アンダンテのだんだんと日記

ごたごたした生活の中から、ひとつずつ「いいこと」を探して、だんだんと優雅な生活を目指す日記

狭いストライクゾーンにテンポが決まると

2015年06月07日 | バイオリン
今日は、サロンエスプリで、弦楽器の生徒さん(のうち、大人)が集まる発表会でした。

   にほんブログ村 クラシックブログ ヴァイオリンへ←モルダウはわりとよい出来だったと思うのだが録音機忘れたから証拠はない

大人ばっかりだと、そりゃもう欲張った大曲がどんと並びますので…
ピアノの場合と違って、それにいちいち伴奏つけなきゃいけないわけで先生も大変です。

「ばんたの(素人が伴奏を楽しむ会)」は、伴奏する側がいっぱいいっぱいで、そこに上手に合わせてもらうという会ですが、
この場合は、バイオリンがいっぱいいっぱいで、伴奏する側がそこに合わせるのね。

「ばんたの」では、難曲大曲いくつ来てもばっさばっさと中川Vn先生が対応してくださってますが(笑)
ピアノはそうなんでもかんでもいっぺんに伴奏するってのはきついので、
中川P先生一人ではなくて分担しています。

私ときーちゃんさんがここ何回か指名でお願いしているのは、A先生。
A先生の鉄板の伴奏ぶりは、一度お願いするとやみつきになりますから(^^;;

こちらの超不安定な成行きを、ソフトに着実に支えつつ、事故には臨機応変に対応、
音楽の骨格をしっかり示して、
バイオリンをどう弾くべきかも見えてくるというような。

今日、本番前にささっと合わせる時間があったのですが(モルダウ)、一回目に始まったテンポはやや速すぎて私は「水」のところ「必死」。途中でいったんやめたときに「ちょっと速いですね」といって遅くして再開したらやや遅すぎ。

ほんとに、微妙な、違いなんですけどね…

速いと細かい音符が難しいので、演奏に必死感が漂ってしまいます(曲がわかりにくくないので落ちるまではいかないけど)。
遅いとノリが悪くて聞いた感じがダルくなってしまいます(^^;;

速いと困っちゃうのはきーちゃんさんでも伴奏者でもなく「私」なのですが、この曲、困ったことに私が出る前にテンポが決まっちゃってるんですね。

速さを決めて曲の出だしを作るところ、もう一度やっておきたかったのですが時間がなく、私は先生に
「一度目のと、二度目のの、間のテンポでお願いします。」
と無茶振りしました。

しかし、その合わせと、私たちの本番までには、別の曲を何曲も合わせやって、何曲も本番やって、そんだけ間が空いちゃいますからね。

まさかそんなこと、うまくいくとは期待していませんでした。ところが。

本番、滑り出したテンポはジャスト!!

細かい音符を弾く精度の低下は最小限、
かつ、ノリよくモルダウが流れる範囲。

私がベストの演奏をできるテンポを、まさにピンポイントで突いてこられました。

演奏が終わってから、「ありがとうございました!!」というと「テンポちょうどよかったでしょ」とにっこり。
プロってすごい(o_o)

絶対音感よりある意味もっと切実に必要な、
絶対テンポ感。

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人は評価基準に振り回される

2015年06月04日 | ピアノ
昨日書いたように、カラオケの採点というのは、歌の良し悪しを完璧に評価してるわけじゃないけれど
> なにしろ機械のすることだからね!? 過剰に信頼することもなくシャレとして楽しめるでしょう。
と思います。

   にほんブログ村 クラシックブログ ピアノへ←「評価」の導入は、慎重に。

ただ、それはそうなのですけど、点数というものが出れば気になるのは人間の常でして、やはりその点数をてっとり早く上げるという行為はどうしても魅力的に映るのです。

ずいぶん前に見たカラオケバトル番組で、プロの歌い手さんとえなりかずきさんがガチンコ対決…もちろん歌のうまさで勝負しようといっても無理ですが、えなりさんはカラオケ採点を徹底的に研究したのです。カラオケに採点されやすいノリ、ビブラート、声の出し方、メリハリなど、「こうすれば加点」を追究して、それで結果どちらが勝ったか忘れましたが、聞いた感じのうまさよりずいぶん高い点数を叩き出して好勝負でした。(とはいっても歌としてもちゃんとそれなりにうまかったんですけどね)

