結局、平均律のピアノで弾くならば、ナニ調でも同じでしょといわれれば、すごーく、反論はしづらい。
←調律のお値段は平均律でもキルンベルガーでも同じでした
調によらず、相対的な音の関係は同じであるから、というかどうせ同じだけ濁っているので、まぁなるべくシャープやフラットを読みたくないと思えば、全部ハ長調かイ短調にしちゃえばってコトですよね。絶対音感がある人は「元の曲と違うっっっ」と文句を言うかもしれませんが、まぁ私ならたぶん気にならない。というより気が付かない。
でも、ベートーベンさんは気にする人だったようです。というか平均律前提の世界に住んでなかったので
「緊張3度をもつホ長調から祝典的な表現に適したニ長調、ト長調への移調はできない」
とか言ってたそうです。
これはどういうことかというと、キルンベルガー音律でいうとホ長調の長3度「E-Gis」は平均律よりさらに幅広く、ニ長調「D-Fis」とト長調「G-H」はいずれも純正(平均律よりかなり狭い)なんですね。そういう意味で、曲の調子が変わってしまうので、移調はできない、と。
つまり、移調はしないにしても、平均律のピアノで弾くと、ベートーベンの意図した響きとは既にちょっと違うっていうことになります。
ところで、ベートーベンがなんでそんなに「キルンベルガー推し」なのかというと、そもそもベートーベンのいたころは、ちょうど「等分平均律」について議論されてるところで、でもまだ普及はしていなくて、一般的なのがその音律だったようですが、それだけじゃありません。
キルンベルガーというのは人の名前で、この人は大バッハのお弟子さんなのですが、「純正作曲の技法」という本を書いています。そして、ベートーベンがウィーンで本格的に作曲の勉強を始めたとき、彼を教えたアルブレヒツベルガーはこの本を使って指導したんだって…
というわけで、ベートーベンは「音律は作曲の一部であり、最も重要なもの(by キルンベルガー)」という発想で作曲をしていた、ようです。
けどモーツァルトの好きだった音律は「ミーントーン」と呼ばれているもので、これだとあんまりシャープやフラットが多い調には向かなくて、三つか四つくらいが限界だとか(確かに、モーツァルトの曲は、シャープ六つあったりとかはない)。
お好みの音律が違えば、おのずから調ごとのキャラクターというものも違ってくるかもしれませんね。
だから、「この調はこうだ」みたいな意見は、そんなにきれいにまとまってくるもんじゃないとは思います。
「調の性質については、何も絶対的なことを言うことはできない。なぜならば、どんな調もそれ自体では、その逆を作曲し得ないほど悲しかったり楽しかったりすることはできないからである」(by マッテゾン)
まとまんない、ながらも、ともかく調によって響きが違うことを前提として作曲された曲があって(大雑把にいって、ショパンの時代くらいまで?)、ではそれを、現代の平均律ピアノで弾く場合に調になんの意味があるのかというと、
作曲家が何を考えていたかということを考える中のひとつの手掛かりが「調」であって、それで、こういう響きを求めていたんだろう、ということがわかったとしたら、
あとは弾く人が、そういうつもりになって弾く。
弾くピアノが平均律であれば、調による響きの違いの部分は妄想かもしれないんですが、結局のところ「妄想」がだいじなんですよ音楽には。ということならば、会場のピアノが全部平均律であっても、おうちで別の音律を試す価値はあるのかもしれない、と思うわけです。
(注: 今回の記事内容は「やわらかなバッハ」を参考に書いていますが、この著者、かなり極端な人のような気もするので…そのうちウラを取りたいと思います)
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(今回もイラストはまたろう)
←調律のお値段は平均律でもキルンベルガーでも同じでした
調によらず、相対的な音の関係は同じであるから、というかどうせ同じだけ濁っているので、まぁなるべくシャープやフラットを読みたくないと思えば、全部ハ長調かイ短調にしちゃえばってコトですよね。絶対音感がある人は「元の曲と違うっっっ」と文句を言うかもしれませんが、まぁ私ならたぶん気にならない。というより気が付かない。
でも、ベートーベンさんは気にする人だったようです。というか平均律前提の世界に住んでなかったので
「緊張3度をもつホ長調から祝典的な表現に適したニ長調、ト長調への移調はできない」
とか言ってたそうです。
これはどういうことかというと、キルンベルガー音律でいうとホ長調の長3度「E-Gis」は平均律よりさらに幅広く、ニ長調「D-Fis」とト長調「G-H」はいずれも純正(平均律よりかなり狭い)なんですね。そういう意味で、曲の調子が変わってしまうので、移調はできない、と。
つまり、移調はしないにしても、平均律のピアノで弾くと、ベートーベンの意図した響きとは既にちょっと違うっていうことになります。
ところで、ベートーベンがなんでそんなに「キルンベルガー推し」なのかというと、そもそもベートーベンのいたころは、ちょうど「等分平均律」について議論されてるところで、でもまだ普及はしていなくて、一般的なのがその音律だったようですが、それだけじゃありません。
キルンベルガーというのは人の名前で、この人は大バッハのお弟子さんなのですが、「純正作曲の技法」という本を書いています。そして、ベートーベンがウィーンで本格的に作曲の勉強を始めたとき、彼を教えたアルブレヒツベルガーはこの本を使って指導したんだって…
というわけで、ベートーベンは「音律は作曲の一部であり、最も重要なもの(by キルンベルガー)」という発想で作曲をしていた、ようです。
けどモーツァルトの好きだった音律は「ミーントーン」と呼ばれているもので、これだとあんまりシャープやフラットが多い調には向かなくて、三つか四つくらいが限界だとか(確かに、モーツァルトの曲は、シャープ六つあったりとかはない)。
お好みの音律が違えば、おのずから調ごとのキャラクターというものも違ってくるかもしれませんね。
だから、「この調はこうだ」みたいな意見は、そんなにきれいにまとまってくるもんじゃないとは思います。
「調の性質については、何も絶対的なことを言うことはできない。なぜならば、どんな調もそれ自体では、その逆を作曲し得ないほど悲しかったり楽しかったりすることはできないからである」(by マッテゾン)
まとまんない、ながらも、ともかく調によって響きが違うことを前提として作曲された曲があって(大雑把にいって、ショパンの時代くらいまで?)、ではそれを、現代の平均律ピアノで弾く場合に調になんの意味があるのかというと、
作曲家が何を考えていたかということを考える中のひとつの手掛かりが「調」であって、それで、こういう響きを求めていたんだろう、ということがわかったとしたら、
あとは弾く人が、そういうつもりになって弾く。
弾くピアノが平均律であれば、調による響きの違いの部分は妄想かもしれないんですが、結局のところ「妄想」がだいじなんですよ音楽には。ということならば、会場のピアノが全部平均律であっても、おうちで別の音律を試す価値はあるのかもしれない、と思うわけです。
(注: 今回の記事内容は「やわらかなバッハ」を参考に書いていますが、この著者、かなり極端な人のような気もするので…そのうちウラを取りたいと思います)
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(今回もイラストはまたろう)