母のお兄さんが戦死したのは、あの“ノモンハン”だった。彼は、女系家族のやっと生まれた、たった一人の跡取息子だった。召集令状が来た時の家族の嘆きを、小さい時から何度聞かされたか。そして、その頃、戦争に召集されるのは跡取長男以外の次男・三男達だったとか。何か、役場でミスがあったらしいと・・・
私は30年くらい前に東京で結婚し生活を始めた。母は年に何回も遊びに来た。会えば一度は戦死した、母のお兄さんの話がでる。何年経っても、何十年たっても、その時の嘆きや哀しみは薄れる事はないと。靖国神社の話が出ても、一度も行きたいとはいわなかった。
ある時、15年か、もっと前か「靖国神社に行きたい」と言ったので、連れて行った。向かう車の中でも、ただひたすら、手を合わせ何かをつぶやいていた。駐車場について車から出ると「あんにゃ(新潟のお兄さんの方言)会いに来たよ」と涙ぐむ。神社をじーーーと見つめながら、涙ながらに歩いて行く。
手を合わせ、何かをつぶやきながら長い事たたずんでいた。母と同じような人達が、同じように手を合わせたたずんでいる。砂利を踏む音、ハトの羽ばたきと鳴き声、遠くでかすかに車の音。静かな静かな時が流れる。
家に着くまで何も言わなかった母。そして、夜、言った母の言葉が忘れられない。「いままで、行きたいと思ったけど行けなかった。やっと行く気になって、行ってよかった。一杯いっぱい、話してきた。忠さんがいなくなって、どんなに泣いたか。どんなに会いたかったか。忠さんのかわりに婿を取った事。百姓で苦労した事。」
「でも、やっぱり忠さんは靖国神社には、いなかった。行って来てスッキリした。これからも家の仏壇でお経をあげる」と言った。
そして、あれから一度も靖国神社に行きたいとも、また、話題にものぼらない。母のお兄さんの魂は、生まれた家に帰って来てると、母は思っている。
私は30年くらい前に東京で結婚し生活を始めた。母は年に何回も遊びに来た。会えば一度は戦死した、母のお兄さんの話がでる。何年経っても、何十年たっても、その時の嘆きや哀しみは薄れる事はないと。靖国神社の話が出ても、一度も行きたいとはいわなかった。
ある時、15年か、もっと前か「靖国神社に行きたい」と言ったので、連れて行った。向かう車の中でも、ただひたすら、手を合わせ何かをつぶやいていた。駐車場について車から出ると「あんにゃ(新潟のお兄さんの方言)会いに来たよ」と涙ぐむ。神社をじーーーと見つめながら、涙ながらに歩いて行く。
手を合わせ、何かをつぶやきながら長い事たたずんでいた。母と同じような人達が、同じように手を合わせたたずんでいる。砂利を踏む音、ハトの羽ばたきと鳴き声、遠くでかすかに車の音。静かな静かな時が流れる。
家に着くまで何も言わなかった母。そして、夜、言った母の言葉が忘れられない。「いままで、行きたいと思ったけど行けなかった。やっと行く気になって、行ってよかった。一杯いっぱい、話してきた。忠さんがいなくなって、どんなに泣いたか。どんなに会いたかったか。忠さんのかわりに婿を取った事。百姓で苦労した事。」
「でも、やっぱり忠さんは靖国神社には、いなかった。行って来てスッキリした。これからも家の仏壇でお経をあげる」と言った。
そして、あれから一度も靖国神社に行きたいとも、また、話題にものぼらない。母のお兄さんの魂は、生まれた家に帰って来てると、母は思っている。