採点(評価)の仕組みに人間と違うところがあるとすれば…というか、実際かなりあるんですけど、
できることが限られている中で、どうしても評価を上げたいとすれば、評価関数を精査したうえで、それに沿って努力することになります。

つまり、
・評価がうまくできているならば→わかりやすい目安を利用することで、効果的に実力アップが図れる
ともいえますし、
・評価がねじれているならは→努力の方向が本筋から離れてしまう
ということになるわけです。

カラオケ採点の場合、ある程度から先は、点数の極限を追究することで、かえって歌の感動から離れてしまうということがありそうです。もちろん、えなりさんの場合は、芸人として求められている努力をしただけで、ある意味本筋ですけどね(歌のプロを目指しているのではないですから)。


私は仕事で、翻訳品質の評価をすることがあったのですが、あるとき、ツールでの翻訳チェックを点数化したものが、しっかり読んで翻訳品質の良し悪しを評価したものと、かなり相関が高いということに気づきました。

人間がじっくり読んで評価するのはそりゃたいへんです。
ツールチェックでミスを数えるのはずっと簡単です。

だから一時、ツールチェックで出した「点数」を、翻訳品質の評価値として流用していたことがあったんですが。

それでどうなったかといいますと…いうまでもなくご想像どおりの結末です。

ツールチェックで出る点数がよくなるようにちょっとした「お化粧(ミスチェック)」をほどこされるようになってきます。

そうすれば、ツール評価と、真の評価の間にあった相関は崩れます。

便利にツールで評価できる時代は、「評価関数のカタチ」がバレるまでの期間だけだったということになったのです。

何がいいたいかというと、「評価関数のカタチ」が別段無意味なものではなく、目指しているものの「一部」を取り出したようなものだったとしても、その評価関数が「ほんもの」でない以上、評価される対象の人々の努力の方向をゆがめてしまうということなのです。

アマチュアがピアノコンクールに出るという場合、そのコンクールが上達の糧になるかどうかは、「評価のカタチ」が自分の目指すものに合っているかどうか次第ということになるでしょう。それって、昨日書いた合唱コンの例でもわかるとおり、実際にはかなり難しいことなんじゃないかなと思うのですが。つまり、審査員がアホなら空しくて、アホじゃないのに何か別の要因に左右されて好評価を逃すことがあったりすれば腹立たしいというわけです。

子どもをコンクールに出す場合は、そのような問題に加えて、幼ければ幼いほどもうひとつ難しい点があります。つまり、仮に評価が現状の演奏の到達点をある意味正しく測っているとしても、短期的にそれを最大化するのがここから先の長きにわたる(はずの)音楽ライフを最も幸せにする道なのかどうかってのは怪しいということです。

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演奏を評価すること

2015年06月03日 | 大学生活
カラオケの採点って、なかなかよくできていると思う。

   にほんブログ村 クラシックブログ ピアノへ←それでも評価してもらいたい気持ちってのも、わからなくはないけど

人が歌うという行為をド下手からプロまで幅広くやったとして、それをカラオケ採点によりずらりと一列に並べたら、まぁざっくりいって「ちゃんと」(一次近似的に?)うまい順に並ぶんじゃないだろうか。音程やリズムが正確かどうかが判定されるだけでなく、音量もメリハリがついてるかとか、声がよく出てるかとか、そういったものも加味して採点されるので、まぁまぁ妥当に採点されるみたい。

もっとも、すごくうまいのの中でどれが一番「ぐっときた!!」かとかは好みの問題もあるしカラオケ評価とはあまり一致しなかったりするけど…

そう、つまり、正確にいえば好きな演奏順には並ばないかもしれないけど、機械採点としてはそうなるかな(いくらうまくても音程やリズムを崩し過ぎると点は伸びない)という納得性というものはある。

