六年目…七年目となるあたりで、どう表現したいかを自分で考えさせようと先生が移行を図ったところでうまくかみ合わなくなり、「どう弾きたいかがわかりません」と頓挫してしまったように思います。
私がエレジーを聞いていたら、よしぞうもいっしょに聞いていて、それで「弾き方が今とずいぶん違うね」と言いました。それで(今の)音色のことをホメてくれてるのかな、と思ったらよしぞうの口から出た言葉は別のことでした。
「今何が違うかといったら曲への『愛』だね」
エレジーのときの演奏は全体に「曲が好き」オーラがあまりないといいます。自分としてはもちろん、好きな曲を選んではいたんですけど、でも確かに、昨日の記事に書いたように「うまく聞こえる曲は?」という視点で選んでいる点が違うかもしれません。あと、うまくいえないのですが…曲が、というかもっとミクロにここの響きが好きということでもいいんですが、「愛」が演奏を通して聞いてる人に伝わるものだという「信頼」をこのころは持っていなかったと思います。
それが一番の違いかな。
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(今回もイラストはまたろう)