なにしろ機械のすることだからね!? 過剰に信頼することもなくシャレとして楽しめるでしょう。

けど、これが、人間が採点するとなると、納得できる評価が得られるとは限らない。

またろうもこじろうもはなひめも、それぞれ中学で「合唱コン」というのを経験している。コンクールと銘打ってはいるけれど、歌を好きな子も嫌いな子も、全員参加のクラス対抗だからたいして粒ぞろいなわけもなく、うまい下手ははっきり違いが出てくると思うんだけれども…

これがなかなか、聞いた感じのとおりに賞が出るものではないのだ。たとえば5クラス分聞いて、AとBだったら微妙かな、でもAのほうが少しよかった、CとDは下手だな、Eはもっとダメだなっていうのがあったとして、それが結果はBの勝ちだった、というならまぁわかる。けど、Cが勝ちだったりすると、えぇっ(o_O)なんで

およそ、こじろうの学校のは全然わかんない。はなひめとまたろうのはわりと「AとBのどっちかだろう」くらいで当たることが多い。

この違いは何かというと、こじろうの学校の場合、審査員が音楽の先生じゃないのだ。理科とか国語とか(^^;; それで演奏としての良し悪しというより、ふだんの人間関係(笑)とか、先生の政治力(爆)などで左右されるとかされないとか。あるいは先生自身別にえこひいきなどをしているつもりはなく、単に音楽がわからないのかもしれない。

はなひめとまたろうの学校で、それよりは「当たる」のはなぜかというと、審査員が7人くらいいてもそれが全部音楽専門の人なのだ。またろうの学校は公立中だったけど、校長先生自身が声楽の人で、審査員は近隣の小中学校の音楽教師をかき集めていたから。

それで、またろう中三のとき、クラスの結束がよくてとてもよい演奏だった。曲は「親知らず子知らず」

…母を呼ぶ子のすすり泣きがきこえぬか…

背筋がぞくっとする迫力で、最後に音が消えたときには、感動の静寂が一瞬訪れたあと、気を取り直したように大きな拍手だった。
ただ、惜しむらくは、男声の音程がやや不安定だったところ。音楽のうまい下手として考えるとどうなんだろう。

その年の審査は、ちょっと長引いていたんだけど、どうも、歌として感動的だったものと、音楽的にもっと無難にうまかったものと、どっちを勝たせるか揉めていたみたい。結果は、またろうのクラスの負け(銀賞)だったけど、校長先生のコメントを聞くに、先生はまたろうたちのクラスを推していたような雰囲気だった。

こういう場合、結果として勝った負けたということに、どういう意味があるのだろうか?

また、去年のはなひめの合唱コンのときに、数人の保護者で聞いていて(クラスはバラバラ)ここがトップだろうと意見一致したところがあったけど、そのクラスは何の賞も取らなかった、ということがあった(そのほかのクラスについてはわりと聞いたとおりの結果だった)。講評では(クラスを名指しはしないけど)入退場まで含めて採点対象ですとかいっていたのが関係あるのかないのか、こうなるともう何の評価だか!?

結局のところ、
・機械採点はその評価値の計算の仕方から考えて納得することはできるけれど、だからといってそれは音楽の良し悪しということに一致するわけではなく、
・わかってない審査員の評価にはさらに意味がなく(笑)、
・わかってるはずの審査員の、予想外の評価にはさらにさらに納得がいかず、

結局、評価(順番)をつけるってことは誰得なのかなぁとも思ってしまう。

音楽と採点って、馴染み悪いですよね? 相当。

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音律と、バッハの先見性!?

2015年06月01日 | ピアノ
昨日の記事の続き。「第9回工房コンサート全4回音律シリーズvol.4 最終回 しっかり聞いてドビュッシー~スライドする美意識~」では、三台のピアノが用意されていました。

   にほんブログ村 クラシックブログ ピアノへ←バイオリンだと音程が現場合わせだけど

ピアノというか、ひとつはモーツァルト時代のピアノフォルテ(のレプリカ)。これは、ミーントーンという調律がされていました。

あと二台は1920年代くらいのベヒ。ひとつは平均律、ひとつは平均律にとても近いナントカ(名前失念)で調律されていました。この二台は、調律がちょびっと違うんでしょうけど私にはわからないというか、「牧神の午後~」を二台ピアノで演奏されたときも違和感なかったです。というか、すばらしい演奏でした(*^-^*)

ミーントーンは、さすがにニブイ耳の私でも違うなって思うくらい違います。たとえば「ドミソドミソドミ~」って弾いたら天にも昇る幸せな響きですが、シャープやフラットの多い調で弾いたら「わっなにコレ」ってなります。

モーツァルトさんがこのミーントーンで調律されたピアノのために作曲していたかどうかはわかりませんが、ともかくミーントーンというのはその時代には使われていた調律であるそうです。ま、ともかく、ピアノといえば平均律で決まり、の現代とは異なる世界であったわけで…

モーツァルトが調ごとに異なる雰囲気というものをちゃんと意識して作曲していたらしいことは確かだそうです。そもそも、シャープとかフラットとかは3つまでしかついてない、ということですがなるほど…そういわれてみれば。あんまり考えたことがありませんでしたが(^^;;

私がバイオリンソナタ伴奏初挑戦した「モーツァルト バイオリンソナタKV304 二楽章」は、モツ様にしては珍しい短調の名曲で、すすり泣くようなハートわしづかみの悲しい旋律で始まりますが、途中でがらりと調子を変えて輝かしい長調(シャープ3つ)に転調するところがあります。というか、現代のピアノで弾けばそれはもう、華やかで明るくて、一点の曇りもない感じなのでそう思っていたのですが、実はモーツァルトはそういうつもりでなかったのかもしれない、という話をしていました。えー(o_o)

なにしろ、この長調パートをミーントーンのピアノで弾くと、単に明るいというよりは、何かこう不安がひっかかるというか、むしろ胸騒ぎ的な響きになってしまうんです。

モーツァルトは調性の性格もよく掴み、転調の天才でもあったので、もっときれいに響く調に持っていきたければできたはず。この歪みは意図されたものだったのではないかと。

ほかにもいろいろ例があるのでしょうけど、要するに平均律でない時代には、ちゃんと調によって違う響きというものがあって、作曲家はそれを意識して曲を書いていたのだろうという…納得の話ですね。

ところが、バッハです。彼は、モーツァルトよりさらに前の時代で、それこそ調ごとに違う響きになることが当然だったはずなのに。

そう、ご存じのとおり「平均律クラヴィーア」(もともと「平均律」は誤訳で、「いい具合に調律された」というような意味らしいが)なんて、シャープフラットこてこての調まで平等に使った曲集を出してますし、どうもわりとこだわりなく、ある曲を違う調に編曲しちゃうなんてのが平気の平左だったらしい。これはいったいどういうことなのか??

…ということでさんざん悩んだあげく、

昨日のレクチャーによれば、バッハは平均律の鍵盤楽器を持っていたのではないけれども、平均律(歪みを均等にならしてあって、どの調でも平等に弾けて聞けてしまう)の世界をいわば理想郷として予見して、そこに思いを託して「平均律クラヴィーア」を書いたのではないか、というような結論になっていました。

そうだとすると、バッハは、調による性格を否定して、どこの調でもまんべんなく使えるという便利を目指していたのかしらん。平均律のピアノが当たり前になって、純正なハモりが忘れられそうな現代を夢見て??

ウィキペだと
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しばしば議論の対象となるヨハン・ゼバスティアン・バッハ(1685年 - 1750年)の『平均律クラヴィーア曲集』(独原題 Das Wohltemperirte Clavier )については、かつてはバッハが平均律を用いれば、オクターヴの12の音を主音とする24の長短調で作曲できることを示したものとされていた。その後、20世紀後半に古楽研究が進むにつれて中全音律をはじめとする古典調律への関心が高まり、Wohltemperirteとは『よく調整された音律』という意味であり、必ずしも平均律を意味するものではなく、むしろバッハが意図したのはヴェルクマイスターの調律法のような、全ての調が演奏可能な不均等律である、という考えが一般的となった。ただしバッハが平均律を用いていた可能性も依然として否定はできない。
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と書いてあった。ますますよくわからん。

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